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拒絶の歴史(90)

2010年07月19日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(90)

 ぼくはバイトを終えて家に帰る。小さな包み紙は大学に通うバックに放り込んだ。それを開きながら、雪代に話しかける。彼女は段々と仕事を減らし、2ヶ月に1度ぐらいだった帰省が、1月に一度になり、いまは2週間に1度ぐらいは戻ってきていた。もちろん間隔は、どうしても断れない仕事があれば微妙に左右したが、ぼくらが会う時間が増えたことは間違いなかった。

 中には、チョコレートが入っていた。それをくれた女の子は幼稚園ではじめてバレンタイン・デーの存在を教えてもらい、それを試しに演じてみたかったらしい、とその母が言った。

「こんなものもらった。別れたら、わたしを好きになってくれる、という言葉とともに」
「それで、嬉しかった?」
「もちろん、悪い気はしないよ」
「その女の子に嫉妬した方がいい?」

 ぼくは笑った。そのつまらない比較にもならないものを同じ台にあげることは意味をなしてすらいなかったからだ。笑い声を受け止めながら、彼女は洋服を畳んでいた。それが彼女が日常に着るものなのか、売るために購入したものかは判断できなかった。そのどちらかであったかもしれないし、両方であったのかもしれない。

「帰ってきたばかりで、ご飯を作る暇もなかったんだけど」
「別に構わないよ、どっか行こう」

 ぼくは1個、チョコレートを口に投げ入れ、その美味しさに驚いていた。その女の子が将来そのシステムをどのように活用するのかを考えた。ぼくは大人になった彼女を想像し、またいつか再会するようなことがあれば、今日のことを覚えているのか、またはぼく自身のことを覚えているのだろうかと答えがでない疑問を頭の中で思い巡らした。

「わたしも、一個もらっていい? それとも嫉妬に駆られた女を演じた方がいい?」
 ぼくは彼女の手のひらに、その一粒をそっと乗せた。彼女は包みを丁寧にひろげ、口に入れた。
「あら、おいしいね」ともう無くなって包みだけになっている手のひらを眺めた。
 ぼくらは上着を着込み、彼女は首にマフラーをぐるぐると無造作に巻き、外にでた。握った彼女の手はとても冷たかった。寒い中を歩いていると、後方から来た車の窓が開き、声をかけられた。

「やっぱり、近藤君だったか。どっか行くのか?」声の主は上田先輩の父だった。
「ああ、こんばんは。いやご飯をどこかで食べようと思ってましたけど」
「じゃあ、いつものとこ、行こう? オレも車を置いて来ちゃうから。疲れたときは誰かと話をしたいもんだよ。いい?」と言って、雪代の方を向いてたずねた。彼女は笑って、同意した。

 ぼくらはゆっくりと歩きながらも、先に店に着いてしまった。席に案内されメニューを眺めていると、上田さんも入って来た。

「悪い、悪い、ごめん、ごめん」とおしぼりを掴み、手を拭いた。「なんだ、まだ、頼んでいないのか?」と言って矢継ぎ早に注文した。数分経ってからさまざまなものが加藤さんという女性の手を通して運ばれてきた。

「遅くなってごめんね。それにしても近藤君には、こんな可愛い彼女がいたんだ?」ぼくの返事を待たずに、上田さんが、
「うちが建てている駅前のビルの1階で、彼女は洋服屋さんをはじめるんだ。オープンしたら買いにきてよ」と、ぼくら以上に、彼は現実になっていないその店を売り込んでくれた。
「そう? どんなものが並ぶのかしら。わたしも着れるかな」と言って、また戻りまた往復した。

 ぼくらの若い胃袋を上田さんは感心し、普段息子に与えられない栄養をぼくらに配ることを嬉しがっているらしく、自分の声の音量が大きくなっていることも気づかず、ほどほどに酔っていった。彼はいつものようにさっと会計し、「明日も稼がなくちゃ」と言って店を出た。ふたたび雪代は首にマフラーを巻き、ぼくにもたれかかった。

「小さな女の子から、大きな女性まで、ひろし君は気に入られるんだね」と少し酔いがまわった視線で雪代は言った。ぼくはなんのことか分からないという風に彼女を眺め、この両手は潔白である証拠に自分の手のひらを見つめた。やはり潔白であると思って、彼女の片方の手をそっと握った。
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