拒絶の歴史(87)
それから、2週間ほど経って、ぼくは実家に向かった。車の助手席には雪代がいた。彼女は落ち着いていた。途中の店でケーキを買い込み、彼女はそれをひざに抱えていた。そして、少し離れた特急が止まる駅まで山下を迎えに行った。彼は大きなボストンバックを担ぎ、辺りを見回していたが、ぼくが車から降りるとやっと安心したような顔付きになった。
「山下と言います」彼は、車に乗り込むと雪代に挨拶した。彼女も同じように自分の名前を言い、「山下さんのことは試合でも知っているし、よくひろし君が話してくれます」とそれ以降も答えられることがあればいつでも丁ねいな説明をした。
彼の身体は一段と大きくなり、それがまた自信がある様子にも見えた。彼は大学に行って、自分の経験を積み、その才能によってレギュラーも手に入れられそうだった。ぼくは当然のことのように、自分がもしそういう道を歩んでいたらどうなっていたのだろう? という無意味な空想を自分に課した。無意味であるだけにそれは楽しかったことだし、またその反面自分をむなしい気持ちにさせた。人である限り名誉を受けたいという気持ちが自分にはあるのかもしれなかった。それを山下は実力で手に入れ始め、ぼくはなにも持っていなかった。身体を動かすのは小さな子たちにサッカーを教えているときぐらいだった。それはあまりにも苛酷という言葉から遠く、自分の考えでは遊びという範疇に近かった。
車の中では自然な温かみというのとは違い、どこかぎくしゃくとした関係が残っていた。山下もまた、ぼくが高校生のときに交際していた女性に肩入れしていた。それを忘れても良さそうなのに、彼は忘れることができなかったらしい。そういう感情を持っている人間と雪代を並べることを自分は嫌なはずだったが、とくに雪代は関心もなさそうに言葉が交わされない状態のときは、窓から流れ往く景色を眺めていた。
家に着いて、妹がその音を聞き、玄関のドアを開けた。彼女は山下の荷物を受け取り、それを横の部屋に入れた。そして、ふたたび出てきて、ぼくと雪代を家のなかにはいるよう促した。
テーブルでは父は新聞を読んでいた。「ようこそ」と言って気温のことや天気のことを質問した。母も台所での仕事を中断し、こちらに出てきた。
「息子がいつもお世話になって」という中途半端であるようにぼくが感じた言葉を発した。
「いえ、こちらこそ」と雪代は言ってから、自己紹介をした。それらの情報を彼らは持ってるはずだが、はじめて聞いたような素振りをした。打ち解けるには時間がかかる気配があった。
静かになり勝ちのテーブルだったが、山下がいつものように面白い話を提供し、その合間に食事を片っ端からたいらげた。うちの家族は全員、山下のことが好きだった。かれこれ4,5年は彼のその大食振りを見てきたはずだ。それをはじめて目にする雪代は少し驚いていたようだったが、表情だけで口にすることはなかった。
雪代は質問されたことの返答に自分の仕事の話をしたが、ぼく以外にはそれがどのようなものか全員が理解できなかったのかもしれない。実際の労働がはいらないことで、一体どのように金銭が生じるのか難しく考えているようだった。だが、それも半年ぐらいでこちらに戻り、洋服屋をはじめるという段階になって両親や山下は、頭の中にその映像を浮かべているようだった。
ぼくらは満腹になり、またある面では息苦しさを感じていたのか、山下が久々に戻ったので高校の方まで歩いてみたいと言ったので、ぼくらは4人で外に出た。母は、
「べつに今日じゃなくても」と言ったが、父は、
「歩いて、またお腹を空かせたいんだろう」と言って、ひとりで笑った。
妹は雪代と伴って歩き、ぼくは山下と歩きながら見慣れた町をゆっくりと歩いた。近所のおじさんは犬を散歩させていたので、ぼくは近付き頭を撫でた。
「ひろし君に撫でられるの、好きなんだよなこいつ」とおじさんは犬の背中を撫でながら嬉しそうに言った。
ぼくらは、彼の大学での生活を話し、またラグビーのことなども会話にのせた。
「あのひと、近藤さんと合っているみたいですね」突然、山下がそう言った。
「だって、もう何年にもなるんだぜ、合って当然だよ」
「そうですよね」と言って彼は、口をつぐんだ。そこにはもういない誰かのことを想像しているような感じがみえた。彼は、そのセリフを以前にもいったはずだと思い出しているのかもしれない。ぼくは、そのことを橋を渡りながら考えている。
山下と妹はなにかを買いに行くため、ぼくらから離れた。
ぼくは、高校の裏門で雪代と校庭を眺めている。
「最初に会ったときのこと、覚えている?」と彼女が同意を求めるように質問した。
「まだ、16歳だった。こんな、きれいなひとがいるのかと驚いたことを覚えてるよ」
「ほんとに?」
「ほんとうだよ。誰があんなひとと付き合えるのだろう? と思ったけどね」
校庭ではテニスのユニフォームを着た少女たちが練習を終えたのだろうか、グラウンドに水を撒いていた。それがキラキラと輝き、その一瞬を誰も封じ込めることはできず、ただ時間は流れ行くものだという当然の感慨をぼくは頭の中でなぞっていた。
それから、2週間ほど経って、ぼくは実家に向かった。車の助手席には雪代がいた。彼女は落ち着いていた。途中の店でケーキを買い込み、彼女はそれをひざに抱えていた。そして、少し離れた特急が止まる駅まで山下を迎えに行った。彼は大きなボストンバックを担ぎ、辺りを見回していたが、ぼくが車から降りるとやっと安心したような顔付きになった。
「山下と言います」彼は、車に乗り込むと雪代に挨拶した。彼女も同じように自分の名前を言い、「山下さんのことは試合でも知っているし、よくひろし君が話してくれます」とそれ以降も答えられることがあればいつでも丁ねいな説明をした。
彼の身体は一段と大きくなり、それがまた自信がある様子にも見えた。彼は大学に行って、自分の経験を積み、その才能によってレギュラーも手に入れられそうだった。ぼくは当然のことのように、自分がもしそういう道を歩んでいたらどうなっていたのだろう? という無意味な空想を自分に課した。無意味であるだけにそれは楽しかったことだし、またその反面自分をむなしい気持ちにさせた。人である限り名誉を受けたいという気持ちが自分にはあるのかもしれなかった。それを山下は実力で手に入れ始め、ぼくはなにも持っていなかった。身体を動かすのは小さな子たちにサッカーを教えているときぐらいだった。それはあまりにも苛酷という言葉から遠く、自分の考えでは遊びという範疇に近かった。
車の中では自然な温かみというのとは違い、どこかぎくしゃくとした関係が残っていた。山下もまた、ぼくが高校生のときに交際していた女性に肩入れしていた。それを忘れても良さそうなのに、彼は忘れることができなかったらしい。そういう感情を持っている人間と雪代を並べることを自分は嫌なはずだったが、とくに雪代は関心もなさそうに言葉が交わされない状態のときは、窓から流れ往く景色を眺めていた。
家に着いて、妹がその音を聞き、玄関のドアを開けた。彼女は山下の荷物を受け取り、それを横の部屋に入れた。そして、ふたたび出てきて、ぼくと雪代を家のなかにはいるよう促した。
テーブルでは父は新聞を読んでいた。「ようこそ」と言って気温のことや天気のことを質問した。母も台所での仕事を中断し、こちらに出てきた。
「息子がいつもお世話になって」という中途半端であるようにぼくが感じた言葉を発した。
「いえ、こちらこそ」と雪代は言ってから、自己紹介をした。それらの情報を彼らは持ってるはずだが、はじめて聞いたような素振りをした。打ち解けるには時間がかかる気配があった。
静かになり勝ちのテーブルだったが、山下がいつものように面白い話を提供し、その合間に食事を片っ端からたいらげた。うちの家族は全員、山下のことが好きだった。かれこれ4,5年は彼のその大食振りを見てきたはずだ。それをはじめて目にする雪代は少し驚いていたようだったが、表情だけで口にすることはなかった。
雪代は質問されたことの返答に自分の仕事の話をしたが、ぼく以外にはそれがどのようなものか全員が理解できなかったのかもしれない。実際の労働がはいらないことで、一体どのように金銭が生じるのか難しく考えているようだった。だが、それも半年ぐらいでこちらに戻り、洋服屋をはじめるという段階になって両親や山下は、頭の中にその映像を浮かべているようだった。
ぼくらは満腹になり、またある面では息苦しさを感じていたのか、山下が久々に戻ったので高校の方まで歩いてみたいと言ったので、ぼくらは4人で外に出た。母は、
「べつに今日じゃなくても」と言ったが、父は、
「歩いて、またお腹を空かせたいんだろう」と言って、ひとりで笑った。
妹は雪代と伴って歩き、ぼくは山下と歩きながら見慣れた町をゆっくりと歩いた。近所のおじさんは犬を散歩させていたので、ぼくは近付き頭を撫でた。
「ひろし君に撫でられるの、好きなんだよなこいつ」とおじさんは犬の背中を撫でながら嬉しそうに言った。
ぼくらは、彼の大学での生活を話し、またラグビーのことなども会話にのせた。
「あのひと、近藤さんと合っているみたいですね」突然、山下がそう言った。
「だって、もう何年にもなるんだぜ、合って当然だよ」
「そうですよね」と言って彼は、口をつぐんだ。そこにはもういない誰かのことを想像しているような感じがみえた。彼は、そのセリフを以前にもいったはずだと思い出しているのかもしれない。ぼくは、そのことを橋を渡りながら考えている。
山下と妹はなにかを買いに行くため、ぼくらから離れた。
ぼくは、高校の裏門で雪代と校庭を眺めている。
「最初に会ったときのこと、覚えている?」と彼女が同意を求めるように質問した。
「まだ、16歳だった。こんな、きれいなひとがいるのかと驚いたことを覚えてるよ」
「ほんとに?」
「ほんとうだよ。誰があんなひとと付き合えるのだろう? と思ったけどね」
校庭ではテニスのユニフォームを着た少女たちが練習を終えたのだろうか、グラウンドに水を撒いていた。それがキラキラと輝き、その一瞬を誰も封じ込めることはできず、ただ時間は流れ行くものだという当然の感慨をぼくは頭の中でなぞっていた。