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拒絶の歴史(92)

2010年07月25日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(92)

 それが年末のことなのか、すでに年が明けてからのことなのかはもう覚えていない。ただ、小さな男の子にお小遣いを上げたので新しい年だったかもしれないが、事前にあげることもできたのでその辺はあいまいだ。

 松田という高校のときの友人でサッカーのコーチを代わってもらった男性が、ずっとうちに遊びに来てくれ、と言っていたので、ぼくは学校も終えてバイトも休みになったので、ある夕方そこを訪れた。となりには雪代がいて、小さな男の子の外出用にと洋服を東京から買ってきて持っていた。

 玄関のベルを鳴らすと、「どうぞ」と言って彼が首を出した。男の子も興味津々で後ろから顔をこちらに向けていた。奥さんはテーブルの上に料理を運び、それが完成間近になっていることは、その態度からもうかがえた。ぼくは妹のバイト先の店長に相談し、白と赤のワインを持ってきていた。

 彼ももう仕事の休みに入っていたが、その制服などが壁にかかっていたので日々の疲労や深刻さがそのことでも分かるような感じがした。

「狭くて、悪いな」と彼は言ったが、そこは居心地がよく小さな子がいる割には整頓されていた。奥さんもぼくらと同級生だったが、ぼくはあまり親しくしてこなかった。そんな時間の余裕もないまま彼らは高校生活を抜け出してしまっていた。

 知らない人に囲まれたある人を見ると、その人物の本来の性格や可能性の一端が見えることもある。ぼくは、雪代が小さな子たちと接した場面を見たことがなかった。それらの状況は一度もなかったのだろうか? だから、彼女がそのような立場に置かれると、どのような振る舞いをするのか知る機会もなかった。しかし、松田の子どもが彼女に近寄り、なにかを話しかけると彼女は直ぐ打ち解けた態度になり、いろいろ話を聞いてあげていた。ご飯が始まっても男の子はぼくらが珍しいのか、雪代の横に座り、いっしょになってご飯を食べていた。ときには、雪代は箸で男の子の口元に料理を運んであげてもいた。彼はいやがらず、それを食べた。

 ぼくと松田はお酒を飲み、過去に起こったことや、これから起こるであろうことを予想していろいろな話をした。彼らは、学校を辞めてもぼくらのラグビーを応援しに来てくれていた。そのことを今更ながらぼくは感謝した。彼は彼で、あまりにもまわりの自分たちを見る目が変わってしまったが、少なくともぼくの態度が変わらなかったことを、いまだに嬉しがっているようだった。そういうことに関わる気もなかったし、鈍感であろうとした自分がいたであろう気もするが、もうどうだったかは覚えていなかった。ぼくも雪代と交際を始めた当初は、同じような視線や態度にあっていたのだ。それだけでも、冷酷な加害者の視線を持てる状況にもいなかった。

 男の子は静かになってきたと思ったら、いつの間にか眠ってしまい、となりの部屋に奥さんの腕のなかに収まり軽々と運ばれていった。それだけでも、ぼくが普段会う大学の同級生たちとも違っていた。彼女らは小さなバックぐらいしか持たなかった。また、当然のこと自由を謳歌していた。それを善悪の判断もなく、ただありのままの事実として自分は記憶した。

 雪代と那美という奥さんは、台所で使われた皿やグラスを片付けていた。水の流れる音がして、となりの子に気遣ったのだろうか小さな声でなにやら会話をして、ときには笑い声がこちらまで聞こえてきた。ぼくらの前には何本かの空になったビンが並んでいた。そうなると、闇にかくれていた生き物のような思い出がふたたび浮かんできた。もちろん、松田の脳のなかにも浮かんできたのだろう。

「ラグビーをいつも応援していた子、あの子、可愛かったよな」という風に。
 雪代と那美さんは、そのときに部屋に戻ってきた。

「みんな、ひろし君にそのこと、聞いたほうがいいのよ。遠慮せずに」と、雪代は言った。それは着られなくなった洋服をタンスの中から見つけたような言葉であり、または冷蔵庫の奥の正体不明のものを手にするようなニュアンスでもあった。

「ただ、あのときのことを思い出すと、その映像が浮かんだもので」と彼は言い訳をするように説明し、直ぐにグラスを口に持って行き、言葉を呑んだ。

「わたしでさえ、そのことを覚えているしね」と、雪代はぼくの顔を見た。それを見て、そうだったんだ、という感じでぼくはうなずいた。しかし、それは、もう3年も前の話だったのだ。

 雪代は、いまだに近くの美容院のポスターの仕事をしていた。数ヶ月に一度、それは更新され、そのときどきの流行している髪形でそこに収まっていた。彼女は、那美さんの髪型をすこしいじり、「こうした方がいいんじゃないの?」とかのアドバイスをしていた。彼女は、もう数ヶ月でこちらに戻り、洋服屋をはじめることになっている。不思議と、誰もが雪代を信頼した。那美さんの鏡に映った視線もそのことを物語っていた。

 ぼくらは、歩いて帰る積りだったが、眠っている男の子の横で眠り始めてしまった松田を残し、那美さんの運転する車で家まで送ってもらった。そこで降り、彼女の車が消えるまで寒空の下、見送った。空を見ると、星がよく見えた。ぼくは、この星とシアトルの星はどのように違うのか考えていた。となりには暖かな身体を寄せてきている雪代がいて、それをどうしても手放したくはない自分だが、あのラグビーを無心に応援してくれた女性の姿も、松田の言葉を通して甦ってきてしまっていた。