爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

拒絶の歴史(86)

2010年07月11日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(86)

「家にこんど、遊びに来てと言われた」と、雪代はぼそっと言った。
「誰に?」ぼくは全然、べつのことを考えていたのかもしれない。ビニール袋の中身が重いなとかを。
「誰って、ひろし君の妹さんがよ」
「美紀が?」
「そう。荷物ちょっと持とうか?」
「いいよ。大丈夫だよ」と両手をぼくは軽くあげた。外国人がナンセンスだというときの態度のように。

「こんど、ラグビー部の後輩、ひろし君のこと好きだった子がいたよね。あの子が戻ってくるんだって。そのときにでもって」
「山下がか」ぼくはちょっとだけ考えるために沈黙し、「雪代はいやじゃないの?」と訊いた。

 ぼくは、もう三年間ほど雪代と交際していたが、彼女はぼくの両親に会ったこともなければ、また逆にぼくも彼女の両親に会ったことはなかった。その出だしが悪かったこともあったが、そろそろ修復の時期に入っても良かったのかもしれない。しかし、ぼくは、ある女性のことを完璧に忘れることもできないでいた。ぼくの高校時代はラグビーとある女性への思い出が当然のように結びついていた。

「かれこれ東京にでてから、たくさんのひとに会ったし、誰かに脅えたり緊張することも少なくなってしまった」
「その時期の都合はどうなの?」ぼくは、実際的な問題のことを考え出した。
「大丈夫だと思うよ。急な仕事が入ってこなければだけど」

 ぼくは、鍵がポケットに入っていることを告げ、両手を塞いだ状態なので、雪代にそれを取ってもらった。鍵を開け、なかに入った。ぼくは冷蔵庫に入れられるものをしまい、それを背中越しから見ている雪代が食材を探している。

「ピーマンとナスを取って」と言われたのでぼくはそれを掴んで彼女に渡した。それで、今日の夕飯の大体のメニューが想像できた。ぼくは、窓を開けてベランダに出て、そとの景色を見ながらビールの缶を開けた。後ろでは何かを包丁で刻む音がした。手伝えることを頭では考えていたが、行動には行かず、ただこの幸福感に酔っている自分がいた。彼女は手際よく数品を作り上げ、テーブルに乗せるのだろう。ぼくは缶の中味を飲み干し、
「ちょっと、出掛けるね」と言って外に出た。雪代は怪訝な顔をした。

 ぼくは近くにある花屋に行って、いつもテーブルが殺風景であることを思い出し、今日ぐらいはなぜか花でも飾っておきたいと考え、適当なものを見繕ってもらい、それを購入した。花瓶は、まだ雪代がこっちで住んでいるころに残していったものが台所の奥のほうに眠っていたはずだ。それは、ぼくだけが住んでいるときには出番が与えられずにいた。その帰りに公衆電話に寄り、実家に電話をかけた。まず、母がでてぼくの近況を話したり、彼らの最近のできごとを聞いたりした。その後、妹に代わってもらい、さっきの様子を問うた。

「だって、会って話してみれば、とってもいいひとじゃない。お兄ちゃんにはもったいないぐらいの」
「それなら、いいけど」
「お父さんもお母さんも口には出さないけど、関心があるみたいだよ。もう、あのことも許しているみたいだしね」ぼくは、ひとりの女性を獲得するために、いとも簡単にひとりの女性と縁を切った。自分がそういう過去をもっていることを、いまは不思議なことのようにも感じている。電話を終え、また家まで歩いた。夏より日没は早くなり、自分をこころもとない状態にしていた。

「どこ、行ってたの?」
「テーブルが殺風景だと思ったんで、いくらかでも華やかになればと思って」ぼくは照れたように、「花瓶、どこかにあったよね?」と訊いた。

 彼女は料理の手を止め、ぼくを凝視した。そこには愛情の証明みたいなものがあった。そして、言葉というものは、その目の表情をみると、いかにむなしいものであるということをぼくは知った。

 テーブルの上の料理と花瓶に挿された花の向こうに雪代の顔があった。ぼくは、ここ数年間の彼女の表情のいくつかを思い出そうとしている。だが、人間はいま自分の目の前にあるものが最高だと思い、ぼくも今の状態がベストなものだと思い出を更新していった。これは、彼女に対する愛情の物語だったのだという最初の意図を忘れがちであったのだが。

「これ、おいしいね」と言って料理を褒め、ワインのスクリューを開け、グラスをそれで充たした。