この絵は、大きな作品でボールペンと色鉛筆で描かれています。
76cm×67cm。
描き込みは、とても細かい。
タイトルは、「走った街、歩いた街」と。
街を駆け抜けるヒロクニさんの風景画だ。
最近、ヒロクニさんと話していると、
「ちょっと今から走るから。」と言ってアトリエへ行った。
制作することも「走る」って言うのだと、そんな事に気が付きました。
この絵は以前にも取り上げたことがありますが、
画像を大きくして見やすくしてみました。
以下、部分をアップで撮ったものも紹介します。
細かい部分を見るのもけっこう楽しみな絵になります。
↑人物らしきものが描かれている。
いったい何人いるのでしょうか?
↑黒色の線がくっきりしていて、白と黒の対比がいい感じ。
鋭角の線も斬新な要素になっている。
↑武内がよく描く、地下鉄の入り口を見つけました。
骸骨も見つけた。
↑右下の部分の赤い花が印象的。
花もよく描き込みますが、必ず花びらは5枚の花弁なのです。
そして、この形。
いつも、同じことを思うのですが、下書きなしで描かれていて驚きます。
ボールペンという素材で描かれているということは、そういう事なのです。
私は、このところ、急に、マーク・ロスコの絵が思い出されて、
脳裏に浮かぶ。
大きなキャンバスに浮かぶ色面。
とてもシックな作品。
↑こういう作品です。
これらのマーク・ロスコの絵が頭の中で、立ち現れてどうしても気になる。
長い間だ忘れていた記憶のようなもの。
アメリカの美術、1940年代後半の流れとして出てきた抽象表現主義の画家。
第二次世界大戦の終わったあと、徐々に美術の世界の主流をなしていく。
マーク・ロスコは、こういう作品に行き着くまでにかなり長い時間をかけていて、シュールレアリストでもあった時期もある。
私は、この行き着いた絵がどういう分けか浮かぶのです。
色面としてだけでなく、何か深みがあるのだと思います。
そんなことをヒロクニさんに言うと、
「マーク・ロスコ?深遠な画家で、あんな世界には寄りつけないよ。
確か、自殺してしまったのじゃないかな?」と。
そして、続けて「確か、ジャクソン・ポロックも自殺に近い感じで、車を猛スピードで運転して、亡くなったのじゃないかな?」
「ポロックもいいけどね。」と。
話がポロックに飛ぶのですが、この2人は、抽象表現主義の代表的な存在なので、マーク・ロスコときたら、ポロックが出てくるのは自然な流れなのです。そして、フンフンと聞いていた。
↑こちらが、ポロックの作品。
アクションペインティングと言われるもの。ドリッピングという絵具をたらす技法で描かれています。
やはり、ポロックも最初からこういうスタイルではなく、フォークロアな要素とキュビズム的な要素が混ざり合った作品も多い。
ヒロクニさんは、「ポロックには、ピカソがあるでしょ。」と、一言。
ヨーロッパの影響を受けながら、脱ヨーロッパにという風なことを言います。
けっこう、簡単に言っていますが、色々なものに目を通しているのだなぁ~と、感心して聞いていた。
若い頃は、さっぱりだったジャクソン・ポロックの作品。
ひどい言い方をすれば、「私だって出来る。」「どこがいいの?」でした。
しかし、長い年月をかけて、じんわりと色のハーモニーというか、かもし出される芸術性を薄らぼんやりと感じれるようになってきた。(つい最近の話)
毎日、ポロックの絵のことを考える生活はしていない。
日常の買い物やご飯のことで一杯で、忘れたりしている。
ぼんやりから、物事がはっきりしてくる時がります。
そこで、抽象表現主義の中のもう1人の大家の名前も上げた。
「ウイリアム・デ・クーニングもいるよね。」と、私が言った。
「クーニングは、いいよね。俺は、好きだね。」と。
「私も好きなんですけれど・・・。」と、すかさず。
大原美術館で見た絵が頭に浮かぶ。
確か、英字の新聞が透けて見えていて、その上に油絵具で「女」が描かれていた。
↓こちらが、クーニングの絵。(大原美術館のものではない)
この絵具のありようと、色、そして女性の顔形に魅力を感じるのです。
この時代のアメリカの絵画、特に抽象表現主義の作家は、魅力ある人が多くて、ため息ものです。
この流れの後の画家に、フランク・ステラが出てきますが、こちらも精神の広がりを感じました。
↑こちらが、美術館で見た作品に近しい表現のもの。
マチスの絵を見た時の感触と似ています。
この感じ方は、私が思ったことなので的外れかもしれません。
(兵庫近代美術館で、ステラは鑑賞できました。)
抽象表現主義の画家のことを書きましたが、何が言いたいかといいますと、
ヒロクニさんは、よく「俺は、シュールレアリスト。」と言う時がある。
この抽象表現主義の絵からは、まったくシュールレアリズムは感じませんが、根底にはシュールレアリズムから発展したという事実があります。
そして、ヒロクニさん独自の表現方法も根底に、シュールレアリズムがあるということです。
私は、ヒロクニさんの言う意味が、少し分かりかけているのかもしれません。
この共通する部分を少し考えてみるのも、絵を見る助けになるかもしれないと思って、手前味噌な雑感を書きました。
私は、そんなに賢くない頭から、ぞうきんを固く絞って知性を搾り出している状態なのですが、そういうこともあるのかも?と思って頂ければと思います。
頭が悪いという事は、まだまだ頭は良くなる“伸びしろ”がたくさんあると思って、楽しみだと思うことにしています。こういう考え方いいと思いません?
しかし、「今日の夕食は、何を作ろう?」「こうやったら料理は美味しい?」が、頭の中の大半を占めてます。食べることに熱心な私。
「美味しく食べる」ということに余念がないというか、執着している私ですが、“とても面白いもの”として絵があります。
そんな面白さも感じて頂ければ幸いです。
そんな日の夕食のメニュー。
↑絹さやを収穫しているので、絹さやの卵とじが多い我家。
「もう、これはいらない。」と言われる始末。
「食べないのだったら、私が食べるから。」と言って、ヒロクニさんの分も食べます。
豚バラの大根お煮込みとほうれん草のアーモンド和え。
鰹のたたきに新玉ねぎのスライス。
茄子と麩と油揚げとみょうがのみそ汁。
私だけ食べる、大根の糠漬け。(自家製)
(糠漬けは、もう飽きたそう・・・・)
昨夜の残り物の豚のひき肉と筍のそぼろ。
残ったものは、翌日の昼のごはんに出します。
(以前は、いつも昼ご飯ごとに作っていたのですが、この方法だと少し楽なんです。)
次は、そら豆の収穫になりそうで、豆づくしの我家。
また、文句言われるのでしょうか?
絵画というのは、全体を見た印象で感じるものだと思っていましたが、ヒロクニ先生の作品を見てから、それは違うと思うようになりました。
全体を見て、はもちろんなのですが、細かいところや部分を切り取ったところで見ると、また違った感じ方や発見があり、とても新鮮です。
作品全体、そして切り取った細部にも風景とストーリーがあり、とても短時間では見ることができません。
街の人と活気と雑多でエキサイティングな感じが、そのまま作品になっているようで、圧巻です。
マーク・ロスコの作品、ちょっと怖いです。最初に紹介されていた作品は、恐怖を感じる孤独感という印象を受けました。
自分の中の狂気と向き合いギリギリのところまで葛藤する、という感じでしょうか。
マーク・ロスコは内に向かって葛藤し、ジャクソン・ポロックは外に向かって葛藤する、とおぼろげに感じました。
ヒロクニ先生は、さすが、と言ったら失礼なのかもしれませんが、見聞が広く知識が深く、すごいなと改めて思いました。
ウイリアム・デ・クーニングとフランク・ステラ、前者と少し印象が違うと感じましたが、さほりんの「精神の広がり」という言葉に、腑に落ちるような気がしました。
抽象表現主義とシュールレアリズム、言葉の意味をGoogle検索しながら読みました。
ヒロクニ先生の作品を見ながら、「自分がこう感じるところが抽象表現主義で、この感覚がシュールレアリズムなのかな」と色々と考えました。
その違いはわかりませんが、作品を制作している考え方の背景や論理的なことを考えるという視点を、今回新しく気が付き「なるほど」と思いました。
さほりんのブログを読んでいると、学校の美術の時間とは違う美術の勉強をしていることに気が付きます。ありがとうございます!
絹さやの緑色は食卓が華やかになりますね。卵とじだと黄色も入って、さらに華やかです。
いつも、手の込んだおかずが多数並んでいて、手間をかけていてすごいなと思います。
糠漬け、美味しいのに……(そして、手間もかかっているのに……)。食事の献立は難しいですね。
自宅で収穫された旬のものは、どうしても食卓に供されるのが続いてしまいますが、それは、実はとってもぜいたくなことなのだと思います。
それも旬の醍醐味と、ヒロクニ先生に思ってもらいたいなあと思うのですがなかなか難しいようで、さほりんのお気持ちを考えるとせつないです。
■「ポロックには、ピカソがあるでしょ。」は、
→「クーニングには、ピカソがあるでしょ。」でした。
話の記憶が間違っていました。
この作品は、旧作の色鉛筆と作風が似ているのですが、描かれた時期は、今の家で描かれたので15年ぐらい前の作品かと。
私も街を散歩しているような気持ちになるので、好きな作品です。やや近視的になりながら、全体まで目が行き届いており、また訂正した箇所もないので、私も完成度の高さに驚いている作品になります。
抽象表現主義のところまで、きっちりと読んで下さり、けっこう思考しなければならないので、大変だったと思います。でも、ともりんは、勘がいい。
マーク・ロスコは、思考も論理的で、かつニーチェに影響を受けたりとかなり難しい。私はそこまで理解できないので、概要だけになりました。「怖い」というのは、直感的な表現ですが、私もそのように思います。ポロックは、ネイティブアメリカンの文化にも興味を持っていたので、アメリカの大地そのものに近づいていったのでは?「外」という感覚も、言えているのではないでしょうか?
クーニングは、抽象といっても具体的な形が浮き出ているし、ステラは、もっと後の人だから、違いを感じるのでは?と思います。
ともりんの感性も凄い!と思います。
私は、ヒロクニさんと画集を見て、あーだ、こーだと、恥ずかしい(ヒロクニさんの前で)感想を言いながら、啓蒙を受けている状態なのですが、絵画の楽しみをわかってもらえるのは、とても嬉しい。
ヒロクニさんは、シュールレアリズムの影響を受け、しかし、純粋な抽象には行かず、ポップアートの要素を受け、今は自分自身の中の前衛という感じになっているのではないかな?と思います。今は、人から影響を受けようというのはないようなのです。わたしもヒロクニさんを通して、今でも絵画勉強中という感じです。今回は、ちょっとがんばって書いた文章なんです。
ともりんは、勘がいいと思います。
晩御飯だけは、張り切っています。ヒロクニさんの楽しみは、もう晩御飯ぐらいになってしまって・・。コロナで、気軽に外にいけない、また行かないの生活が続いてしまって。晩御飯のおかずにケチを付けるのは、いかにも一昔前の亭主らしい振舞い。(笑)そんな風に横目で見ています。
糠味噌臭い女房に対抗しているのかしらね?
多く作って、翌日の昼ご飯を楽にしています。
本当に貴重なコメントありがとうございます。
東京もコロナで大変そうですが、元気でね。