壊れゆくブレイン(7)
ぼくは、およそ20年ぐらい前にある女性に出会ってしまい、自分のこころが縛られてしまった事実を思い出している。まだ、世界は未知なものであり、女性も自分自身に対しても同じような状態であった。
いま、仕事をしながら机の前で空想している。あれを、もう一度自分はしなければならないのだろうか。その相手は39になっていて、ひとりの女の子の母でもあった。それでいながら、ぼくのこころにはもうひとりの女性が眠っていた。永久に年をとらない彼女。36歳で自分をストップさせてしまった裕紀。ぼくは、片付けられないタンスの奥の衣類のように、ずっとそれを探しも隠しもしないのだろう。ただ、それはずっとそこにあるはずなのだ。ぼくの何らかの記念碑のように。
ぼくは、電話を待つ。そして、たまに電話をする。誰かのちょっとした揺れ動く機嫌を心配し、それが直ぐ横にいないために、反応を心配したり、些細な誤解の言葉を弁明したい気持ちになったりもした。それは、まるで10代の恋のはじめのようだった。
「ママは、最近、うきうきしている」道端で会った広美は、そんな言葉をぼくに投げつけた。何によって、こころが軽やかになっているのか、ぼくは事実を知りたいと思うし、また、知りたくもなかった。自分の存在の影響によるものなのか、また、別の何らかの要素があるのか、判断に困った。広美は友人、数人と駆けるようにそのまま消えた。その前にこちらを振り返り、小さな声で友人に何か言い、それで笑った。
ぼくは、裕紀に対して申し訳ないようにも思っている、ぼくは、いつも自分の都合で彼女を排除するように思えたからだ。ぼくのルートにはいくつかの逃げ道があり、裕紀はそれを塞ぐように立ちはだかっていたのだろうか。ぼくは、そのような立場にいる彼女と夢で会い、不思議なくらい動揺して、みにくい言い訳を述べていた。彼女はかげろうのように消え、責めも叱責もしなかった。彼女は、ただ現れては消える蜃気楼のようなものなのだろう。ぼくは、それを掴み切れなかった。そして、寝汗をかいて目を覚ます。
「近藤、お前、なんか、さっぱりしてきたな」社長にある日、そう言われる。「離別した男性の陰のようなものが見当たらなくなった」
ぼくは無言で彼を見返す。そして、その陰を探すように、自分のシャツの袖をみた。そんなことをしても何も解明にはならなかったが。
「そうですかね。自分ではなにも分からないですけど」
「分かってもらっても困るよ、自分の雰囲気なんか。でも、良かったよ」彼の視線には自分の息子の成長をいたわるような優しさがあった。ぼくは、それを立ち直る合図のように捉えていた。
ぼくは、それから深酒をあまりしなくなるようになっていった。昏睡するような形で酔いつぶれるようなこともなくなり、部屋を清潔にして、前向きに人生にトライするような気分にもなっていった。
ぼくは、ある日曜、以前、バイトをしていた店に向かった。その扉を開ける。誰かが入って来た音が鳴り、奥から店長が表れた。その前に、ぼくは野球のグローブが放つ革のにおいを嗅ぎ、さまざまなスパイクやユニフォームのにおいも感じた。それは、まさにぼくの青春のにおいのようだった。
「お、近藤か」
「お久し振りです」
「この前、まゆみに付き合ってもらったみたいで。どうだ? 迷惑かけなかったか?」店長の髪には白いものが混じり出していた。だが、その少年のような好奇心と兄貴ぶりは消えないまま残っているようだった。
「いえ、こちらこそ、かなり落ち込んでいる時期だったので、助かりました」
「大変だったよな」
「まあ」
「誰かに、親しい人間には多少の迷惑はかけるもんだよ。それが、友人だし、知り合いだし」
「まゆみちゃんからも同じような雰囲気がでてましたね。さすが。親子」
「あいつは、そう言われるのを嫌う。思春期だから」と、言って彼は背後を振り返った。奥からまゆみがでてきたのだ。
「やっぱり、ひろし君の声だ。最初に会ったとき、わたしに気付かなかったんだよ。ひどくない」
「かなり年数が経っているから、仕方がないよ」その父は、ぼくの代わりに弁明してくれた。
「で、どうしたの?」
「酒にのまれる休日をずっと過ごしていたら、ほかの楽しみが分からなくなってしまった。妻もいないしね」ぼくは、自嘲的に答える。およそ、一年、そればかりをしてきたのだ。ぼくはふと時計を見る。その長かった歳月がその秒針に記録されてでもいるかのように。
「じゃあ、わたし、付き合ってあげる」
「いいのか?」店長は、ぼくに弱々しく訊ねる。
「いいですよ。気付いてあげられなかった反省もあるし」
彼女は小さなバックを肩からぶら提げ、ぼくといっしょに店をでた。かといって、なにもすることがなかった。ただ町をぶらぶらし、しらふの状態を楽しんでいた。ぼくは誰かとしゃべる必要を感じ、そして、まゆみちゃんの放つ陽気さがぼくに伝染した。
「わたし、バイトをしたいんですけどね・・・」
「店を手伝えばいいじゃん」彼女は無知な人間を見るかのようにこっちを振り向いた。
「普通、お金をもらうのもそうだけど、バイトって知らない環境で自分を磨くことも含まれているんだよ。ひろし君もそうだったでしょう?」ぼくは、自分の過去を思い返す。彼女の言うとおりだった。そして、その結晶として、ぼくは何十年後かにこのように大きくなった女性と歩いているのだ。
「そうだね、で、勉強はできるの?」
「え? どうして」ぼくはまたさっきの同じような視線を向けられた。
「優秀な子には、なにかと紹介しやすいかなと思って」
「できるよ。優秀。じゃあ、考えてくれる?」
「まあ、何とか」かといって、ぼくには何のプランもコネもなかった。ただ、彼女のもつ性質が伸びるようなことだけを考えてあげたかった。
ぼくは、およそ20年ぐらい前にある女性に出会ってしまい、自分のこころが縛られてしまった事実を思い出している。まだ、世界は未知なものであり、女性も自分自身に対しても同じような状態であった。
いま、仕事をしながら机の前で空想している。あれを、もう一度自分はしなければならないのだろうか。その相手は39になっていて、ひとりの女の子の母でもあった。それでいながら、ぼくのこころにはもうひとりの女性が眠っていた。永久に年をとらない彼女。36歳で自分をストップさせてしまった裕紀。ぼくは、片付けられないタンスの奥の衣類のように、ずっとそれを探しも隠しもしないのだろう。ただ、それはずっとそこにあるはずなのだ。ぼくの何らかの記念碑のように。
ぼくは、電話を待つ。そして、たまに電話をする。誰かのちょっとした揺れ動く機嫌を心配し、それが直ぐ横にいないために、反応を心配したり、些細な誤解の言葉を弁明したい気持ちになったりもした。それは、まるで10代の恋のはじめのようだった。
「ママは、最近、うきうきしている」道端で会った広美は、そんな言葉をぼくに投げつけた。何によって、こころが軽やかになっているのか、ぼくは事実を知りたいと思うし、また、知りたくもなかった。自分の存在の影響によるものなのか、また、別の何らかの要素があるのか、判断に困った。広美は友人、数人と駆けるようにそのまま消えた。その前にこちらを振り返り、小さな声で友人に何か言い、それで笑った。
ぼくは、裕紀に対して申し訳ないようにも思っている、ぼくは、いつも自分の都合で彼女を排除するように思えたからだ。ぼくのルートにはいくつかの逃げ道があり、裕紀はそれを塞ぐように立ちはだかっていたのだろうか。ぼくは、そのような立場にいる彼女と夢で会い、不思議なくらい動揺して、みにくい言い訳を述べていた。彼女はかげろうのように消え、責めも叱責もしなかった。彼女は、ただ現れては消える蜃気楼のようなものなのだろう。ぼくは、それを掴み切れなかった。そして、寝汗をかいて目を覚ます。
「近藤、お前、なんか、さっぱりしてきたな」社長にある日、そう言われる。「離別した男性の陰のようなものが見当たらなくなった」
ぼくは無言で彼を見返す。そして、その陰を探すように、自分のシャツの袖をみた。そんなことをしても何も解明にはならなかったが。
「そうですかね。自分ではなにも分からないですけど」
「分かってもらっても困るよ、自分の雰囲気なんか。でも、良かったよ」彼の視線には自分の息子の成長をいたわるような優しさがあった。ぼくは、それを立ち直る合図のように捉えていた。
ぼくは、それから深酒をあまりしなくなるようになっていった。昏睡するような形で酔いつぶれるようなこともなくなり、部屋を清潔にして、前向きに人生にトライするような気分にもなっていった。
ぼくは、ある日曜、以前、バイトをしていた店に向かった。その扉を開ける。誰かが入って来た音が鳴り、奥から店長が表れた。その前に、ぼくは野球のグローブが放つ革のにおいを嗅ぎ、さまざまなスパイクやユニフォームのにおいも感じた。それは、まさにぼくの青春のにおいのようだった。
「お、近藤か」
「お久し振りです」
「この前、まゆみに付き合ってもらったみたいで。どうだ? 迷惑かけなかったか?」店長の髪には白いものが混じり出していた。だが、その少年のような好奇心と兄貴ぶりは消えないまま残っているようだった。
「いえ、こちらこそ、かなり落ち込んでいる時期だったので、助かりました」
「大変だったよな」
「まあ」
「誰かに、親しい人間には多少の迷惑はかけるもんだよ。それが、友人だし、知り合いだし」
「まゆみちゃんからも同じような雰囲気がでてましたね。さすが。親子」
「あいつは、そう言われるのを嫌う。思春期だから」と、言って彼は背後を振り返った。奥からまゆみがでてきたのだ。
「やっぱり、ひろし君の声だ。最初に会ったとき、わたしに気付かなかったんだよ。ひどくない」
「かなり年数が経っているから、仕方がないよ」その父は、ぼくの代わりに弁明してくれた。
「で、どうしたの?」
「酒にのまれる休日をずっと過ごしていたら、ほかの楽しみが分からなくなってしまった。妻もいないしね」ぼくは、自嘲的に答える。およそ、一年、そればかりをしてきたのだ。ぼくはふと時計を見る。その長かった歳月がその秒針に記録されてでもいるかのように。
「じゃあ、わたし、付き合ってあげる」
「いいのか?」店長は、ぼくに弱々しく訊ねる。
「いいですよ。気付いてあげられなかった反省もあるし」
彼女は小さなバックを肩からぶら提げ、ぼくといっしょに店をでた。かといって、なにもすることがなかった。ただ町をぶらぶらし、しらふの状態を楽しんでいた。ぼくは誰かとしゃべる必要を感じ、そして、まゆみちゃんの放つ陽気さがぼくに伝染した。
「わたし、バイトをしたいんですけどね・・・」
「店を手伝えばいいじゃん」彼女は無知な人間を見るかのようにこっちを振り向いた。
「普通、お金をもらうのもそうだけど、バイトって知らない環境で自分を磨くことも含まれているんだよ。ひろし君もそうだったでしょう?」ぼくは、自分の過去を思い返す。彼女の言うとおりだった。そして、その結晶として、ぼくは何十年後かにこのように大きくなった女性と歩いているのだ。
「そうだね、で、勉強はできるの?」
「え? どうして」ぼくはまたさっきの同じような視線を向けられた。
「優秀な子には、なにかと紹介しやすいかなと思って」
「できるよ。優秀。じゃあ、考えてくれる?」
「まあ、何とか」かといって、ぼくには何のプランもコネもなかった。ただ、彼女のもつ性質が伸びるようなことだけを考えてあげたかった。