壊れゆくブレイン(3)
ぼくは、待ち合わせ場所に立つ。春のうららかな日。のどかな日曜。
すると、向こうから女性が小走りでやって来る。生きているという確たる証拠を伴って。揺れる髪。健康のすがすがしい発露。
「待ちました?」
「ぜんぜん。あれ、化粧してるんだ?」
「この前もしてましたよ。やだな。そうだ、ひろし君かなり酔っていたから」
「そんなに、酔ってないよ」
「酔ってましたよ。わたしが誰だか分からないぐらいに。それと、まだ7歳みたいに扱うのやめてもらえます?」
「まゆみちゃんの成長に追いついていけないよ」
「追いついてくださいよ」
「まゆみちゃんには彼氏もいないし、反抗期も迎えない」
「好きなひともできたし、親とも喧嘩しました。そのときは、理不尽に当り散らしました」
「手におえないな」
「でも、勉強もして、大学に行くようにまでなった」
「おじさんに映画をおごらせるようにもなった」
「お兄さんに」
「お世辞も言えるようになった」まゆみは、にこっとする。彼女を好きになった同級生たちは、そう少ない数でもないことを証明するような笑顔だった。ぼくらは同じような身長になり、ぼくが、あの小さな女の子の手を握り、いっしょに歩いたことは遠い昔になった。だが、それでも同じ人間である以上、彼女がときおり見せる表情に以前の面影がのこっていた。「お茶でも、飲もうっか? まだ、時間がありそうだし」
「離れた期間の時間を取り戻すため、ね」
喫茶店のドアを開ける。ぼくは、以前、雪代とその店によく通った。店長は同じひとだが、髪の色に年代が経ったことが表れていた。相変わらず、静かなピアノの曲が流れていた。
「お久し振りですね」カウンターの中で笑顔が作られた。
「こんにちは、元気で?」ぼくは、彼の視線を受け止める。ずっと、居続けたい場所。
「まあ、こんな感じです」そして、横の女性に視線を向け、会ったことがあるだろうかと思案している顔になったが、結局は、答えは見つけられないようだった。
「知り合いなの?」まゆみは、疑問を隠しきれない少女の本性を出す。
「前によく来た。ずっと、むかし」
「ここ、通ったけど、入ったことなかった」
「また、来るといいよ。音楽もいつもセンスがいいし。大人って静かな音楽に耳を傾けられるようになったひとのことを言うんだよ」
「じゃあ、わたし、子どもだ」
2つの紅茶が運ばれる。彼女は無邪気な顔から、少し真剣な顔つきになった。言いたいことを隠すような、そのタイミングを計るような顔。その場合、大体はぼくに訊くことは決まっていた。いなくなった女性。不在の理由。なぐさめるかどうか。
「ゆうきは、癌だよ。まゆみちゃんも若くっても、検診とかしたほうが良いかもしれない」
「どうしたの、急に?」
「訊かれる前に、話そうと思って」
「デリケートな話なのに」
「問われたりすることに慣れようと思って。この問題をさらっと扱えるようにもなりたい。ひざが擦りむけたとか、指にささくれができたとかいうように」
「もっと、傷ついているんでしょう」
「大人って、傷つくことだよ」
「説教くさいよ、ひろし君、さっきから。黙っててもいいよ。わたしが楽しませてあげる」
「自信あるんだ?」
「ある。そんなに、ない」ぼくらは、飲み物を空にして、店をあとにする。まゆみは先にでて、外で日射しを楽しんでいるようだった。置き去りにしてしまった若さを、ぼくはその情景から感じ取る。
「あの女性、まだ来ます。女の子も大きくなりまして」
「そうなんだ。また、よろしくと」
「会わないんですか? 実際に会っておっしゃればいいのに・・・」ぼくは、頬だけで返事をするような表情を取った。
「ごちそうさま。パパがきょうは愛想よくしておけって」
「ネタをばらさなくていいよ」ぼくらは映画館に向かい、暗い中で映画を観た。あまり裕福でもない大学生がバイトで知り合った退役軍人と都会にでる。そして、自分の悩みを打ち明け、最後には死を思いとどまった盲目の軍人が学校に乗り込み、トラブルだった事件を解決してくれる。まゆみは泣き、ぼくは、いつかそのようなストーリーを話した裕紀のことを思い出している。「今日、見た映画ね・・・」という風に。
「面白かったね」
「泣いてた」
「だって、立派じゃない。でも、お腹、へった。ぺこぺこ」
「食べたいのは?」
「大きいお肉」ぼくは、横を見る。生き返ること。この新しい状況を受け入れ、慣れること。残された自分。裕紀への未練。
まゆみは注文した品を美味しそうに食べ、デザートもきれいに食べた。ぼくは、ワインを少し飲み、魚を食べた。ソースが魚の鮮度を落とすことなく、かえって生なものより新鮮さがあった。
そこを出て、ぼくはまゆみの家まで送ることに決めた。
「たまには、会ってもらってもいいですか? 映画も見たいし」
「彼氏ができるまでの限定で」
彼女は返事をせずに、すこし笑った。ぼくは、ふと、雪代の子どものことを考え出す。その子は、ぼくが知っていた幼いまゆみちゃんと同じぐらいなのだろうか? 利発で、ひとを恐れないこころをもっているのだろうか?
「おやすみなさい。あまり、飲まないでくださいね」
「飲まないよ。きょうは、すこし前のことを忘れてしまった」
「罪でもないですよ」
まゆみは、ドアの向こうに消えた。いつか、もっと大人の女性になり、洗練されていくのだろう。それは、裕紀のように、また、雪代のように。
ぼくは、待ち合わせ場所に立つ。春のうららかな日。のどかな日曜。
すると、向こうから女性が小走りでやって来る。生きているという確たる証拠を伴って。揺れる髪。健康のすがすがしい発露。
「待ちました?」
「ぜんぜん。あれ、化粧してるんだ?」
「この前もしてましたよ。やだな。そうだ、ひろし君かなり酔っていたから」
「そんなに、酔ってないよ」
「酔ってましたよ。わたしが誰だか分からないぐらいに。それと、まだ7歳みたいに扱うのやめてもらえます?」
「まゆみちゃんの成長に追いついていけないよ」
「追いついてくださいよ」
「まゆみちゃんには彼氏もいないし、反抗期も迎えない」
「好きなひともできたし、親とも喧嘩しました。そのときは、理不尽に当り散らしました」
「手におえないな」
「でも、勉強もして、大学に行くようにまでなった」
「おじさんに映画をおごらせるようにもなった」
「お兄さんに」
「お世辞も言えるようになった」まゆみは、にこっとする。彼女を好きになった同級生たちは、そう少ない数でもないことを証明するような笑顔だった。ぼくらは同じような身長になり、ぼくが、あの小さな女の子の手を握り、いっしょに歩いたことは遠い昔になった。だが、それでも同じ人間である以上、彼女がときおり見せる表情に以前の面影がのこっていた。「お茶でも、飲もうっか? まだ、時間がありそうだし」
「離れた期間の時間を取り戻すため、ね」
喫茶店のドアを開ける。ぼくは、以前、雪代とその店によく通った。店長は同じひとだが、髪の色に年代が経ったことが表れていた。相変わらず、静かなピアノの曲が流れていた。
「お久し振りですね」カウンターの中で笑顔が作られた。
「こんにちは、元気で?」ぼくは、彼の視線を受け止める。ずっと、居続けたい場所。
「まあ、こんな感じです」そして、横の女性に視線を向け、会ったことがあるだろうかと思案している顔になったが、結局は、答えは見つけられないようだった。
「知り合いなの?」まゆみは、疑問を隠しきれない少女の本性を出す。
「前によく来た。ずっと、むかし」
「ここ、通ったけど、入ったことなかった」
「また、来るといいよ。音楽もいつもセンスがいいし。大人って静かな音楽に耳を傾けられるようになったひとのことを言うんだよ」
「じゃあ、わたし、子どもだ」
2つの紅茶が運ばれる。彼女は無邪気な顔から、少し真剣な顔つきになった。言いたいことを隠すような、そのタイミングを計るような顔。その場合、大体はぼくに訊くことは決まっていた。いなくなった女性。不在の理由。なぐさめるかどうか。
「ゆうきは、癌だよ。まゆみちゃんも若くっても、検診とかしたほうが良いかもしれない」
「どうしたの、急に?」
「訊かれる前に、話そうと思って」
「デリケートな話なのに」
「問われたりすることに慣れようと思って。この問題をさらっと扱えるようにもなりたい。ひざが擦りむけたとか、指にささくれができたとかいうように」
「もっと、傷ついているんでしょう」
「大人って、傷つくことだよ」
「説教くさいよ、ひろし君、さっきから。黙っててもいいよ。わたしが楽しませてあげる」
「自信あるんだ?」
「ある。そんなに、ない」ぼくらは、飲み物を空にして、店をあとにする。まゆみは先にでて、外で日射しを楽しんでいるようだった。置き去りにしてしまった若さを、ぼくはその情景から感じ取る。
「あの女性、まだ来ます。女の子も大きくなりまして」
「そうなんだ。また、よろしくと」
「会わないんですか? 実際に会っておっしゃればいいのに・・・」ぼくは、頬だけで返事をするような表情を取った。
「ごちそうさま。パパがきょうは愛想よくしておけって」
「ネタをばらさなくていいよ」ぼくらは映画館に向かい、暗い中で映画を観た。あまり裕福でもない大学生がバイトで知り合った退役軍人と都会にでる。そして、自分の悩みを打ち明け、最後には死を思いとどまった盲目の軍人が学校に乗り込み、トラブルだった事件を解決してくれる。まゆみは泣き、ぼくは、いつかそのようなストーリーを話した裕紀のことを思い出している。「今日、見た映画ね・・・」という風に。
「面白かったね」
「泣いてた」
「だって、立派じゃない。でも、お腹、へった。ぺこぺこ」
「食べたいのは?」
「大きいお肉」ぼくは、横を見る。生き返ること。この新しい状況を受け入れ、慣れること。残された自分。裕紀への未練。
まゆみは注文した品を美味しそうに食べ、デザートもきれいに食べた。ぼくは、ワインを少し飲み、魚を食べた。ソースが魚の鮮度を落とすことなく、かえって生なものより新鮮さがあった。
そこを出て、ぼくはまゆみの家まで送ることに決めた。
「たまには、会ってもらってもいいですか? 映画も見たいし」
「彼氏ができるまでの限定で」
彼女は返事をせずに、すこし笑った。ぼくは、ふと、雪代の子どものことを考え出す。その子は、ぼくが知っていた幼いまゆみちゃんと同じぐらいなのだろうか? 利発で、ひとを恐れないこころをもっているのだろうか?
「おやすみなさい。あまり、飲まないでくださいね」
「飲まないよ。きょうは、すこし前のことを忘れてしまった」
「罪でもないですよ」
まゆみは、ドアの向こうに消えた。いつか、もっと大人の女性になり、洗練されていくのだろう。それは、裕紀のように、また、雪代のように。