壊れゆくブレイン(4)
ぼくには、36年の思い出の蓄積があり、喜びもあれば、悲嘆もあった。最後のほうは悲しみが強く、前半は喜びのほうが多かった。それは、思い出というものの不思議なところで、日が経てば、不純物はろ過され、良いことのほうに傾いていくのだろう。
それで、後半のことを忘れて、前半のことを回想したかったが、結局は、身近な裕紀の死ということが絶えず先頭にきた。順番待ちの上手な悲しみの固まり。それを忘れるために、また仕事が終わると酒を飲んだ。
家には暖かみがなく、会話も料理もなかった。ただ、不在の象徴のような埋まらない空気がただよっていた。ぼくは、それを抱えてこれからひとりで生きるという決意もできず、また、誰かを好きになれるのかどうかという心配もあった。つまりは宙ぶらりんで、その状態からどちらにも揺れなかった。ひとりで悶々として、酒でその状態を忘れようとした。
10年間の不在でこちらには親密になれる友人もいなかった。しかし、もし、居てもこのずるずるとした立場にいる自分を知ってもらいたくもなかったのだろう。精神の冬眠時期。だが、義理の弟である山下は休日に家に呼んでくれたりした。姪がひざのうえに乗り、そこでご飯を食べた。東京を去る際、ある女性は、自分に子どものようなものが見えると言った。それは、この姿であるともぼくは思った。悪くない感触。自分を思う存分受け入れてくれる存在。だが、裕紀がいない淋しさが、それで払拭されるわけでもなかった。
姪は、ぼくの似顔絵を描き、ぼくも彼らの表情を描いた。
「上手なんだね」
「お家の設計図を描く勉強をしたからね。ちょっと、時間くれる? 描いてみるね」
彼らが知っている町の小学校の絵を描く。それは、彼らに不思議な印象を残す。ものごとは、再現できるのだということ。器用な手先があれば。
「忘れると困るから、ゆうきお姉ちゃんの絵を描いて」
ひざの上に乗ったまま、姪は振り返ってぼくにそう言う。「忘れると、困る?」
「困るよ、思い出せなくなるもん」だが、ぼくはその存在を逆に忘れようとしていた。どうにかして、ぼくの記憶から抜け出してほしかった。しかし、その考え自体が間違っていたのかもしれない。忘れようとすればするほど、思い出は更新され、新鮮さと新たな情報が加わった。
それから、彼らは自分の発言したことなどなかったかのように、それぞれの布団にくるまった。夢でどのような内容を見るのか、それとも、一切のことを忘れ安眠するのだろうかと、ぼくはその寝顔を見ながら考えている。
「ラグビー部の部員たちは、どう? 練習に耐えている?」
「さあ、最近の子は難しいですよ。ぼくらは、先輩や監督の言うことは絶対だった」山下は、少し疲れたような表情を見せた。「それより、もう少し、身体をいたわったほうがいいですよ、美紀も言ってる」
「そうだよ、お兄ちゃん」
誰もぼくの喪失感など知らないのだ。ぼくの悲しみの深さなど気づいてもいないのだ。ぼくは、それらの意見が出ると自分の廻りに塀をめぐらし、すべての意見の矛先を拒絶した。
「そうするよ。じゃあ、あいつたちも寝たからそろそろ帰るよ」
「送って行きましょうか? な、美紀」
「いいよ、頭を冷やしながら帰るよ。丁度いいくらいの距離だから」
ぼくは背中越しに見送る声をきき、玄関から外に出た。家の中には温かさと楽しさが満ち溢れ、家の外側は孤独と焦燥があるようだった。ぼくは中では部外者であり、外では市民権をもっていた。真っ直ぐに帰るつもりだったが、飲み屋の明かりがまだあったので戸を開けた。
「来ないのかと思ってました。あまり時間もないけど」
「いいですよ。妹の家に寄ってきた帰りだから。そこでも、相変わらずぼくへのお小言があったし。彼らの子どもみたいに生活環境をしかられる」
「心配しているんでしょう。明日から、また1週間もはじまるし」
「そうですね。軽く引き上げます」だが、家に着いたのは日が替わった1時ごろだった。ぼくは、裕紀のことを意味もなく話して、また誰かと会話が永続することだけを望んで、その時間を引き伸ばした。
「居ないだけに、愛が勝手に成長して、美しくするんでしょうね」
「元の旦那さんのこともそう思う?」ぼくは、なぜだか同意を求めていた。
「ぜんぜん」と言って、店の女性は大口を開けて、笑った。
家のカギを開け、カーテンから漏れる月のあかりを見つめた。姪は深い眠りのなかにいるのだろう。ぼくは、思い出の中を泳いでいる。蜃気楼のような思い出。だが、裕紀が作り上げた思い出の数々はいったい、どこに行ってしまったのだろう。月や星になり、ぼくはこの両目で見るのだろうか。それとも、それは一切の空で、なにもないのか。ゴミが燃えてしまうように、かすかな灰と煙になって煙突から飛び去るように消えて行ってしまうのだろうか。気付くと、目覚まし時計が鳴っていた。窓の向こうにもう月などなく、暑くなりそうな太陽の予感だけが、ぼくのベッドの端まで届きそうな時間になっていた。
ぼくには、36年の思い出の蓄積があり、喜びもあれば、悲嘆もあった。最後のほうは悲しみが強く、前半は喜びのほうが多かった。それは、思い出というものの不思議なところで、日が経てば、不純物はろ過され、良いことのほうに傾いていくのだろう。
それで、後半のことを忘れて、前半のことを回想したかったが、結局は、身近な裕紀の死ということが絶えず先頭にきた。順番待ちの上手な悲しみの固まり。それを忘れるために、また仕事が終わると酒を飲んだ。
家には暖かみがなく、会話も料理もなかった。ただ、不在の象徴のような埋まらない空気がただよっていた。ぼくは、それを抱えてこれからひとりで生きるという決意もできず、また、誰かを好きになれるのかどうかという心配もあった。つまりは宙ぶらりんで、その状態からどちらにも揺れなかった。ひとりで悶々として、酒でその状態を忘れようとした。
10年間の不在でこちらには親密になれる友人もいなかった。しかし、もし、居てもこのずるずるとした立場にいる自分を知ってもらいたくもなかったのだろう。精神の冬眠時期。だが、義理の弟である山下は休日に家に呼んでくれたりした。姪がひざのうえに乗り、そこでご飯を食べた。東京を去る際、ある女性は、自分に子どものようなものが見えると言った。それは、この姿であるともぼくは思った。悪くない感触。自分を思う存分受け入れてくれる存在。だが、裕紀がいない淋しさが、それで払拭されるわけでもなかった。
姪は、ぼくの似顔絵を描き、ぼくも彼らの表情を描いた。
「上手なんだね」
「お家の設計図を描く勉強をしたからね。ちょっと、時間くれる? 描いてみるね」
彼らが知っている町の小学校の絵を描く。それは、彼らに不思議な印象を残す。ものごとは、再現できるのだということ。器用な手先があれば。
「忘れると困るから、ゆうきお姉ちゃんの絵を描いて」
ひざの上に乗ったまま、姪は振り返ってぼくにそう言う。「忘れると、困る?」
「困るよ、思い出せなくなるもん」だが、ぼくはその存在を逆に忘れようとしていた。どうにかして、ぼくの記憶から抜け出してほしかった。しかし、その考え自体が間違っていたのかもしれない。忘れようとすればするほど、思い出は更新され、新鮮さと新たな情報が加わった。
それから、彼らは自分の発言したことなどなかったかのように、それぞれの布団にくるまった。夢でどのような内容を見るのか、それとも、一切のことを忘れ安眠するのだろうかと、ぼくはその寝顔を見ながら考えている。
「ラグビー部の部員たちは、どう? 練習に耐えている?」
「さあ、最近の子は難しいですよ。ぼくらは、先輩や監督の言うことは絶対だった」山下は、少し疲れたような表情を見せた。「それより、もう少し、身体をいたわったほうがいいですよ、美紀も言ってる」
「そうだよ、お兄ちゃん」
誰もぼくの喪失感など知らないのだ。ぼくの悲しみの深さなど気づいてもいないのだ。ぼくは、それらの意見が出ると自分の廻りに塀をめぐらし、すべての意見の矛先を拒絶した。
「そうするよ。じゃあ、あいつたちも寝たからそろそろ帰るよ」
「送って行きましょうか? な、美紀」
「いいよ、頭を冷やしながら帰るよ。丁度いいくらいの距離だから」
ぼくは背中越しに見送る声をきき、玄関から外に出た。家の中には温かさと楽しさが満ち溢れ、家の外側は孤独と焦燥があるようだった。ぼくは中では部外者であり、外では市民権をもっていた。真っ直ぐに帰るつもりだったが、飲み屋の明かりがまだあったので戸を開けた。
「来ないのかと思ってました。あまり時間もないけど」
「いいですよ。妹の家に寄ってきた帰りだから。そこでも、相変わらずぼくへのお小言があったし。彼らの子どもみたいに生活環境をしかられる」
「心配しているんでしょう。明日から、また1週間もはじまるし」
「そうですね。軽く引き上げます」だが、家に着いたのは日が替わった1時ごろだった。ぼくは、裕紀のことを意味もなく話して、また誰かと会話が永続することだけを望んで、その時間を引き伸ばした。
「居ないだけに、愛が勝手に成長して、美しくするんでしょうね」
「元の旦那さんのこともそう思う?」ぼくは、なぜだか同意を求めていた。
「ぜんぜん」と言って、店の女性は大口を開けて、笑った。
家のカギを開け、カーテンから漏れる月のあかりを見つめた。姪は深い眠りのなかにいるのだろう。ぼくは、思い出の中を泳いでいる。蜃気楼のような思い出。だが、裕紀が作り上げた思い出の数々はいったい、どこに行ってしまったのだろう。月や星になり、ぼくはこの両目で見るのだろうか。それとも、それは一切の空で、なにもないのか。ゴミが燃えてしまうように、かすかな灰と煙になって煙突から飛び去るように消えて行ってしまうのだろうか。気付くと、目覚まし時計が鳴っていた。窓の向こうにもう月などなく、暑くなりそうな太陽の予感だけが、ぼくのベッドの端まで届きそうな時間になっていた。