壊れゆくブレイン(5)
いつかは会いたいと思いながら、その反対に会いたくもないとも思っている女性がいた。ぼくらは、いまでは同じ町に住んでいる。同じ空気を吸い、同じような温度を感じている。距離としての差はない。
だが、その再会は、ぼくにとって準備されたものではなかった。しかし、物事なんてだいたいは準備されていないのだ。
仕事が終わり、ある店で酒を飲んで酔っていた。それも、かなり深く酔っていた。そこへ、戸が開き、友人か仕事仲間とともに雪代がその店に入って来た。彼女もどうやらぼくの慌てた様子に気付いたようで、驚きのような光が目の端にあった。
ぼくは、それからも2杯ぐらい飲んだはずだが、実際の数は把握もしていなかった。おおよそという酒がくれる大雑把な目分量の世界で。
「十年前にぼくを突っぱねた雪代」と、酔ったぼくは不意に口に出し、止められなくなってしまったように何度も連呼した。自分が発する音の大きささえ分からなくなっている。姿が見えない場所にいた雪代はいたたまれなくなってぼくの前に出て来た。そして、横の椅子を引き、そこに座った。
「ちょっと、酔いすぎている。うわさは聞いていたけど」
「10年前にぼくを捨てた雪代」
「それは、違うでしょう。でも、戻ってきたら、きちんと連絡をくれて、挨拶ぐらいしてくれても良かったんじゃない?」
ぼくは、こちらに戻って来てから3ヶ月ぐらい経っていた。会いたくもあるし、会いたくもないという理由があった。その正直な気持ちを頑なに守った。
「そうだね、冷たかった。だが、冷たさは君以下だけどね」
「悪い酔い方」
「雪代もなんか飲む?」ぼくは、ひとりになるのが恐かった。自分を相手にしない、この孤独を無視する世界に馴れていなかった。彼女は店主に目配せし、グラスを受け取った。
ぼくは、それからも自分がただの被害者のように雪代に辛くあたった。ぼくらには、それこそ数え切れないぐらいのたくさんの美しい思い出があったのだが、それを徹底的に排除して、彼女がぼくと別れた事実の一点張りを主張しつづけた。
「そんな風に、思われているんなら淋しいな」
「ぼくを捨てた雪代」
その言葉を出したあとに、ぼくは頬に痛みを感じる。それでも、何が起こったのか分からなかった。ただ、横を見たときに無防備に投げ出された腕がかすかにじっとこらえられずに震えているのを見て、彼女がぼくの頬を打ったのだと気づいた。
「わたしが捨てたとかを悔いているんじゃない。あの子が死んだことが辛いんでしょう。それに気付いて」
「知ってるよ」
「もっと、しっかりしてよ。むかしのひろし君は、もっと格好良かった」
「ごめん、情けない今で」
「あの子に悪いじゃない。わたしは、あの子とひとりの男性を奪い合ってしまったから、永久に仲良くなれなかったけど、それでも、あの子が惜しむぐらいに素敵な男性のままでいて、お願い」
「そうするよ、ごめん」
「打ってしまって、ごめん。つい、腹が立って、手が出てしまった。でもね、夫や妻を亡くしたのは世界で自分だけで、それで、自分だけが世間に甘えてもいいという顔をみたら、どうしても、許せなかった」
ぼくは、黙った。自分の気持ちを落ち着けるように酒のグラスを手にして、ちょっとだけ口につけた。それは、もう酔いを与えてくれないことを知っていた。ただの習慣のようなものだった。息継ぎ。
「そうだね、雪代も夫を亡くしていたんだっけ。ごめん、無神経だった」
「いいのよ、そんなこと。素面のとき、また会いましょう。そうだ、娘の運動会があるの。ひろし君の甥っ子も同級生なんだよ。知ってた? 見に行くんでしょう?」
「あ、そうか。行くよ。カレンダーに丸がついている」
「お弁当、作ってあげる。健全な生活。じゃあ、そのときに、わたし、席に戻るね。頬、痛くない?」
「ラグビー部のときの当たりを、思い出してくれよ」
「そうだね」彼女は席を立って、また、見えない場所に隠れてしまった。笑い声が聞こえ、暖かな雰囲気が伝わってきた。
「お水、くれる?」ぼくは店主に言う。それを受け取りながら、「女性に打たれたことの証人。裁判のときは証言してもらうから」と、いまの事実を冗談にしようとした。
「負けにつながるようにしますけど、近藤さんの」店主は笑った。ぼくも、同じように笑った。それから、水を飲み干してお会計を済ませ、外にでた。運動会で子どもの走る姿を見て、雪代とお弁当を食べている自分をイメージした。ぼくの頬はいくらか熱を持ち、外気との接点を探しているようだった。裕紀のいない世界で生きている虚しさと、また訪れてしまうであろう喜びを天秤にかけ、ぼくは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。彼女は思い出を増やすことはできない。このいまのぼくに失望すらできないのだ。
歩きながら、生きるとは誰かに叱責され、頬を殴られることなど思おうとした。完全には酒が作った酔いが抜けきれずにいて、ぼくはいろいろなことを思い巡らした。準備した再会とは呼べないが、この今日に起こってしまったことも、それなりに悪くなかったのだと考えている。過去のぼくを知っている人間がいて、自分との今との差を指摘してくれた。それが、とても貴いもののように思えた。
いつかは会いたいと思いながら、その反対に会いたくもないとも思っている女性がいた。ぼくらは、いまでは同じ町に住んでいる。同じ空気を吸い、同じような温度を感じている。距離としての差はない。
だが、その再会は、ぼくにとって準備されたものではなかった。しかし、物事なんてだいたいは準備されていないのだ。
仕事が終わり、ある店で酒を飲んで酔っていた。それも、かなり深く酔っていた。そこへ、戸が開き、友人か仕事仲間とともに雪代がその店に入って来た。彼女もどうやらぼくの慌てた様子に気付いたようで、驚きのような光が目の端にあった。
ぼくは、それからも2杯ぐらい飲んだはずだが、実際の数は把握もしていなかった。おおよそという酒がくれる大雑把な目分量の世界で。
「十年前にぼくを突っぱねた雪代」と、酔ったぼくは不意に口に出し、止められなくなってしまったように何度も連呼した。自分が発する音の大きささえ分からなくなっている。姿が見えない場所にいた雪代はいたたまれなくなってぼくの前に出て来た。そして、横の椅子を引き、そこに座った。
「ちょっと、酔いすぎている。うわさは聞いていたけど」
「10年前にぼくを捨てた雪代」
「それは、違うでしょう。でも、戻ってきたら、きちんと連絡をくれて、挨拶ぐらいしてくれても良かったんじゃない?」
ぼくは、こちらに戻って来てから3ヶ月ぐらい経っていた。会いたくもあるし、会いたくもないという理由があった。その正直な気持ちを頑なに守った。
「そうだね、冷たかった。だが、冷たさは君以下だけどね」
「悪い酔い方」
「雪代もなんか飲む?」ぼくは、ひとりになるのが恐かった。自分を相手にしない、この孤独を無視する世界に馴れていなかった。彼女は店主に目配せし、グラスを受け取った。
ぼくは、それからも自分がただの被害者のように雪代に辛くあたった。ぼくらには、それこそ数え切れないぐらいのたくさんの美しい思い出があったのだが、それを徹底的に排除して、彼女がぼくと別れた事実の一点張りを主張しつづけた。
「そんな風に、思われているんなら淋しいな」
「ぼくを捨てた雪代」
その言葉を出したあとに、ぼくは頬に痛みを感じる。それでも、何が起こったのか分からなかった。ただ、横を見たときに無防備に投げ出された腕がかすかにじっとこらえられずに震えているのを見て、彼女がぼくの頬を打ったのだと気づいた。
「わたしが捨てたとかを悔いているんじゃない。あの子が死んだことが辛いんでしょう。それに気付いて」
「知ってるよ」
「もっと、しっかりしてよ。むかしのひろし君は、もっと格好良かった」
「ごめん、情けない今で」
「あの子に悪いじゃない。わたしは、あの子とひとりの男性を奪い合ってしまったから、永久に仲良くなれなかったけど、それでも、あの子が惜しむぐらいに素敵な男性のままでいて、お願い」
「そうするよ、ごめん」
「打ってしまって、ごめん。つい、腹が立って、手が出てしまった。でもね、夫や妻を亡くしたのは世界で自分だけで、それで、自分だけが世間に甘えてもいいという顔をみたら、どうしても、許せなかった」
ぼくは、黙った。自分の気持ちを落ち着けるように酒のグラスを手にして、ちょっとだけ口につけた。それは、もう酔いを与えてくれないことを知っていた。ただの習慣のようなものだった。息継ぎ。
「そうだね、雪代も夫を亡くしていたんだっけ。ごめん、無神経だった」
「いいのよ、そんなこと。素面のとき、また会いましょう。そうだ、娘の運動会があるの。ひろし君の甥っ子も同級生なんだよ。知ってた? 見に行くんでしょう?」
「あ、そうか。行くよ。カレンダーに丸がついている」
「お弁当、作ってあげる。健全な生活。じゃあ、そのときに、わたし、席に戻るね。頬、痛くない?」
「ラグビー部のときの当たりを、思い出してくれよ」
「そうだね」彼女は席を立って、また、見えない場所に隠れてしまった。笑い声が聞こえ、暖かな雰囲気が伝わってきた。
「お水、くれる?」ぼくは店主に言う。それを受け取りながら、「女性に打たれたことの証人。裁判のときは証言してもらうから」と、いまの事実を冗談にしようとした。
「負けにつながるようにしますけど、近藤さんの」店主は笑った。ぼくも、同じように笑った。それから、水を飲み干してお会計を済ませ、外にでた。運動会で子どもの走る姿を見て、雪代とお弁当を食べている自分をイメージした。ぼくの頬はいくらか熱を持ち、外気との接点を探しているようだった。裕紀のいない世界で生きている虚しさと、また訪れてしまうであろう喜びを天秤にかけ、ぼくは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。彼女は思い出を増やすことはできない。このいまのぼくに失望すらできないのだ。
歩きながら、生きるとは誰かに叱責され、頬を殴られることなど思おうとした。完全には酒が作った酔いが抜けきれずにいて、ぼくはいろいろなことを思い巡らした。準備した再会とは呼べないが、この今日に起こってしまったことも、それなりに悪くなかったのだと考えている。過去のぼくを知っている人間がいて、自分との今との差を指摘してくれた。それが、とても貴いもののように思えた。