Untrue Love(4)
デパートで働いてから知り合った2人目の女性は、裏の出入り口のそばにあるカウンターのあるバーにいる店員だった。その店がその女性のものであるのか、それとも、ただ雇われているだけなのか分からなかった。ぼくらは決められた休憩所に行くよりも外気の吸えるその近辺で、たむろして無駄話をするのが好きだった。たまに怪訝な目で見られることもあったが、ささやかな自由がその場所にはあった。
ぼくはバイトが始まる前にそこを通る。店の開店準備をする彼女としばしば目が合い、ぼくは目礼ぐらいするようになる。まったくの他人というほどでもなく、完全なる知り合いとは言えなかった。ただ、同じ時間帯にしばられるひとたち。彼女は店を開けて、お客を迎えなければならず、ぼくはそのビルの中で数時間だけ肉体を酷使しなければならない。
「ちょっと、ねえ、君、これ、手伝ってくれる?」ある日、店の前にビニールがかぶさっている椅子が数脚、置かれていた。「ちょっと、重くて」彼女がぼくに最初に話しかけた言葉。
「これを、中に運ぶんですか?」
「予定より早く届いてしまったみたい。ごめんね」
「簡単だからいいですよ。さ、どいて」ぼくは、いつも行っている作業を30分ほど前にはじめただけだった。身体を何往復かさせれば、店の前の道路はいつもと同じ状態にもどった。
「ありがとう。帰りにでも寄って。1杯ぐらい、もうちょっと、おごってあげる。そうだ、もう、飲んでもいい年齢?」
「少し早いけど」
「じゃ、少しだったらね」
ぼくは、その約束の言葉を胸にして、いつものデパートの裏口に向かった。それから、普通通りに働き、いつもより10分ほど遅れて外に出た。おごってもらう積もりもなかったが、(対価をもらうとしては、自分にとってあまりにも安易な作業だった)店の前を通るとなかから賑やかな声がきこえてきた。そこを素通りして、いつものように地下鉄の駅に向かった。
何日か経って、ぼくは手伝ったことも忘れたころだった。
「ねえ、来ないの? 貸しが宙ぶらりんになっているんだけど」彼女は、店の前の照明の電球を取り換えているようだった。「素直な男の子って、笑って、ありがとうと言って、感謝の気持ちを受け取るべきだよ」
「じゃあ、今日、行きます」
「端の席、予約してキープしておくよ」
「まさか」
「ひとりぶんの売り上げの責任があるんだからね」
「払えるかな?」
「おごりだから大丈夫、じゃあ、後で、ね、名前は?」ぼくは名乗り、そこを後にする。普段通りに働き、汗をかく。だが、その日は水分を摂るのを少しだけ控えていた。あとで、ビールぐらい出るのだろう。泡のジョッキを数杯だけ飲んで、足りなかったらいくらか残して帰るつもりだった。それで、貸し借りはなし。
「こんばんは」その女性(あとで矢口いつみと言った)が、忙しそうに働いていたので、ぼくは店先から鼻先だけ出し、声をかける。
「席、こっちだよ。さあ」
ぼくは、男性の後ろ姿やタバコの煙や、女性の髪や香水を掻き分け、奥のカウンターのはじに座った。「ビールでいいでしょう?」
ぼくは頷き、出されたグラスを片手に持った。のど越しもおいしく、一日の疲れの印象が除かれたような鮮明になったような不思議な感じをいだいた。彼女のほかに奥に男性がいて調理を任されているようだった。手が見え、声を発して、皿が突き出される。それを矢口さんがカウンターと2つだけあるテーブルに持って廻っている。
「これ、食べて。思案中のメニュー」皿の中を見ると魚と野菜にドレッシングがかけられていた。「あとで、相手してあげるね。おかわり?」
ぼくは、またビールを飲んだ。彼女が相手をしてくれる前に酔いつぶれてしまうような予感がしたが、そのうち店も空いてきて、ぼくの前に彼女は立っていた。
「やっと、来てくれた」
「ほんとに、なにもしてないですよ。こんな歓待されるほど」
「いいのよ。お客さんも結構、年齢いってるでしょう、今日は」
「そうですね、きちんと稼いでいる感じ」
「それを巻き上げたから、もっと飲みなさい。カクテル、作ってあげる」
「いいんですか?」
「いいのよ、わたしも一杯飲む」
彼女は2つのグラスに同分量の液体を入れた。
「この前は、助けてもらったみたいで」手だけが見えていた男性が仕事もひと段落ついたみたいで、カウンター内まで出てきた。彼の方が荷物を担ぐのにふさわしい身体をしていた。Tシャツから出る腕は、レスラーのような太さでもあり、胸板は、鍛えたのに費やした月日を想像させるものだった。
「そんなでもないです。え、でも、あの繊細な料理を作ってくれたひと?」ぼくは、確かめたく矢口さんに向けて質問する。
「ひとは見かけによらないものよ。山本君」
「おいしかったですか?」
「とても。見知らぬ味でした」
「まだ食えそうだな。なんか、作るよ」と、言って彼はまた奥に消えた。そして、「ひとまず時間稼ぎ」と言って、ピクルスやオリーブやチーズの切れ端がでてきた。
「いいひとでしょう? 優しい男性。でも、女性に興味がないのよ、あれで」矢口さんは秘密の共有というものが嬉しいらしく、少し上を向いて笑った。その笑顔で年齢が上下する。澄ましていると20代後半。笑うと、10代後半になるようなとびきりの笑顔だった。
デパートで働いてから知り合った2人目の女性は、裏の出入り口のそばにあるカウンターのあるバーにいる店員だった。その店がその女性のものであるのか、それとも、ただ雇われているだけなのか分からなかった。ぼくらは決められた休憩所に行くよりも外気の吸えるその近辺で、たむろして無駄話をするのが好きだった。たまに怪訝な目で見られることもあったが、ささやかな自由がその場所にはあった。
ぼくはバイトが始まる前にそこを通る。店の開店準備をする彼女としばしば目が合い、ぼくは目礼ぐらいするようになる。まったくの他人というほどでもなく、完全なる知り合いとは言えなかった。ただ、同じ時間帯にしばられるひとたち。彼女は店を開けて、お客を迎えなければならず、ぼくはそのビルの中で数時間だけ肉体を酷使しなければならない。
「ちょっと、ねえ、君、これ、手伝ってくれる?」ある日、店の前にビニールがかぶさっている椅子が数脚、置かれていた。「ちょっと、重くて」彼女がぼくに最初に話しかけた言葉。
「これを、中に運ぶんですか?」
「予定より早く届いてしまったみたい。ごめんね」
「簡単だからいいですよ。さ、どいて」ぼくは、いつも行っている作業を30分ほど前にはじめただけだった。身体を何往復かさせれば、店の前の道路はいつもと同じ状態にもどった。
「ありがとう。帰りにでも寄って。1杯ぐらい、もうちょっと、おごってあげる。そうだ、もう、飲んでもいい年齢?」
「少し早いけど」
「じゃ、少しだったらね」
ぼくは、その約束の言葉を胸にして、いつものデパートの裏口に向かった。それから、普通通りに働き、いつもより10分ほど遅れて外に出た。おごってもらう積もりもなかったが、(対価をもらうとしては、自分にとってあまりにも安易な作業だった)店の前を通るとなかから賑やかな声がきこえてきた。そこを素通りして、いつものように地下鉄の駅に向かった。
何日か経って、ぼくは手伝ったことも忘れたころだった。
「ねえ、来ないの? 貸しが宙ぶらりんになっているんだけど」彼女は、店の前の照明の電球を取り換えているようだった。「素直な男の子って、笑って、ありがとうと言って、感謝の気持ちを受け取るべきだよ」
「じゃあ、今日、行きます」
「端の席、予約してキープしておくよ」
「まさか」
「ひとりぶんの売り上げの責任があるんだからね」
「払えるかな?」
「おごりだから大丈夫、じゃあ、後で、ね、名前は?」ぼくは名乗り、そこを後にする。普段通りに働き、汗をかく。だが、その日は水分を摂るのを少しだけ控えていた。あとで、ビールぐらい出るのだろう。泡のジョッキを数杯だけ飲んで、足りなかったらいくらか残して帰るつもりだった。それで、貸し借りはなし。
「こんばんは」その女性(あとで矢口いつみと言った)が、忙しそうに働いていたので、ぼくは店先から鼻先だけ出し、声をかける。
「席、こっちだよ。さあ」
ぼくは、男性の後ろ姿やタバコの煙や、女性の髪や香水を掻き分け、奥のカウンターのはじに座った。「ビールでいいでしょう?」
ぼくは頷き、出されたグラスを片手に持った。のど越しもおいしく、一日の疲れの印象が除かれたような鮮明になったような不思議な感じをいだいた。彼女のほかに奥に男性がいて調理を任されているようだった。手が見え、声を発して、皿が突き出される。それを矢口さんがカウンターと2つだけあるテーブルに持って廻っている。
「これ、食べて。思案中のメニュー」皿の中を見ると魚と野菜にドレッシングがかけられていた。「あとで、相手してあげるね。おかわり?」
ぼくは、またビールを飲んだ。彼女が相手をしてくれる前に酔いつぶれてしまうような予感がしたが、そのうち店も空いてきて、ぼくの前に彼女は立っていた。
「やっと、来てくれた」
「ほんとに、なにもしてないですよ。こんな歓待されるほど」
「いいのよ。お客さんも結構、年齢いってるでしょう、今日は」
「そうですね、きちんと稼いでいる感じ」
「それを巻き上げたから、もっと飲みなさい。カクテル、作ってあげる」
「いいんですか?」
「いいのよ、わたしも一杯飲む」
彼女は2つのグラスに同分量の液体を入れた。
「この前は、助けてもらったみたいで」手だけが見えていた男性が仕事もひと段落ついたみたいで、カウンター内まで出てきた。彼の方が荷物を担ぐのにふさわしい身体をしていた。Tシャツから出る腕は、レスラーのような太さでもあり、胸板は、鍛えたのに費やした月日を想像させるものだった。
「そんなでもないです。え、でも、あの繊細な料理を作ってくれたひと?」ぼくは、確かめたく矢口さんに向けて質問する。
「ひとは見かけによらないものよ。山本君」
「おいしかったですか?」
「とても。見知らぬ味でした」
「まだ食えそうだな。なんか、作るよ」と、言って彼はまた奥に消えた。そして、「ひとまず時間稼ぎ」と言って、ピクルスやオリーブやチーズの切れ端がでてきた。
「いいひとでしょう? 優しい男性。でも、女性に興味がないのよ、あれで」矢口さんは秘密の共有というものが嬉しいらしく、少し上を向いて笑った。その笑顔で年齢が上下する。澄ましていると20代後半。笑うと、10代後半になるようなとびきりの笑顔だった。