武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

ドノエル(色鉛筆作品紹介576)と 画家、猪熊弦一郎さんと熊谷守一さん

2020-11-28 14:35:09 | Weblog

この作品は、昨日仕上がったばかり。

2枚の絵を見せて貰いました。

鮮やかなブルーが眩しい。

作風は、新しく今まで見なかったスタイルです。

最近、朝早く、本当に早くて、私が6時前に起きても、すでに起きていて

アトリエ(隣室)から、バッシ、バッシという音がしている。

10時ぐらいになると食事を取り、一旦仮眠。

仮眠から起きると、また描き始める。

夕食が出来て呼ぶと、ヘナヘナとなっていて、食べながら寝そうである。

また、「疲れすぎて食べれない。」と言われる。

しょうがないから、マッサージをして、疲労を緩和してもらい、

少し食べるヒロクニさん。

また寝て、12時前に再び食事をして、少し絵を描いて寝る。

そして、また朝早く・・・・。このくり返しが長く続きました。

ようやく、「メドが付いた。」「追い込むの大変たっだねぇ。疲れた」と。

形の追求を追い込む時、描きつけてしまわねばならないようです。

それを、次、次、絵が要求するそうです。

 

ヒロクニさんの年齢にそわそわする私。

80代に入ってから、ちょっと身体の疲れ方が違うらしい。

晩年期に入ったと考えてもいい年齢でもある。

どういう人を頭に入れて目安にすればいいかな?と考えました。

私達2人が好きな画家で、猪熊弦一郎氏と熊谷守一氏を思い浮かべました。

2人とも、晩年非常に軽快な作品を描いた。

四国に「MIMOCA 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館」があり、行ったことがあります。

↓猪熊氏の彫刻を前にして、ポーズを撮るヒロクニさん

(今日取り上げた、絵の中にあるポーズをしている小鳥のようなものとも形が似ているのが奇遇な感じ)

2人で、美術館へ行き、猪熊弦一郎さんの作品を見て、爽快な気分になって興奮した。

↑猪熊弦一郎氏の風貌と作品。

猪熊氏は、フランスに渡り、アンリ・マチスに付いて絵を学び、

55歳にして渡米し、この渡米した頃に作風が非常にモダンになり抽象化を推し進めました。

ヒロクニさんと私は、渡米後の作品が特に好きになった。

私は、JAZZのシリーズの後の作品群でしょうか。

84歳の頃の言葉で、「絵を描くのに勇気を持たなくちゃいけない。」とおしゃっておられたのが、

印象にに残っています。

 

もう1人は、熊谷守一氏。

↑熊谷守一氏の風貌。お隣におられるのは奥様。

こちらの写真は、「独楽」藤森武氏の写真集より

 

ヒロクニさんは、精神が素敵だったという師匠・徳山巌氏に

東京へ上京した際、「おめーにちょっと似た奴がいるよ。」「ちょっとこい。」と言われて、

ギャラリーポアンという画廊に連れていかれたそうだ。

熊谷守一氏の個展だったそう。

猪熊氏とはすれ違いになってしまったようで、会えなかったよう。

「その頃の作風は、もうシンプルなものだったの?」という私の問いに、

「そうだったねぇ。」と答え、

「でも、気持ちは前衛の方を向いていたから、当時非常に感銘を受けたりはしなかったなぁ。」と言う。

「会っても、ああそうですか。で、終わったかもしれない。」と。

やはり、物事にはタイミングというものがあるのだなぁ~と、独りうなずく私なのでした。

 

またまた、その2人の画家の話をしていて、ヒロクニさんは急にこんなことを言った。

「猪熊氏より、やっぱり熊谷氏の方に軍配を上げるかな。」と。

「猪熊より、熊谷の方が俺はいいんだな。体温が詰まった感じが・・・。」と。

ううむ。と思う私。

2人の違いを考えてみた。

猪熊弦一郎氏は、フランス、ニューヨーク、最晩年は、日本とハワイを行き来する国際派。

ある会話の中で「フランスも日本も歴史があって、過去の時間が追いかけてくるのだけど、

アメリカは、歴史が浅い国で、過去が追いかけてこない自由があった。」とお話しされていました。

空間的な広がりは、ここからきているのかもしれません。

反対に、熊谷守一氏は、ほんとうに貧乏で、また日本を離れたことがなく、晩年は自宅の庭で、蟻やら石ころを見て、

飽きずに延々過せるという人である。

奥様からは、「あなたは、イソギンチャクなんです。」と言われている。

やはり、最大の違いは、何だろう?と、その環境や、生活様式の違いを思い浮かべていた。

「清貧な生活を送らざるを得なかった熊谷氏には、侘びた生活の中で、自然と“侘び然び”感が体得されていて、

それが絵に浸透し、その精神が、あなたにぴたっとしているのじゃない?」

という仮説を言った。

ヒロクニさんも「それは考えもしなかったなぁ・・・・。」と。

なにかを発見をしたようで、私はちょっと嬉しくなった。

明快な絵の中に控えめな精神、謙虚さがあって、それでいて芯の強い、

いかにも日本の精神なのでは?と。

「侘び然び」のある素晴らしいものとして、私は、“松尾芭蕉”の句があると思っている。

あの短い言葉の中に、1つの宇宙感、また儚い刹那のきらめき、時間の瞬間などが詰まっている。

出家した西行法師に憧れ、質素な庵に住み、西行の旅路と同じ道を旅した芭蕉のことを思う。

これが、「奥の細道」の句になるのですが・・・・。

やあり、清貧であると、それなりの美意識が生まれのだなぁ~と。

こちらは、熊谷守一氏の「蝉」という絵。

とてもシンプル。もう究極の粋に達しています。

 

『閑さや 岩にしみ入る 蝉の声』(奥の細道より)

私は、この句を読むと、人気のない山間で、蝉の鳴き声が鳴り響き、

その情景から、この世の儚さを感じ、生死感のようなものも感じます。

熊谷氏のこの絵にも、やはりそんな静けさを感じます。

 

私の熊谷弦一郎、熊谷守一評を述べたわけですが、一般的なことは置いておいての私見になります。

そして、どちらも素晴らしい画家である。

さあ?ヒロクニさんは、どこまでいけるか?と妻は、手に汗を握るのであった。

自分が素晴らしくなるのは大変です。

 

ヒロクニさんも晩年といってもおかしくない年齢に来たが、これからの時間の見当がつかないのです。

そこで、高い目標だが、熊谷守一氏を目安として、どのようにこれからの時間を過ごすかを

参考にしようと。

お二方と比べると、ヒロクニさんは、ものごとをバッチと決めれない優柔不断なところがあるのが、欠点かな?

妻の採点は、厳しいのです。

まあ、なにはともあれ、作品でハッとさせられた時は嬉しい。

今日の絵のスタイルが発展して、どんな絵になっていくのか楽しみにしています。

ドノエルという絵には、ちょっと新しい風が吹き込んでいるのです。

ちなみに「ドノエル」というのは、フランスの小説家ルイ=フェルナディナン・セリーヌを

世に送り出した人物の名前だそうです。

説明してくれました。

ヒロクニさんは、

「世の中の人は、セリーヌっていったらカバンのことだっていうのだから、ひでぇもんだね。」と、

「とんでもねぇ奴らだ。」と、言って世の中の人を軽蔑しています。

(ヒロクニさんの前で、カバンやクツの話のセリーヌはご法度ですからね。)

それを言っているのを聞くと、変なおかしさがこみ上げて来て、笑ってしまう。

だって、どっちもどっちな感じがして、すごーく面白い。

私は、どちらにも興味がないのです。

家にあるセリーヌの小説の文章を読んだら頭痛がしそうでした。

 

↑庭ではツワブキの花が咲きました。

↑違う角度からもう1枚。

ツワブキの花は、半円をえがいて花が咲きます。

そのくっきりと浮かび上がってくる半円を見る時、ひとつの宇宙があるのだなぁと思うのです。

世界は美しいと。

大げさなんですですけどね。

 

↑絹さやを植え付けました。

網を張らないといけないのですが、どうやればいいのか?

あまり、園芸道具を増やしたくないから、創意工夫を!!と。

 



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2 コメント

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Unknown (ともりん)
2020-11-29 20:47:54
新鮮な感じがする作品です。
それは、さほりんが解説してくれている「鮮やかなブルー」の印象が強いからかもしれません。
ブルーをたっぷりと塗りこまず、白の隙間を残しながら塗っているのも、新鮮なのでしょうか。
映画『太陽がいっぱい』を連想しました。

「どういう人を頭に入れて目安にすればいいかな?」に、なるほどと思いました。
少し先の、自分の想像する姿を想像しながら生きていく、ということはよく言われますが
夫婦の姿としても、とても良いイメージであり、やってみたいと思いました。
猪熊弦一郎氏と熊谷守一氏、に、なんだか納得しました。
作品から受ける感じに共感するような感覚があります。
熊谷守一氏の「とてもシンプル。もう究極の粋に達しています。」に、氏の作品に対する感覚として、これ以上はないと思いました。
作品に対して削って削って、本当の最小限にしたような感じを受けます。
言葉では簡単に言えてしまいますが、実際にはとても難しいことだと考えます。


ツワブキの花、公園などにはよく咲いていますが、じっくり見るのは初めてかも。
半円に咲く鮮やかな黄色と、しゅっと伸びた花びらが凛々しいです。
濃い深緑色で艶のある葉とのコントラストが鮮やかです。

そうそう!道具は増やしたくないのですよね。
同感です。
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ブルーが印象に残るよね。 (さほりん)
2020-11-30 17:24:02
コメントありがとうございます。
ブルーが、描かれていない白によって、明るく見えるなぁ~と強く感じました。こういう風な残し方をして、作品を完成させたものはあまりないと思います。
「太陽がいっぱい」も、海のブルーが印象に残る映画だったと記憶しています。あの映画は、ちょっとスノッブな要素を隠し持っているところが、フランス映画の醍醐味だったと思いだしました。アラン・ドロンとモーリス・ロネの関係がちょっと怪しかったと。

私の家族は、別に芸術関係とは程遠いので、想像がつかないので、考えたのです。
「少し先の、自分の想像する姿を想像しながら生きていく、ということはよく言われますが」ということは、まったくの初耳です。そう考えると、なかなかいい着想だったのかしら?と思えます。貴重なコメントありがとう。私は、ヒロクニさんのことだけを考えていて、夫婦の姿と書かれていてハッとしました。考えに自分は、含まれていなかったわ。
自分も含むと、自身が、かなり努力しないといけない。(汗・・・)ヒロクニさんだけに、努力を強いようと思っていたような・・・・。
ともりんは、時々鋭い。

今年は、庭の左にあるものがきれいでした。右にあるものと花姿が違うのです。右のは、花びらが太くて短いのです。そんなことに気が付いたりしました。
やっぱり、道具は増やしたくないというくだり、ともりんもそうなんだ!と思って、そうか~と思いました。(笑)
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