武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

ボールのように(作品紹介758)と 脳の変革

2023-12-30 13:27:05 | Weblog

この絵は冊子にされています。

見開き2ページ分から抜粋。

「クリスマスの絵ありますか?」とお尋ねがあり、

クリスマス的な絵を紹介した絵の一枚になります。

クリスマスの仕事は、武内と相性が悪く、

絶望状態な中、クリスマス的と称してむりくり選ぶことに。

そして、もちろん話もまとまりません。

しかし、わたしはこの絵の右の青いページには思い入れがあり、

気に入っているので取り上げることにしました。

個人的なカードを作ったことがありまして、

とても気に入っていたのです。

この絵を厚手の紙、インクジェット用で印刷すると水で落ちなくなる紙に印刷して、

その周りを切り取り、2つに折るとカードになります。

丁度、表紙と裏表紙のようになり、カードに最適だった。

それにおめでたい感じもして、良かったのでした。

そして、カードの存在そのものを愛でていて、

また何かあったらコレを利用しようと思っていたのです。

この冊子は、厚手の水彩紙の表と裏に両面に絵が描かれていて、

10ページぐらいの絵本のような感じなので、非売品のように存在しています。

ばらばらに出来ない。

ページの裏の絵も見開きが続いているのです。

画材は、マジックと鉛筆、アクリル絵具。

脈略がない冊子なので、色と形が呼応しているだけの冊子ですが、

わたしは好きで、ファイルを開くと手を止めて見入ってします。

ある意味、一番自由さを感じるものなのです。

意味というものを考えさせない所があります。

右の部分だけだと、

↑こんな感じに。

青い部分に文字を入れれば、年賀状にも使えそう。

これは、カードの表紙にもなったわけですが、いろいろ使えそうなデザイン。

この冊子は、武内よりもわたしの方が大切にしているような気がします。

武内の「意味不明なキュートさ」が、炸裂しているから好きなのです。

 

 

上の文は、27日に書き、今は30日。

その間、実家に所用がありブログの更新が遅れてしまいました。

街には、正月用の素材や料理が並び、賑やか。

近くに百貨店もあり、いろいろ見て回る。

しかし、百貨店というのはお値段が高い。

目を楽しませることのみに終わりました。

ヒロクニさんは、引っ越しで梱包されていた絵を引っ張り出し、

「こういうのも描いていた頃があったんだね。」と、20号の油絵をしげしげ見て、

「これは、売りたくないな・・・。」等と言っている。

また、アクリル板で作った額に納められている絵を見て、

「アクリル板というのは、いいねぇ。」というから、

「それ、額代が高くついていると思うよ。」とわたしは答えた。

2人して、「そんな高い額に入れるゆとりがあったことが驚きだ!」と言い、

「今じゃ、考えられないね。」と時間の流れを振り返る。

店頭の商品がだんだん小さくなっている現象と考え合わせると、

わたし達も考えや思う事が小さくなってきているのではないか?と危惧する。

正月の買い物も、あとは“生もち”ぐらい。

冷凍庫もパンパンに食料が詰まっている。

そして、明日31日に、煮しめや卵のふくさ焼きをして、

ゆとりがあれば“鯛のサラダ”を作るつもり。

わたしという人は、いつも「食べ物」のことを考えている人間なんだとつくづく思う。

あれこれ食品の食べ方、料理を思い浮かべている。

どういう頭の構図になっているのか?と。

脳を違うことに使ってもいいのでは?

人にも“食べ物”の話をついしているようで、「あ、またやってしまった!」と思うことが多い。

来年は、脳の変革として違う知識を入れてみては?と、

自分に問いかけます。

 

冬に入り、ヒロクニさんは相変わらず「寒い。」「寒いのは嫌だ!」と言って、

かなり機嫌が悪くなり、不平不満を言う。

寒いのはわかるけれど、だからと言って「怒る。」ので始末に悪い。

その形相は、邪気すら帯びている。

そして、部屋の温度は、温室の如く。

そこまで暖かくして、

文句を言うとは「何事じゃ!弛んでいる奴じゃ!」とわたしは思うわけです。

それに、その文句を浴びていると、穢れてくるような気も。

お清めのようなものは、ないかしら?と思い、思いついたことが・・・。

「水垢離(みずごり)」

寒い日に文句を言っているヒロクニさんを尻目に、

風呂を沸かし、湯に入る前に水を浴びた。

初めてした時は、頭からかぶると頭が“うぬっ“とうめいた。

する前は、洗面器の水を持ち上げては、何度おろしたことか。

しかし、一瞬頭の働きが止まるというか、不思議な感覚があって、

かぶり終わると“しゅわしゅわ”としたしびれのような感じで、何かが軽くなる。

それで、嫌だけれどして良かったと思ったのです。

これをヒロクニさんに報告して、その感覚を伝えると、

「意外としたら何ともないのでしょう?」とか言うのです。

わたしは、「そんなことない。崖から飛び降りるような勇気が入った。やっぱり嫌だなと思うもん。」と言うと、

ヒロクニさんは押し黙ってしまった。

それからは、ヒロクニさんが「寒い。」という度に、

「わたし、水浴びてますから。」と言うと、

冷えって顔して、押し黙るようになったのです。

バリヤーが出来たみたい。

水垢離をしている人には、受け入れられないことだと言う、ガードが出来たようです。

それよりいい事は、“胆力“が付きそうなだということ。

そういうわけで、入浴前に水垢離をしています。

ヒロクニさんのいう事や、行動に右往左往することが多い、わたしだ。

“胆力”というのは、ないよりあった方がいい。

そう思って、入浴前の儀式として取り入れました。

やり方としては、後で湯で温もってもいいのかどうか?それはよく分からないのですが、

風邪を引いても困るしなと思って、この方法になっています。

これは、冬にするのがいいのだそうです。

水垢離は、先ほど書いた“脳の変革”に効果はありそう。

こうことを書いて、思い出した冗談があります。

ご年配の男性が、「来年の豊富として、妻と言う字を、“毒”とかかないようにします。」と言っていて、

わたし凄く受けてしまいました。

ヒロクニさんにとって、だんだんBlackな妻の要素になっていったりして。

必要な“毒”ってあるよね。

 

最後は、なんとか花を付けていっている我家のビオラ。

種を継いで言っているものです。

↑黄色と茶色のビオラ。

この好きなパターンのビオラは健在です。

しかし、ただの黄色に変化してしまうものもあります。

 

↑こちらは、濃い紫色だけの花が咲く予定だったのですが、

中央に濃い黄色が出ました。

受粉の段階で、違う花の花粉がつくとこうなる。

花に蜂とか虫が蜜を吸う時に、組み合わせが増えるようです。

路地裏で育てています。

家の前は、路地裏になっているのです。

 

 

今日は、ブログを日にちをまたいで書いた為、

途中で話が変わってしまったような感じもしますが、これが私たちの年末の様子。

今から、「湊市場」に行こうか、どうしようか迷っています。

市場の雰囲気って見るだけでも好きなのです。

来年はどんな年になるのでしょうか?

水垢離での脳の変革も続けるつもりなので、良き年になって欲しいものだと思います。

今日も相変わらずな2人の話を最後まで読まれた方、ありがとうございます。

来年もよろしくお願いします。

 

 

 

 


王と王姫(色鉛筆作品紹介757)と 正月に向けてあれこれ

2023-12-20 19:01:51 | Weblog

思いっきり抽象画で、いろいろな形が組み合わさっています。

しかし、タイトルは古風で、「王と王姫」。

王と王姫が尾赤いゴンドラ、または船に着飾って乗っているように思えます。

着飾ってと書きましたが、服なんか全く描かれてない。

何故そう思ったのか?

赤のゴンドラの曲線の優美さ、使われている赤色、

そしてカラフルな水玉、くちびるの形を総合すると、

キラキラ感が出ているように感じました。

全体的に可憐な印象も。

右上上がりの曲線によって、方向性がありそれが風を感じさせます。

渦巻きは、巻いた布のようで柔らか味があり、

中近東のエキゾチックな雰囲気も。

しかし、いきなり「王と王姫」というタイトル。

普段のタイトルの付け方ではありません。

ロマンティックな気分になっていたのか?

わたしからすると、粗野な人なのですがね・・・。

風変わりな絵ですが、モダンな感覚を楽しんでもらえればと思います。

クリスマスが近づいてきましたので、

なるだけクリスマスにいい絵を選んでみました。

 

 

気持ちはクリスマスを素通りして、師走、正月に突入します。

ヒロクニさんは、「クリスマス?それと俺がどうだというのだ。」と、

言うぐらいクリスマスに興味がありません。

イエス・キリスト、クリスマスツリー、トナカイ、サンタクロース、クリスマスプレゼントと

主要なクリスマスの要素を知りません。

以前依頼ががあったクリスマスカードの仕事も、

十字架の横に髪の毛が爆発しているキャラ?を描いた。

不穏な感じのクリスマスカードで、展示している絵を見に行ったが、

浮いていました。

祝福ムードがないカードでした。

そのせいか、そのカードの絵以後、その仕事はぱったり途絶えたのです。

それぐらい興味がないので、

「クリスマスだね。」と言っても睨まれるだけなので、

師走のムードと正月がわたしにとってのお祝い事であります。

お料理をするのも、正月にハレの日を味わいたいから。

おせちもどきを家で作った方が、味わいがあるし、

普段と張り切りもいつもと違う感じを感じるのです。

切り替わりを感じたい。

こうやって自分の中で、正月ムードと勢いを奮い立たせるのです。

その方が、来年を迎えるにあたり良い1年が送れそうな気がするんです。

 

それに合わせ、着物を着ようと思い、

封をといていなかったダンボール箱を開け、着物を物色しています。

着物にうっとりはまり、安くで買った着物はダンボール5箱。

帯だけで、ダンボール1個とふろしき包みが2個。

祖母の家にあったアンティークの着物や自分で購入したもの、

もらった着物など。

好きだと言っていると、あちらこちらから「もらってくれる?」という声がかかる。

そんなわけで、増え続けたわけです。

高価な着物はないけれど、十分楽しめるぐらいの量が。

着物の楽しみとして着物、帯、帯上げの組み合わせを考えるのは快感があります。

年を重ねたら、着物をきよう!と思っていたので、いい頃合いだ。

わたしが着物を着ると、ヒロクニさんも気分が変わるらしく、

非日常を感じるみたい。

ヒロクニさんの正月は、描き始めとしてやっぱり絵を描くことにしているようなのですが、

わたしからは、「普段と一緒だ。」と言われています。

わたしは大抵、お雑煮を作りヒロクニさんと一緒に食べ、

気が向けばお酒をちょっぴり飲みながらおせち料理を食べる。

ヒロクニさんが絵を描いている近くで。

以前の家は、庭があったので、

庭に出て新鮮な空気を吸って、まだ咲かない花を見たりしていました。

食べるものをあれやこれやと作り置きしていると、

主婦は気ままな感じを味わえます。

もう、脳内で妄想さながらシュミレーションしていますが、

現実はどうなることやら・・・。

さあ、苦手な掃除も取り掛からなくてはいけません。

ちらかっていても平気という弱点がわたしにはあります。

「掃除しなくても死なない。」という言葉も口にしてしまったことがあるぐらいだ。

本当は、邪気が一杯なんですよね。

汚いと。

そんな邪気の一杯の家ではいけないと思うので、苦手な掃除も頑張ってみるつもり。

まだ、今年も残すところ後10日ぐらい。

とにかく爽やかな正月を目指しています。

 

 

最後は、可愛いピーちゃんを。

新居に移ってから、人懐っこさがさらにました我家の愛猫。

名前はピピ。もっぱらピーちゃんと呼んでいます。

↑以前の家は階段がありませんでしたので、

ピーのこんな姿を始めてみて写真に収めました。

ここに乗って階段から人が上ってくる様子を見ているようなんです。

たまたま階段を上る時に、顔を上げたら、

覗き込んでいるピーの顔が見えるのです。

上の写真は、パソコンの前にいるわたしをひたすら見ていたという・・。

おもわず写真を撮りました。

↑顔が分かりにくい猫なのです。

だからアップで。

鼻がどこにあるのかよくわからない猫なんです。

かまって欲しいらしく、目を見開いています。

 

今日は気合を入れないと、正月らしくならない!という話。

子供の頃は、自然にお正月がハレの日でした。

大人になったせいか、自分で演出しなくてはいけない。

そんなことを思いながら・・・。

今日も私事ばかり書いてしまいました。

最後までお読み頂いた方、ありがとうございます。

 

 

 


花の風(色鉛筆作品756)と 12月のある日

2023-12-13 18:03:06 | Weblog

不穏な感じがする。

不気味。

年齢がばれるけれど、大阪にある“太陽の搭”の中の展示を思い出してしまった。

子供の頃見た塔の中は原始的なイメージだった。

赤い照明に照らされた、原始時代の生き物は不気味であったが、

怖いもの見たさと、ぞくぞくする感触とが混ざり合って、印象的でした。

子供心に変な快感を覚え、帰ってから時間が経っても、

その感触を思い出し、反芻していました。

この絵にも似たような感触があり、生命を感じます。

そう思って見ていましたが、絵の裏にタイトルが書き込まれており、

「花の風」2019、となっていて、戸惑っています。

どこに花が描かれている?

風のイメージはある。

ゆらゆら揺れている植物的なものを全体から感じ、風で揺れているのだと。

そして、風船が数多く上昇し、下から上へ登る感覚もある。

しかし、花を感じるのが難しい。

この絵は、「この絵がいいんじゃない?」と、武内に薦められたもの。

当人が、いいと言うものは難しい絵が多くて、ここはわたしの悩めるところだ。

追い討ちをかけるように、

「分からないのか・・・。」と言われることがあり、

「はい。」と言うと、また「分からないんだな!」と言われ、プリッと横を向く。

気落ちするらしい。

なるべく期待に答えたいが、無理なことは無理なのです。

この絵を見ていると、

蛙の卵が孵化しておたまじゃくしが泳いでいるようにも思えてくる。

生命は感じるよね。と自分で相槌を打ったりして・・・。

海底で揺れている海草に卵が産み付けられている図とか、

細胞分裂している様子とか、そんなことしか浮かばない・・。

とりあえず、生命を感じている次第。

「花の風」というタイトルさえなければ、いろんなふうにとらえられる絵だ。

こんなことを考えている内に、

タイトルを「陽炎」と変えさせようかな?と思っている。

絵自体は、シュールな作品なんだと思います。

 

 

このところ季節はずれな暖かさが訪れている。

12月というのに、秋のはじまりのような感じだ。

買い物に行く道には、赤や黄色の葉が舞い、道の隅に固まっている。

赤い色にもいろいろあり、

その色合いの違いを見て、赤いにも種類があるなと歩くのは楽しい。

銀杏は、葉がほどんどない木も多くなり、枝だけがくっきりしていると、

この暖かさも一時のものだと思う。

今年の正月は、どんなふうに過ごそうか?

そんなことを思い浮かべながら過ごしています。

おせち料理は、ピックアップして数品にして、

ピーちゃん(猫)は年の瀬に入浴させて、

3人で「今年もよろしくお願いします。」という儀式は我家の定番です。

正月は、物価がいきなり高くなるので、

買えるものは買って冷凍しておこうか?と主婦らしく考えています。

 

ヒロクニさんと夕食の後、紅茶を入れ、自家製パンプキンパイを食べていると、

「地球上に平和が訪れることは、ないのかもしれない。」と真剣な表情。

「いつの時代も、どこかで争いや戦争がある。」

「平和というのは、戦争と戦争の間の時間のことなのか?」

と、言う。

年の瀬の毎年思うことを考え、準備を思い巡らしていたので、

いきなり大きな人類の課題を突きだされ、パイが喉に詰まる。

わたしは、人類の歴史の年表を思い浮かべ、

あらゆる年表に○○戦争と並んでいることから、「そうかもしれない。」と言った。

その後、気持ちが落ち着かなくなる。

ヒロクニさんは、ロシアとウクライナの戦争(ウクライナ応援)や、

イスラエルとハマスの戦闘をニュースで見て、考えていたようです。

ニュースでは、イスラエルのガザ攻撃ばかりが非難されているようで、

ハマスに対しての非難が少なすぎるというのが、わたしの思うところ。

ハマスがガザの一般住民を戦闘の楯にしているからの結果でもあるのでは?

卑怯な戦法だ。

わたしは、ハマス側が人道的であるはずがないと思っていて、

残虐さは、こちらの方が上だと思っています。

ニュースを見る限り、情報戦が繰り広げられているという感じだ。

イスラエルは元々容赦ない国。

ここの部分を非難されているのではあると思うが。

ヒロクニさんからの言葉にうなずいてしまい、

落ち着かなくなった気持ちを平静にするために、ちょっと考えていた。

それには、道徳心が必要ではないだろうか?

国が道徳心を持つ。

約束を守る、条約を破らない、恫喝しない、過剰な欲を持たない等。

これだけでも、紛争は少なくなるような気がします。

道徳心のない国とは?

あれこれすぐに思い浮かぶ。

今の段階では、ヒロクニさんの言うように「地球上には、紛争や戦争がなくならない。」のだろう。

(ところで、ハマスに資金援助しているイランも非難を浴びていない。)

落ち着きたいから、あれこれ考えてしまいました。

落ち葉の色をうっとりと見ている時は、幸せな感じがしていました。

ヒロクニさんは、幼少の頃が戦中だったので、ニュースを見ると感情が波立つみたい。

わたしは季節はずれの暖かさに浸って、

図書館へ行ったり、買い物の道を楽しんだり、紅葉を見たりして、

ゆるゆるしていましたが、

ヒロクニさんは違う気持ちでいたようです。

ヒロクニさんの一言で、ギャップを埋めさせられ、同じ地点に立つことに。

夫婦は、やはり同じ位置にいるべきなのか・・・。

 

 

散歩の途中で写真を撮りました。

↑なんときれいな赤!と思って写真を。

 

↑違う角度からもう一枚。

この道は急な坂道の途中で、写真を撮る為に

カートをわきに置き、手を離すと

カートは倒れ、起そうと思うとめがねが落ち、

手に持っていた上っ張りは、地べたに落ち、あたふたしていました。

この暖かさは、16日まで続くらしい。

 

今日は、とりとめのない内容になってしまいました。

わたしは、暖かさでふわふわと緩くなっていました。

よく考えると、ヒロクニさんは常に自分に鞭打ち、ゆっくりする人ではない。

私は、ほんわかしていたので、鞭を打たれたような気がします。

幸せ感というのも、いつ訪れるか分からないもの。

紅葉を見ている内に、導かれたのでしょう。

今日は、内容が薄くなってしまったような・・・。

(自分ではそう感じる)

それでも、最後までお読みになってくれた方、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 


三重唱(作品紹介755)と 幸運と不運

2023-12-06 16:53:38 | Weblog

今日は、最新作。

12月4日に出来上がった絵になります。

サイズは、41cm×58cm。

鉛筆に黒のクレヨン。

この絵を始めて見た時は、落書きのような印象で、

「これを買う人っているのだろうか・・・。」というもの。

妻は、現実的なので、「食えない道のりにますます行く?」と少々不安。

そんな面持ちで、壁に貼ってある絵をじーと見ていました。

2日位見ていると、目が慣れるのか、

じんわりとこの絵を鑑賞することが出来るようになった。

クレヨンの黒い線は、合唱する3人に思え、

バックの鉛筆の線をこすった風合いが、音楽を表しているような気がしてきた。

黒いクレヨンの線と鉛筆が調和し、すべてを音楽的に感じました。

そういえば、この絵を描いている時の音楽は、マーラーでした。

ブルーノ・ワルターの指揮で、交響曲第4番。

絵を描き終わってから「これ聞くといいよ。」とCDを取り出し、薦められたからよく覚えているんです。

マーラーがかかっている時は、「懐かしいな。」「久しぶりに聴くなぁ。」と、

過去の時間を思い出していました。

この雰囲気は、マーラーの音楽がするのか?

わたしは、このアルバムを聴くと、

クリームイエロー、黄色がかったベージュ色の透明度のある幕が下り、

幕の向こう側が薄っすらと透けて見える。

幕の向こうは、森で小鳥が鳴き、そこで神話的な人物が何か言いたげに、

狂おしく踊っている。

それをベージュがかった黄色い幕から感じ取っているという感じがするのです。

陳腐ですが、その人物は頭に1つの角があり男性だ。

マーラーの音楽は、派手な部分もあるのだけれど、

ある静けさが支配している。

その静けさを思い出していました。

 

武内は、音楽はとても好きな人。

ロック喫茶を経営したぐらい。

60年代は、JAZZ喫茶のマッチのデザインもよくし、数個は資料で残しています。

たまに、ヤフオクでまとめてJAZZ喫茶のマッチがある中、

武内のデザインしたマッチを見つけてしまったぐらい。

デートの時は、JAZZ喫茶も一緒によく行った。

しかし、クラッシクはあまり詳しくないので、いきなりCDを買う派。

現代音楽も好きだ。

これもいきなりCDを買う。

現代音楽なるデビット・チュードアなんかがかかると、わたしは行動が止まる。

調子がおかしくなるのです。

いろんな音楽が身体に染みこんでいる武内の描く絵は、

音楽的な要素が絵に出てくるのだと思います。

先回のブログは、ダンス音楽的な絵でしたが、

今回は三重唱的。

わたしは、一番左端の人が気に入っています。

どことなく憎めなくて、可愛い。

 

12月に入り、今年も終わりだ。

なんと歳月の過ぎるのが早いこと。

今年は引っ越しをしたこともあり、とても1年が短く感じます。

家を見つけるまで、わたしが思うような家賃で家が見つかるか?と不安でしたが、

見つかり、ホッとしてから、

「運が良かった?」と思うようになった。

【交通の便が良く、家賃が安く、やや広い】この条件を満たしています。

「運が良かった。」こういう言葉を自分の口から言うことがあるとは!

よくはわかりませんが、「念の力」というものも働いたような気もするのです。

“執念”を燃やし、突撃だ!

という感じで、着地地点に向かって、粘り強く不動産屋に足を運んでいました。

あまり狭いと、主人の仕事に差し障るし、

家賃が高いと生活が苦しくなるし、

交通の便が悪いと、車に乗らない私達は動けなくなる。

どれも重要といえば、重要でした。

近頃、わたしは「強く思うのが大切。」とよく書くようになったのですが、

それは、思わなければ、何事も実現しないと考えるようになったからです。

思うぐらいではだめで、そこに強くが加わった。

そして行動する。

これが、功を奏したのかもしれない。

思いプラス何らかの働きがあったのかもしれません。

自分の力だけじゃない。

何らかの働きというのは、何かがわたしが行動する時の瞬間や動機を与えてくれていたということです。

しらない間に何かの指図を受けていたのかもしれない。

時々、今の住んでる同じ区で家を見て見ますが、思うような家は、皆無なんです。

やはり、私だけの力じゃないと感じてしまうのです。

そして、何らかのものに「ありがとうございます。」と手を合わせました。

そして、生かされていることに「感謝」。

「運が良かった」とは、こういうことなのでは?

家を見て、気落ちする家もたくさんあったし、気後れしそうになる時もあったけれど、

(家賃の想定が低いから・・・)

とにかく思ったら行動で挑みました。

1つの出来事ですが、うまく物事が行く時には、こういうパターンはあるのだと思います。

このことをよく覚えておこうと思いました。

 

初めてということは、過去に「泣きっ面に蜂状態」が非常に多かったということです。

例えば、パートで珈琲専門店で働いていた時、腰痛になった。

痛いのなんの。中腰で洗い物をすることになるからなのですが、

何とかする為に買った健康グッズの金額が・・・、という。

痛いし出費はあるし、という時にコップや皿を割ったら600円の弁償という規則が出来て、

ぶつけてもないのに、持った瞬間コップにヒビがいく。

アルバイトの子が持った瞬間サーバーにヒビがいって、パリンと崩れ落ちる瞬間も見た。

不思議なんですが、持っただけで割れていました。

これって、どういうことなのか?

気持ちよく働いていた店員は、不満を持つようになり、

何かあれば「弁償だ。弁償だ。」と口走るようになり、店内はあまりよくない雰囲気に。

自給が700円ぐらいなのに、割ったら1時間分がパーになるからやりきれない。

だから、皆やっきになっていた。

割ったコップや皿もあるけど、それ以上に持っただけでコップ類は割れる、

その上サーバーが置いただけで割れるというのが続出。

現場で、その瞬間をつど見ているので、嘘ではない。

使い痛みしてるのと違うかなと。

1つ疑問があって、定価600円のコップと皿だが、弁償で利益分まで払う必要はあるのか?

定価で弁償というのが負に落ちない。

思い切って、わたしは、社長に直談判。

「割って申し訳ないということで、100円、200円の詫び代というのは分かるのですが、

 定価で弁償というのは違うと思うのですが。

 この会社って減価償却費はどうなっているのですか?」というと、

翌日、弁償がなくなったのです。

しかし、社長はわたしとは口を聞かない方針にしたらしく居づらくなった。

腰痛も激しくなって、やめることに。

しかし、持ったり置いたりしただけで、割れる事象はなんだったのか?

今もって謎。

それからのパート先でも、間の悪いことや、濡れ衣とか、不運が続く。

これらの不運のことを思うと、いったいなんだったの?と思う。

 

だから、「運が良かった。」と自分の口から出たなんて!と感激気味なわけです。

1つ思う事は、不運の頃は感謝がなかった。

不運の中でも、感謝出来る事項というのはあったはずだ。

不満が不満を呼んでいたような気がします。

自分で文章を書きながら、

改めて「強い思い。」「そして、努力と行動」「感謝」を心がけようと思いました。

 

最後は、私自身が懐かしいと思う写真。

↑引っ越すまえの家にて。

わたしは、髪を染めているので40代後半の頃と。

この家の庭には、遊びにくる猫がいて、「来た!」と言っているのか、

「ギャギー!」と一声発する猫が。

それが太くて、みっともない猫。

ヒロクニさんは、その鳴き声から「ガギー」と名をつけていて、

「ガギー、君は醜いね。」とよく声をかけていました。

来ると、家にある木の幹で爪とぎをし、庭の真ん中にボテッと座る。

抱いて、ひっくり返すことが出来ない猫でした。

性格は、至って温厚。

ちなみに、わたしは不運から少しずれ始めてきた頃で、

楽しい時間が増えてきた頃。

アトリエの子供達と奮闘せねばならなくなって、

一緒に笑ったり、時に怒ったり。

怒るといっても、ヒロクニさんに怒るのと違い、

対等に怒っていたわけではないから、どこかにゆとりがありました。

 

今日は、「運が良かった。」から不運の話まで。

いつも話の流れは、書くにまかせているから話が変な方に急展開。

なんか自分自身のことを等々と書いて恥ずかしさも感じますが、

自分のことを例に上げるのが一番いいだろうと。

もう一度、「運が良かった。」ということを言ってみたいものだと思います。

今日も最後までお読み頂いた方、ありがとうございます。

 


ダンス(色鉛筆作品紹介754)と ウィーン幻想絵画・ヴォルフガング・フッター

2023-11-27 18:35:08 | Weblog

色鉛筆作品。

ドクロを思わせる形は、人なのか?花なのか?

女性の顔が、そのドクロの顔と合体しているのは、ダンスを踊っているから?

老獪な紳士と踊る女性のようにも思えてくる。

音楽は、ワルツか?ラテン音楽か?

伸びやかに描かれた線からは、ゆったりとした空間を感じます。

出来上がったばかりの最近作なのですが、どことなく古風な感じもある。

それは、この絵にある男と女のありようからかもしれない。

骸骨と思って見ていると、退廃的な要素もあるのかもしれないと思えてきます。

顔にある小さい青い丸印が、ホクロに思え、人面の帽子を被った有閑マダムにも思えてきます。

人によって、見方がいろいろありそうな絵だ。

この絵にポイントがあるとしたら、

この画面からリズムを、音楽を感じるところ。

その音楽は、人それぞれにあると思います。

 

 

この絵を見て、「退廃的な要素もあるかもしれない。」と書いた瞬間、

頭の中で“退廃的な絵”って、どんな絵を自身が浮かべるか確認していました。

真っ先に浮かんだのが、「ウィーンの世紀末」の芸術です。

有名なところでは、クリムト(グフダス・クリムト)、エゴン・シーレになります。

クリムトは、性と死。官能の表現に退廃的なものがあります。

エゴン・シーレには、描かれた肉体に退廃が忍び寄って、エロスの中に死を感じさせるものがあります。

わたしは、エゴン・シーレには、痛ましさを感じてしまって、見ていると辛くなる。

素晴らしいと思う前に、辛さが全面的にきてしまい、あまり直視できません。

そう、なるべく見ないようにしている絵なのです。

この2人が代表する「ウィーン世紀末」の画家ですが、

「ウィーン幻想派」という片隅にある画家を取り上げたいと思います。

ウィーン世紀末の芸術の本流から外れたところに位置しているからか、

普段目にすることが少ない画家達であります。

あまり馴染みのない画家達でありますが、過去に日本で時々展覧会はあったようで、

好きな人は強烈に好きになる世界です。

まず、名前を挙げますと、ルドルフ・ハウズナー、ヴォルフガング・フッター、アリク・ブラウアー、

アントン・レームデン、エルンスト・フックス等がよく知られています。

わたしが知ったのは、高校3年生の時、

受験でデッサンを習いに行っていた教室で本棚から「ウィーン幻想絵画展」という画集を見つけました。

過去にあった展覧会での画集だったと思います。

その中で、ヴォルフガング・フッターという人の絵が強烈に印象に残りました。

まず最初に思ったのは、「変わった絵だ。」ということ。

次に思ったのが、「こういう絵も許されているんだ。」という事でした。

「では、その絵を。」と思い、ネットで調べてみましたが、

その画集に載っていた絵は見つからず、画集以降の作品しか見つかりません。

そんなことがあるとは・・・・。

ということで、わたしが見た絵に近いものを取り上げます。

↑タイトルは「不良少女」

わたしが画集で見た頃の作品と比べると随分おとなしくなった印象。

ヴォルフガング・フッターの絵の特徴、人工的な絵具の使い方、

リボンが舞っているようなところがある印象は変わりません。

画集に載っていた作品は、艶のあるリボンが何枚も重ねられていて、

それで絵が出来上がっていたことを思うと、少し物足りない。

↑もう一枚。

海の風景のような絵はこの度はじめてみました。

↑こちらは、陸地。

こういう表現がなんともいえない。

ヴォルフガング・フッターは、1928年に生まれ、2014年没。

わたしが絵を見た頃は、1979年。フッターは、51才。

そう考えると、若い時に描いた作品が画集に載っていたのだと考えます。

このあっさり感は、いい年齢になり、後半恵まれていたのかもしれません。

わたしが画集で見た作品は、熱い体温を感じさせるものでした。

ちょっと、ギラギラしているというか・・。

その絵が探せなかったのが残念ですが、と書きつつ、

もう一度探してみました。

こちら→Wolfgang Hutterで検索。

数点を見つけました。

↑この絵を見て、白菜を想像し、リボンのような表現とつるっとした表現に

目を奪われていたのを思い出します。

それと、雰囲気。

↑画集より色が浅く写っています。

鳥のような人をじっくり見た記憶が。

それと中央の仮面を被ったような鳥の人物。

この顔が気に入っていました。

↑こちらは、画集にないものでしたが、画集で見た仮面の人の顔が、

このようであったので取り上げました。

こういう絵が高校生のわたしにとって強烈な刺激であり、

今でも好きな画家です。

オーストリアは、ドイツ、チェコ、ハンガリー、スロバキア、スイス、イタリアが、

隣接しており、幻想派の画家達の絵を見ていると、

独特の幻想が、土着の文化になりたっているようで、

伝説が生きているのではないか?と思ってしまいます。

そういうことを感じさせる画家は、アリク・ブラウアーなのですが、

言葉で表現すると、「悪夢のおとぎ話」といってもいい絵があります。

不思議な色相の絵で、不気味さと可愛らしさが混ざっている。

↑色合いも変わっているが、光を感じさせる効果が不気味。

ウィーン幻想派の絵画はいかがでしたでしょうか?

変わった絵と何度も書いてしまいました。

だけど、思わず見てしまう絵。

今日取り上げた画家は、夫、ヒロクニさんはあまり見ない絵であまり興味もないようです。

画集がないので、話題にしにくいということもありますが・・・。

絵画って、本当にいろいろなものがあります。

私自身が高校の時からこういう絵に感心があったということは、

写実の絵には元から興味がなかったのだということに気がつく。

そういう趣向があって、ヒロクニさんと今一緒にいるのかもしれない。

「趣向」というものが、絶大な影響力を及ぼしているとしたら、

仏教で言う、「因縁」のようなかも。

「悪因縁」とは、言っていません。←ここがポイント。

 

 

今週は、実家、宝塚へ行ってきました。

歩く道々、やっぱり花が多いなぁ~と思いながら。

ヒロクニさんが言う、「宝塚は花が多い。」を実感します。

そこで、シクラメンなんだろうけど、花が開ききっているのが鉢植えされていました。

↑寄せ植えで、エリカ、ニチニチ草、しろっぽい茎と葉のもの。

中心に花の開ききったシクラメン。

このシクラメンを見て、ムムム?と思い、写真を撮ってしまった。

新種のシクラメンなのだろうか?

シクラメンも育てたことがあるのですが、このように咲いているのを見たことがない。

園芸店でも、見かけたことがありません。

ヒューケラや、葉牡丹も植えてあり、もう冬の花がたくさんあります。

この家の前には、向かいに小さい公園があり、小花とコキアが。

コキアの赤い色が、重なった部分が濃く写りきれいでした。

きっと、シクラメンを植えている方が、

公園の花を育てているのだろうな、と思われる。

やはり、花はいいなと思った瞬間でした。

 

武内の絵は、変わっていると思う方も多いと思いますが、

変わった絵というのを拾い集めていくときりがないぐらいあります。

今日は、変わっている絵VS変わっている絵で書いてみました。

美と言うのも、混沌とした美というものがあります。

そんなことを思って頂ければ幸いです。

偏狭なブログかもしれないと思いつつ、最後までお読み頂いた方ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 


幻想の街(色鉛筆作品紹介753)と「 もしも・・・・したらどうなる。」

2023-11-20 17:02:42 | Weblog

6Bの鉛筆と色鉛筆で描かれた絵。

この絵は、以前取り上げたことがあったかもしれません。

中央の電車の部分とその下のわらびか、こごみが生えているような“波”の表現を見た記憶が頭の中でチラチラする。

電車と海辺は、武内の絵にセットで登場する絵は多いので、

違う絵のことを見たかもしれない。

引っ越しから、半年。

未だ見たことがない絵が、紙の束の重なりから見え、

「ちょっと見せて。」と武内に声をかける。

崩されたくない山の時は、「ちょっと待って。」と言われます。

そんな中から選びました。

この絵を見て、懐かしいと思うモチーフを発見。

左上にある、「コップに入った歯ブラシ」。

懐かしいモチーフで、最近は登場しない。

“97”と書き込まれているから、1997年作だ。

26年前に作品ということで、懐かしく思って当然だな、と思う。

黄色や赤色で縁取られた半円は、トンネルや地下鉄の入り口だ。

入り口にも表情があり、顔に見える部分がある。

街に人がいるというイメージと重複し、賑やかというか、絵がしゃべっているような雰囲気だ。

そう、武内ヒロクニさんは、よくしゃべる人。

この絵にも、そういう性格が表れていると見て取りました。

だけど、この絵の見所は、

多次元の空間がぎゅっと集められ、

1つの躍動する街の呼吸が感じられるところじゃないでしょうか?

「幻想の街」というタイトルが似合うかもしれない。

武内の中では、街の散歩で見たリアルな一画が、頭の中で融合され、

部分部分が重なりあうように、表現されています。

だから、幻想ではないと言っていますが・・・・。

見る方は、幻想と思ったほうが楽だと、わたしは考えます。

 

 

急に寒くなりました。

それで分かったことがあります。

今の家は、以前の家より機密性がよく、隙間風がない。

だから、意外と暖かく感じて生活しています。

外の風がピュ―ピュ―音を立てていても、わりと静かなんです。

以前の家は、窓ガラスが音をたてたり、風が直撃するとバン!という大きい音がしたりで、

ヒロクニさんは、「風ばっかり吹きやがって!」という罵りを・・・。

窓枠に入れられていたガラスにも隙間があったし、寒い家だったみたい。

わたしは寒いけれど、それは気にしなかった。

何よりも、透き通ったガラスから入る、陽の光りが好きだったし、

窓から見える庭を見るのが好きでした。

朝日が入るのが気にいっていたので、雨戸も開けっ放しでした。

寒さよりも、外を感じるのが好きだった。

夏は、網戸全開で、テントで寝ているかのような空気を感じて就寝。

家によって、過ごし方がありました。

そして、寒かった家から、暖かい家に。

この順序に感謝しています。

 

 

今、自分の中でゲームをしていまして、

「もしも・・・・・ならばどうなる?」

「もしもわたしが・・・・・したらどうなる?」という問いかけを自分にします。

ここで、つい思ってしまいがちな、

「もし、ヒロクニさんが死んだら・・・・、わたしはどうなる。」というのは、時々頭をかすめますが、

こういう問いは、いけません。

「わたしが」することであって、人がどうなるというのは「違反」という事です。

「もしも、透明人間になったら、何をする?」とか、

「もしも、わたしが男になったら、どうなる?」とか、

「もしも、わたしが人の心の中がすぐ分かってしまう能力をもったら、どうなる?」とかの想像をし、

その事態をこと細かくリアルに思い描くという脳内ゲーム。

透明人間になったら、人のプライバシーを覗き見したくなるに違いない。

そして、知らなくていいことを知って、落ち込む。

または、ホッとしたり、嬉しくなることもあるに違いない。

しかし、そういうことを続けていると、良心の呵責を感じていって、

「もう、透明人間じゃなくていい!普通の身体が欲しい!」って思いそうだ。

2番目の問いの男になったらは、まず立ちションベンをしてみる。

へーって思って終わりだと思う。

あまり思い付くことがなく、「わたしは女性であることに満足しているようだ。」という事に気づく。

男になりたいと思ったことがないのだ。

こんなことを思っていると、ヒロクニさんから、

「サホリって、女性に生まれて良かったって感じだね。」と言われる。

「どうして、そんなことが分かったの?」と聞くと、

「その方がいいよ。」と言う。

(質問の答えになっていない・・・、聞いてないと思われる。)

わたしは、読唇術のように考えを当てられて驚いてました。

ヒロクニさんは、男に生まれたのは当たり前だ!そこには一切の疑問はないという人。

男が絶対いいそうです。

人の心がすぐ分かってしまう能力をもったら、その人の本心がすぐ分かるわけで、

詐欺師なんかを察知するのにはいいかもしれないが、

人がわたしのことをバカにしているのを、はっきり知ったりすると、

複雑な気持ちになって、人間不信になるのじゃないかな?

薄々分かっていても、決定的というのはいけない。

人の本心がむきだしの状態をいつも見るわけだから、精神衛生上よくなさそうだ。

それに人の心は、流動的で揺らいだりしている。

その時、その時で変化するようなこともある。

悪心を抱く時期や、そこから開放され成長する時やいろいろだ。

その一時に判断出来ないこともある。

人の心の流れにも一喜一憂することになって、疲れるだろう。

やはり、特別な能力はいりませんとなりそうだ。

以上をやってみていましたが、発想に飛躍がありませんでした。

もう少し、楽しい問いをみつけたいと思うのですが、

頭が固いようで堅苦しい問いばかりに。

その上、想像するとどれも悪い結末になるものばかり。

いい問いを思案中です。

頭の中は、固い芯でもあるんじゃないか?と思うぐらい自由に動きません。

想像は自由でいいと思うのですが、意外とできないものだ。

頭の体操をしてみて、随分脳が老化しているというか、

あまり使っていない部分は錆びて動いていないというように感じました。

想像の部分も悪い方へ考えが行き勝ちだと自己判断。

何気ない語らいの時間に、

ヒロクニさんの「俺がねずみと結婚するの?」の一言の方がインパクトがありました。

わたしもその言動に合わせて、

「そうよ。特大のねずみよ。ちゃんと指が5本あるから、料理してくれるって。」

「顔にヒゲが当たると思うけど、我慢しなさい!」

と言う。

ヒロクニさんは、とんでもないことを思い付くのです。

やっぱり、変人。

「ねずみと結婚する。」そんなことを口走るなんて!

ヒロクニさんの横に、大きなねずみが寄り添っているのを想像すると、

笑えます。

後、笑った事といえば、道路にあるカーブミラーで立ち姿が全身映る所があって、

くっきりと私たちの姿が並んで見える。

歩きながら、それを見て、「あー、お爺さんとおばさんがいるよ。」と言い、

「おばさんも時々お婆さんが入っているし、爺&婆(じじあんどババア)がいるよ。」と鏡を指差すと、

「さほり、やめてくれよ。」と言いながら、頭をかいていました。

(やめてくれと言われると、もっとやりたくなる性分なわたしだ。)

「だって、見てごらん。」

「ズボンからパッチが見えていて、見事なお爺さんだよ。」と言うと、

笑いながら家に帰っていきました。

しかし、意外と長い付き合いになっているなと改めて思いました。

 

 

 

最後はささやかなわたしの楽しみのビオラ。

↑やっと花が咲きました。

黄色と茶色のビオラで、もう何年も種を継いでいます。

シックな色合いが気に入っています。

↑こちらは苗を生育中。

植え付けが遅かったので、つぼみを付けるのは、まだのよう。

春に賑やかに咲いてくれると嬉しいのですが・・・。

花を植えると、春が来るのが待ちどうしくなります。

 

今日は、寒かった宝塚の家のことなど。

今の季節は、柿がたわわに実り、柿の収穫をしていたのが思い出されます。

こっちへ来てから、何年かぶりに「柿」を買いました。

「もしも・・・・・ならばどうなる?」の訓練は、妄想ではなく、想像力を養う訓練のつもり。

楽しい想像力を使いたい。

1人遊び全開の話は、わたしだけが面白かったりしそう・・・。

このような内容を最後までお読み下さった方、ありがとうございます。

 

 

 


創造の女神(作品紹介752)と 黒澤明監督の「用心棒」

2023-11-11 18:58:57 | Weblog

マジックで描かれた作品になります。

右に描かれた丸い月のようなものの顔の表情が気に入って取り上げました。

真剣な真顔に、少し鼻の穴をふくらまし、厳しい表情をしているのが、いい。

左のアメーバーのように口を開けている生物は、だらしがない。

やわらかい餅が、どうとでも形を変えるさまに似ている。

これって、もしかしたら、

夫とわたしの関係?と、思えてくるから情けない。

夫には、手を焼いています。

長年一緒にいても、空気のようになりません。

手強いといつも思っている。

当人は、そんなふうに自分のことを思っていなくて、

「俺のような素晴らしい人間と居れて、とても良かっただろう。」と思っていると思う。

実際に、このようなことを口ばしっている。

確かに、素晴らしいところもありますが、

非常に困ったところもあり、わたしには、激怒とストレスが交互にやってくる。

その感情で、自家中毒みたいに疲れている。

そのせいで、瞑想なるものにも入り込み、

なんとか太刀打ちしなければいけない!というわたしだ。

怪我の巧妙というか、1年と半年程瞑想なるものに励み、

人はくり返す、ループしていることってあるな、という事に気がついてきた。

わたしが繰り返し持つ感情があるということです。

その感情を一言でいうと、「怒り」「我慢出来ない」が多い。

それは、武内によって喚起されているのですが、

もし、武内と一緒でなかったら、

違うことや違う人からの事で、

同じ感情を使うのではないだろうか?という結論に至っています。

その感情を観察するという行為が、瞑想にはある。

観察して思うには、それは、なかなか厄介なものだという結論。

この繰り返し持つ感情に打ち勝ちたい。

見ているのですが、この根本が、恐怖なのか?不安なのか?が判別しにくい。

未だ、どういうものなのか見続けています。

怒りの根底に、恐怖があるような・・、それとも緊張に近い?というふうに

ピタッとわかるまで見ていくのです。

皆様も自分はこういう気持ちによく陥るとか、

こういう感情をよく使っているということはありませんか?

わたしの場合は、きっと自分の中に、そういう元があると思いました。

元があるから、その感情が浮上する。

はっきり、まだその元の正体はわからないけれど雰囲気はつかめてきたという段階です。

こういう道に気がつかせてくれた、武内ヒロクニさんには感謝かもしれません。

でも、素直に感謝しにくい。

ここまで書くと、この絵はヒロクニさんとわたしに思えてきて、恥ずかしい限り。

【夫婦喧嘩の図】て感じで。

ついでに、また恥ずかしい想像をすると、

「夫を改造しなくっちゃ!」

「よいしょ。」

「よっこらしょ。」

「こっちをこねこね。」

「ここもこねこねしなくっちゃ。」

「ここの部分は気に入っているから、おいておこう。」

と、この月なる人物が言っていたら面白い絵だな、と思いました。

【奥様、夫を教育する図。】

そして、“創造の女神“この絵にこういうタイトルをつけてみたくなりました。

 

 

急に、黒澤明監督の「用心棒」という映画を見たくなった。

「強い主人公を見たい!」と思い立って。

youtubeで予告編を見たら、絶対に見たくなりDVDを買った。

↑こちらが見た予告編。

予告からして、堂々たるものだ。

強い主人公に、強い悪役。そして、悪役はちょいと2枚目。

この対比に魅力を感じ、上等な娯楽映画の真髄というところに引かれた。

以前、ヒロクニさんとも観ているのですが、

今回観ると良さがさらにわかり、粋だなとゾクゾクしながら鑑賞しました。

外国映画でいうと、西部劇なんですね。

ヒロクニさんは、西部劇が好きなので、

一緒に、ありとあらゆる西部劇を観た。

そのせいで鑑賞能力が高くなっていたのかもしれませんが、

用心棒は、一切の無駄がなく、映画自体が締まっていました。

古い白黒映画に出てくる「三船敏郎」は、胸板が厚く、堂々たる風貌だ。

若い「仲代達也」は、悪党の弟だ。

その悪党の弟は、木枯らしが吹く荒れた宿場町に、ふらりとピストルを忍ばせ帰郷する。

ストライプの着物にスカーフのように巻かれた手拭が気障でよく似合っている。

見開いた目は野獣のようで、歯をみせた笑い顔に冷酷さが帯びる。

いい感じた。

この2人は、お互いなかなかやるなという感じで、牽制をみせながらも敵対はしない。

この三船敏郎の役どころは、侍であり、自分の強さを武器に、

敵対している双方に気をもたせたり、無碍にしたりとして、頭脳プレーで丸く治めようというものだ。

さして、騒ぎを大きくして、うまく敵対している勢力同士の喧嘩をさせ、自滅するようにもっていきたい。

そして、悪しかいない宿場町で敵対している双方が卑怯さを競うように見せてくれる。

相手の裏をかいたつもりが、さらに卑怯な手を使うという具合に。

そんな所だからこそ、愉快そうに振舞っていた用心棒のお侍に人情というものが降りかかり、

ちょっと、人助けをした為に半殺しの目に会う。

ある親子を助けるのですが、そのお親子がお侍に頭を下げて土下座している姿を見ると、

急に顔を曇らせイライラし、「そんなことするな!」と怒鳴る。

このシーンを見ている時のわたしの心境は、

「このお侍の気持ちがわかるなら、そんなことをせず自分だけのことを考え、早く逃げるのよ。」というもの。

わたしも、お侍の気持ちに同化してしまい、

そのシーンでは冷や冷やした。

その時は、親子を逃がしたのはばれなかったが、

お礼の手紙を手渡された時に、その手紙をワルのピストルの仲代達也が見つけるのだ。

それで、半殺しの目に会う。

この辺で、ハードボイルドでもあるのね。と、変に納得する。

重い身体を引きずって戸を叩く。

そして、倒れた目の前には錠の開いた葛篭が・・・。

そこに隠れ、敵が慌てている隙に逃げる。

めし屋の爺さんに匿ってもらい、墓場の小さい小屋で復帰を待つ。

小屋の隅から吹く風で、舞う枯葉をじっと見るお侍。

その葉が舞うめがけ、包丁を投げると、すっと命中する。

そのめし屋の爺さんがお侍を助けたかどで、捕まる。

その知らせを受け、決闘に望む。

その歩いている姿がまたいい。

身体のゆすり方や、歩く感じがすごくいい。

この映画を見ると、細かいことや、どうでもいいことが多い日常から開放され、

シンプルな人間らしい気持ちを取り戻します。

「強い」っていうことも、大切だなと。

強くないと、弱いものを助けられない等と思いました。

堂々とした映画でした。

 

最後は、我家の愛猫。↓

パソコンが置いてある場所に来て、窓を見ています。

締め切った窓を、何故見る?

未だ、引っ越しの荷物が片付きません。

今は、触りたくないのです。

 

今日は、絵の解説が所帯臭くなりました。

私たちを想像せずに、「宇宙の創造」という方向で見て頂けたらと思います。

よく使う感情の話は、個人的な話で思う内容も、

わたし独特の考えかもしれないと思いながら書きました。

「用心棒」は古い映画ですが、見ごたえがあると思い、

つい、熱く語ってしまいました。

黒澤明監督って、シェイクスピアがベースにあるみたいですね。

必ず、道化役にあたる役があるのです。

デンデン、デンデン、デンデン・・・がヒントですが。

そんなことも初めて感じた映画鑑賞でした。

今日もこのような文章を最後までお付き合い頂いた方、ありがとうございます。

 

 


CAR(色鉛筆作品紹介751)と 家電売り場での葛藤

2023-11-03 15:25:52 | Weblog

この作品は小さくて、13.7cm×9.8cmのサイズ。

車の行く手を遮り、骸骨のような人物が挨拶をしています。

実際にこのような事に出会えば、恐ろしいだろうが、

この絵を見る限り普通の事で、楽しいアクシデントに会ったワクワクした日の出来事という感じだ。

私達は、車に乗るといえばタクシーぐらい。

だから、すぐタクシーを想像する。

ネオンの灯かりの中をくぐり抜け、

人の行き交う様子を見ながら、急ぎ足で目的地へ行く。

タクシーを利用する時は、焦っていることが多いので、

見ているうちにハラハラしてきました。

時間に遅れそうになる要因を作っているのは、武内の行動にあります。

やいやい言っても、急がないし、

何も言わないで待っていると遅すぎるし、究極のマイペース。

自分中心のマイペースな人。

こんなふうになれたら幸せかもしれないとため息。

わたしは横でイライラすることが常で、

やはり、人様に迷惑をかけてはいけないと思っているます。

そんなわたしですが、普通の車に乗せてもらうと、

自分で扉を開けないといけないのに驚くわたし。

事態を呑み込むのに5秒かかります。

 

当人のことはさておき、

この絵の色鉛筆のバラバラと乱れたタッチがいい感じ。

仕事台のベニアパネルの筋がフロッタージュみたいに浮いている箇所もあり、

風合いを出しています。

こういう絵って、描けそうで描けません。

 

 

少しブログの更新が遅れました。

所用もあったこともあって、よく外に出ていました。

ビオラの植え替えなんかもしたり、家電製品を買いにいったりと。

この家電製品を久しぶりに見たら、いろんなものが進化していて戸惑いました。

炊飯器は、とても高価なものもあって、「何で?」と思い続けていました。

10万円以上する炊飯器を見た時は、

「そんなに美味しく炊けるものなのか?」という疑問で頭が一杯になり、

「さほど美味しくない米が錬金術のように、美味に変わるのなら凄いけど・・・。

 そんなことはありえないだろう。」という考えに落ち着いた。

やはり、今のオンボロの炊飯器と同じタイプのものを見つけると、8000円だった。

しかし、ここでわたしは欲を出し、

これより少しましな、ランクアップしたものを買ってみようと決意した。

圧釜というやつ。

それも値を下げているもの。

買わないけれど将来買うとしたら・・・、とオーブンレンジを見た。

高いものは17万円。安いものは2,5万。

今あるオーブンレンジは、クッキーを焼く時にあまり乗せられないという欠点があるので、

丸い形をしたものでなく、四角い形をした鉄板がいいと思いながら見ていました。

そして、次に注目したのは機能。

扉に多くの料理が並んでおり、番号などが振ってある。

おもむろに老眼鏡を頭から引きずりおろし、読んでいた。

読んでいる内に疲れがドッと押し寄せ、

「オーブンの温度さえ調節出来ればいい。」となり、

現品処分の物に目がいった。

そう、買ってしまいました。

そして、オーブンレンジは送ってもらうことにし、炊飯器は持って帰ることに。

会員カードを持っていたので、期間限定の一割引きになり、

またお安く。

しかし、1人で電器屋のフロアでのたうつように思案しながら長くいました。

最後の締めに近づき、店員さんに声をかけ、疑問をはっきりさせねばと思いいろいろ質問。

店員さんは、わたしの予算に寄り添ってくれ、

電卓をひたすら叩いて、一割を引きながら計算してくれました。

その数字をメモにとりながら、わたしも考えを詰めていきました。

その結果が現品処分品。

わたしの心の中では、これぐらいのレベルのものがあったらな・・・、と思っている時は、

欲が渦巻いているのが解りました。

やっぱり現品処分品だけど、これで十分かな・・・、と思っている時は、

身の丈に丁度いいものだとあきらめの境地。

過剰に感じた欲を切り捨てたというわけです。

炊飯器では、ちょっと欲を出したので良いさじ加減でお買い物できたのかもしれません。

その炊飯器は、手で下げて持って帰りました。

圧釜が重かったようで、持ち手を持っていた手がしびれ、

「61歳女性って、こうやって皆手に提げて持って帰ったりしているのかな?」と思いながら、

坂道を上っていました。

家に帰ると、「開けてみていい?」とヒロクニさん。

釜を取り出し、「重い釜やねぇ。」と一言。

「君は、凄い!」だって。

わたしは、「君は気楽だね。」と言ってやりたい。

(言ってない)

変わりに、「この年齢で、皆こうやって荷物持っているのかな?」と言うと、

「けっこう、おばさんはやるからな。」と。

おばさんというより、自分の姿が映りが悪い時、

お婆さんに見える時があるのですが・・・。

私達は、れっきとした爺&婆になりつつあります。

久しぶりに電化製品を買うと疲れますね。

 

 

最後は植え替えたビオラの苗の様子を。

↑育苗中のビオラたち

ピートバンに種を蒔いたものをポットに移し変えています。

1ポットに5~6個の芽を植えました。

↑このように鉢に植え替え、日当たりの良い、家の横に。

こちらはクラッシックな感じのクリームイエローのビオラと茶色のビオラ。

濃い紫の鉢。

同じ色でまとめています。

↑左はイタリアンパセリ。

大きな鉢にはビオラ。

ビオラは、レモンイエローと濃い紫、ブルーがかった紫、ピンク系の色の花をランダムに。

これも、もう一方の家の横に。

家の前は路地になって、秋からは日当たりが悪くなるので、

空いている家の横に鉢を置いています。

 

この大きな鉢の横に1本のセイタカアワダチソウが咲いています。

↑白い壁によく栄えているので撮りましたが、夕方に撮ったので日陰に。

右は、わたしのママチャリ。

神戸は坂が多いので、自転車に乗らなくなってしまいました。

その変わり、スポーツシューズが活躍しています。

↑コンクリートの割れ目から、大きく根を張り、1本だけ咲いています。

セイタカアワダチソウというのは、強い植物なんだと思いました。

何もないところに1本だけが咲いているので、

感心して見ています。

 

11月というのに暖かい日が続き、温もりが気持ちいい。

我家は、寒がりの住人がいるので、助かります。

今日は、電化製品の売り場での心の葛藤を書きました。

こんなふうに葛藤する人っているのだろうか?と思いながら。

我家は、お金に縁が薄い職業なので、電化製品が壊れたら、

「誰か、あまっているのを譲ってくれないかな?」等と思ってしまいがちなんです。

今使っているオーブンレンジも、「新しいの買ったからいらない?」と言われて、

譲られたものなのです。

今使っているガスコンロも。

だから、買うとなるとかなりの決心なわけ。

久しぶりに見た家電は、かなり進歩していました。

自分で買うというのも大事なことだと思いました。

今日も、こんな内容を最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。

 

 

 


羊が2匹(作品紹介750)と 妻の告白

2023-10-24 16:35:34 | Weblog

この絵は、週刊誌「毎日サンデー」の関西粋人インターネットのコラムの為の挿絵。

この絵を見て、どんなコラムの内容であったのか?

まるで思い出せない・・・・。

羊が2匹登場している。

羊というのは、武内が描かない動物なので、不眠症のコラムだったかもしれない。

羊を数えれば眠れるということが書いてあったのかも。

その他に、酒瓶や大学らしき建物が見てとれるので、

コラムを書いた人は、数学者の「森毅氏」であろう。

数学者とういのは、私達にとって遠い存在だからなのか、

数学者の観点から書かれたコラムは意表をつくもので、楽しく拝読していたように思う。

挿絵は、必ず文章を前もってもらっていたので、

それをヒントにして描いていたのを思いだします。

銃をぶっ放す中央の人物は、ギャング映画を好む武内の嗜好が表出しているように感じて、

わたしだけが笑える箇所だ。

「こんなところで、自分を出してどうする?」と、つっこみを入れたい。

しかし、この人物の表情・・・。

わたしに、わたしとは縁もゆかりもない怒りをぶちまけている顔にそっくりだ。

先回のブログに書いた「怒りをわたしにぶつけるな!」の口論を思い出す。

ちょっとアップにしてみよう。

↑こういう顔で、向かってくる。

左側の腕が2箇所に折れ曲がっている異常な腕が、

武内の異常性をよく現している。

今は、2階に上るという逃げ道に気づき、二階にあがって自分を隔離します。

話がそれてきたので、戻します。

左下にも人物がいます。

タキシードを着たような人物。

その人物が、森毅氏に対するオマージュになっています。

森毅氏のコラムの時に、決まって描かれていました。

武内は、森毅氏にダンディーを感じていましたから。

いかにも数学的な顔に描いているのが、味になっています。

 

 

先回のブログでの口論が終わってから、悶々と考えるわたし。

よく、「60歳からの出発」とか、「60歳からの人生」とか、「60歳からの挑戦」とか、

「60歳からの生き方」「60歳からの仕事」「60歳からの楽しみ」という女性週刊誌を飾る言葉がある。

女性と言うのは、結婚や育児、

それからという具合に、ライフスタイルに顕著に変化がある生き物であると、わたしは思っている。

わたしの場合は、結婚してからスタイルを変えることなく生活してきた。

古めかしいかもしれないが、女性は男性を支えるものと思ってきた。

主人の画家という職業を考えると、やりがいがあったと言えよう。

わたしは、婦人雑誌のそんな言葉を見ても、

あまり感心したことがなく、そんなババ臭いと思っていたぐらいだ。

ところが、急に「60歳からの挑戦」をしてみたくなった。

それは、59歳ぐらいの時に、ふと頭をよぎり、

60歳になって、手始めにやってみた。

やろうと思えば、下手なりに出来る。

61歳になった頃、自分の時間、1人の自分である時間がもっといるという事に気がつく。

この1人感覚は、遠い昔の自分にあった。

武内は、寂しがりやのせいか、べったりとした時間を好み、独り恐怖症のような人。

その恐怖症に付き合い、自分がなくなりそうな危うい気分になる時が時々ある。

引っ越しをして、買い物に行きながら、道々「舞台が変わったな。」と歩く時があり、

人の模様や、話す内容も変わる。

そんな中で浮上してきたのが、「もう少し、自由になってもいい。」という気持ちだ。

この気持ちは、わたしの心に深く沈下していたもので、

地底の底に眠っていた。

「そうよね。やりたいことにちょうどとりくめる最後のチャンスかもしれない。」

引っ越しをする前は、場所が変わっても同じような日々が続くのだろうと思っていました。

しかし、意外な環境の変化で、「必要」なこととして、気持ちの欲求が表に出てきた。

だから、いちいち出かけることに文句を付けられたりすると、

息苦しく、窮屈に感じられ、締め付けられているような気分になってしまう。

それと、もしかしたら、夫を甘やかしすぎてきたのかもしれない。

わたしの考えでは、人は甘えることも必要だし、

甘えが満たされて、心にワンクッションが出来ることで、人は強くなれると思っていましたが、

もう、夫の場合は、「甘えクレ!クレ!」状態で、

悪い意味で自制が聞かなくなって、依存体質になっているのかもしれない。

歳の差婚なので、老人がどんなふうに身体が大変になるのかわからないので、

周りの武内の同い年の位の人を見て、やっぱり身体が大変そうだと思い、

労わらないといけないかな?と思っていましたが、

武内の場合、「普通の人よりエネルギーはかなりある」と見た。

だから、寝たきり老人にならないためにも、

外に連れ出し、ガンガン歩いてもらわないとダメだ。

わたしは、お前が散歩に行かないから、独りで歩いているのだろうが!

と言いたい。

86歳になって、妻から厳しくされるというのは、可哀想な気もするが、

実から出た錆で、自ら招きえた結果として受け入れてもらおう。

それでも、わたしは必要以上に意地悪はしないと思うので、普通になるだけだと思うのです。

今までが、異常だったということ。

 

わたしの挑戦というのは、ブログ以外の文章を書いてみたいという事。

自分の文章がいいとは思わないが、

ある思いつきで描いてみたいものがあるのです。

「やっぱり世界感が必要なんだ。」と気がつくと、自分の心の中を散策しなければなりません。

時々、独りで散歩に出て、ふっと自分以外のものが、

遠く感じ自分というものを感じることがあり、

この感覚をどれぼど長い間だ忘れていたことか・・・と呆然としました。

この感覚が、わたしには今必要なんです。

こういうことを通して、自分のことを見つめたりするのだと思う。

やりたいことにとりくめる最後のチャンスの年齢だ。

占星術では、次のステージに上る前。

何かの巡り合せと思っている。

 

夫は、解らないだろうね。

自分中心の権化だから・・・。

そんな性格だから、芸術を続けられるのだとは思うけど。

今日は、わたしのお気持ちの内容になってしまいました。

主人の寂しがりが異常なのです。

その大変さにつきあってきましたが、そろそろ手放したい。

今の住まいは、武内のホームグランドのような地。

もう、家に帰ったようなものなので、独り恐怖症を手放してもいい頃合いかと。

窮屈なことから、開放されてもいいとどこかで感じとっているのだと思います。

何かから、啓示されているような感じもあり。

(啓示は、妄想かも・・・)

妻の独白のような内容になってしまいました。

恥ずかしい限りですが、今日もこんな文章を読んで下さりありがとうございます。

 

最後は、我家のピーちゃんで。

↑ピーは、2階の住人でめったに1階に下りてきません。

めずらしく下りてきた時に、写真を撮りました。

玄関に面したところに、階段があります。

顔がどこにあるか分りにくい猫なのですが、1階ではきびしい顔をしています。

 

↑近づくと、そそくさと階段を上っていきます。

その瞬間を撮ってみたのですが、

サビの毛皮が茶色と黒がちの茶なので、

階段の色と同化しています。

トン、トン、トン、トンという足音が可愛いのですが、

怖がりな性格なので、すぐ上って2階の寝室へ行ってしまいます。

1階は、怖いというのが・・・。

 

 


赤とブルーのコンポジション(色鉛筆作品749)と 長い口論

2023-10-17 15:43:03 | Weblog

この絵は、比較的に大きな作品で、38cm×53cmのサイズになります。

ブルーと赤、そして黒い太い線が形を強調しています。

顕微鏡を見て、細胞が動いているかのような雰囲気があります。

紙と色鉛筆で出来たものが、見ると躍動感が感じられるように変化するさまは、

絵画のあるべき姿の1つなのだろうと思う。

こんなことを思わす画家なのに、我が夫、武内は人を疲れさす人物だ。

 

しばらく、ブログを書かないでいたのには理由があって、

「武内ヒロクニのことを考えたくない。」と思っていました。

私達は、“夫婦喧嘩は犬をも喰わない“という、喧嘩ばかりしている夫婦なのですが、

喧嘩というより、わたしがストレスに感じることをして欲しくないというのがあって、

自分の中で「わたしは、こういうことが嫌なんだ。」というものがはっきりし、

そのことを分ってもらうのに話をすると、口論になり、

その口論は3日間に及よび、かなり疲労困憊していた。

また、その話ている間に感情もかなり害し、主人のことは頭から離していた。

嫌なことというのは、

非常に怒りという感情が多く出る人なのですが、

その怒りをわたしに向けて叫んでいることが多く、わたしは、それが嫌でたまらない。

その怒っている顔の醜いこと。

それに、怒っている理由がわからない。

そんなことでそこまで怒るのか?というようなことや、

それって、ただの甘え?で、自分が悪いのと違うのというようなもの。

わたしからすると。

そうすると、「怒ろうが、なにしようが私の自由だ。」という。

そこで、「怒るのも別に自由なのはいいけれど、人に向かっていうのはやめて!」と言い、

「わたしは、それが嫌でたまらないから、わたしに言うな。」と言うのであるが、

わたしが嫌だと思っていることを、何度言っても理解しようとしないのです。

「そこまで人の話を聞こうとしないのだったら、わたしもそうするわ!」

となり、ずーと「人の話を聞かないのに、話を聞いてもらおうなんておこがましい。」

と、こればかり言い続けています。

“激オコ“というやつ。

もう一点あって、引っ越した先は、いきなり感覚タイプ友人が現れ、

共通項が多いので話しているととても楽しい。

場所も近いから話をしたいというのがあって、買い物ついでにそれが出来るから、つい、帰るのが遅くなる。

帰ったら、「遅い。」と言われるが、

ちゃんと夕食の準備には間に合う時間で、遅くもないのにくどくど言われる。

同じようなことでは、わたしの両親も歳になっているので、母のようす見もかねて実家へいくのですが、

「また、行くの。」と非難すること。

母には、引っ越しの際、近くにいて欲しいと言われたのですが、

神戸に戻りたいという主人の意見を優先したということもあって、

1ヶ月に1度は、母の顔を見に行くことにしたという経緯がある。

それに、難癖つけるとは・・・・。

また、父からの電話で話していると、

「何で親子でそんなに話をするの?父親が娘にそんな長い電話をするの?」と言い、

いきなり、「あの人は、娘に甘すぎる。」とか言うのだ。

たまの電話に文句つけられて、嫌な気分だ。

父もどういうわけか寂しくなってしまって、寂しいから電話かけてきてるのだろうな・・、

と思って話をしているのがわからないらしい。

いつも寂しいばかり言う人が、人の寂しさに思いやりがないなんて!

自分のことばかりなんだ!

と思い、また憤慨。

外出する時は、いつも伺いを立てて、気を使い、ちゃんとお昼のお弁当まで作って外出していましたが、

帰ると食べてない弁当が机の上に・・・。

それと、文句を言われるのが好きじゃないというわたしの性格。

すべてが合わさっていました。

そう、風のように外に出たい。

そこまで自分中心の人に、合わすのが嫌になった。

ある意味、わたしは順調に年齢を重ねていっているみたい。

結婚して34年になり、今までよくやったと思い、

そして、今、新しい自分に遭遇しているようです。

 

近頃、幻聴も聞こえるようで、

しーんとした空間にいると、透き通った声の合唱が聞こえるのです。

ハミングしているような女性の声。

いつも同じ音楽。

綺麗な声なので、別に悪いものじゃないよね、と思いながら聞いています。

何かの信号なのかしら?

まだ、人に話してなくて、ブログに書いてしまった次第。

その幻聴に癒されているという感あり。

 

 

継いで育てているビオラの種。

↑発芽して、今は葉が大きくなってきています。

はじめて、ピートバンなるものを使って発芽させました。

 

↑やっと海へ。

家から歩いて20分。

ハーバーランドがある所です。

夕方の海。

 

↑制作ばかりしているから、歩きが不足しているヒロクニさんを連れ出しました。

「歩いてないから、脳に骨からの振動がなくって、頭おかしくなっているのと違う?

 頭悪くなっているよ。制作とか言ってるけど、歩いた方が絵にいいのと違う。」

とか言うと、身支度を始めました。

優しくではなく、意地悪く言った方が、この人にはいいのかも。

わたしは、まだ夫を許していません。

 

今日は、意地悪になった妻の気持ちでした。

優しくしていると、それが普通になってしまっていたのだなと。

言い換えると、小姑なヒロクニさんの話ともいえる。

意地悪妻と小姑な夫の話で、なんか元気なくされた方がいたらごめんなさい。

今日も、最後までお読み下さったかた、こんな内容を読んで下さりありがとうございます。