壊れゆくブレイン(6)
ぼくは、ある晴れた日に走る少女を見ている。まだ10歳ぐらい。彼女の父は、ぼくらの憧れのラグビー選手だった。その能力を受け継いでいるのだろう、見事な走り方だった。その子の母をぼくは一時期、愛していた。でも、ほんとうのところ、出会ってしまった瞬間から、一日も忘れたことはなかったのかもしれない。そのために交際していた相手を捨て、彼女のもとに飛び込んだ。だが、別れてしまいぼくは東京で再会した裕紀と結婚することになった。また、裕紀のことも、ずっと好きでいつづけていた。ぼくのこころは、2人の女性が独占した。矛盾した言葉だが、事実は、どうやっても隠せないぐらい事実だった。
「早いんだね」
「むかし風に言えば、活発、おてんば」
「でも、素直なんでしょう」ぼくは、雪代に訊ねる。
「あの頃の年代って、揺れ動くものよ」
ぼくは、グラウンドの日陰が作られない場所に立って、順番に走る子たちを見ている。雪代もそうしている。帽子を目深にかぶって。過去のぼくに自分がそういう立場にいることを教えてあげたい。また、裕紀にもこういう立場を与えてあげたかったとも同時に思っている。
走り終わった雪代の娘はぼくらの方に寄ってきた。
「こんにちは」少女はぼくの方を見上げて、可愛く挨拶する。彼女の頭の中で、ぼくの存在がどう映っているのか理解の仕様もなかった。
「こんにちは、早いんだね」
「練習したから。じゃあ、また」小さな少女は、ぼくが出会う前の雪代を想像させた。ぼくが、知っているのは10代の終わりが迫ったころだった。
「ぼくのこと知ってるの? 人見知りしなかった」
「知ってるんじゃない」それ以上、雪代は説明しなかった。ぼくは、それから甥の走る姿も見た。彼の父もラグビー選手だった。ぼくの後輩。それを見ながら、自分の年齢があがってきてしまった事実を確認した。黙認とも呼べるようなものだった。ぼくと裕紀は、このような場所にいることはなく、自分たちの年齢や役割を曖昧な状態に置くことができていた。それは幸福でもあり、ある種の不幸でもあった。未熟でいることを許可され、未成熟であることの淋しさがあった。段階を踏まえなかった淋しさ。
すべてが終わり、雪代の娘である広美がまた近付いてきた。
「どうだった、今日、ひろし君?」広美は訊く。
「ぼくのこと、名前も知ってるんだ」
「だって、いっぱい、うちに写真があるもん。それで顔も知ってた」ぼくは、どのような写真を雪代が残し、それを結婚生活の間も保管していたのか知りたかった。
「そうなんだ。じゃあ、初対面でもない気分だね」
「ママが話してくれた。男の子を好きになるって、どんな気持ちになるのかって。それで、写真もあった。わたし、パパもよく知らないから」そう言って、自分の言葉が恥ずかしかったのか、ぼくらから少しはなれて走った。一日、運動しても元気がありあまるようだった。
「そうなんだ? 自分の知らない未来がどこかで作られていた」
「彼女は、彼女なりに父親像を作り上げたかったの。それで、ママの好きなひとの話をきかせてと言われたので、それなりに話していたら、不思議な人間が作られた。ほんとの父親でもあり、ひろし君の面影も散りばめられていった。写真もあったから」
「で、会えなかった父親の一部を担っている存在がいる」
「そんなに重く考えないで」
広美は立ち止まって振り返った。ぼくらが来るのを、つまらなそうな、また楽しそうな不思議な表情で待っていた。そこに着くと、「アイス、食べたい」と言った。それで、ぼくらは小さな喫茶店に入った。彼女は、アイスかアイスクリームが浮かんだソーダにするか迷っていた。そして、結局、ソーダを頼んだ。
「ママは優しい?」ぼくは、会話を埋めるため、そのような話題を持ち出した。
「いつもは優しい。でも、ときどき・・・」また、ソーダを飲んだ。ぼくも暇な時間にアルコールを飲まない健全なこの時間を楽しんでいた。
「自分が悪いことするからだよ、ね」雪代は優しく言った。そこには信頼関係があった。父親不在の共同体のようなものらしかった。ぼくは、今更ながら配偶者を失って立ち直れる可能性があることも感じていた。ここに、現に証人がいるではないか。それから、数十分ぼくらは無駄話をした。ぼくは部外者として嫌悪されるのも覚悟をしていたが、実際はそうはならなかった。小さなこころはぼくの存在を自然と受け入れ、母とぼくがふたりで親密に話していても嫌がらなかった。
それから、店を出た。ぼくらはそこで別れることになる。彼女は小さな手でバイバイとして振った。ぼくも同じように手を動かした。
「また、ひろし君」と広美は名残惜しそうに言った。それで、ぼくも、「さよなら、広美ちゃん」と返事をした。
「今日は、ありがとう、ひろし君。付き合ってくれて」と、今度は母が言った。「こちらこそ」と言いたかったが、なぜかぼくは口に出せなかった。しかし、野放図に酔っ払い、頬を打たれた自分を次の環境に移してくれた雪代に感謝していた。そして、家までの帰り道、暖かい気持ちで歩いていた。悪くない一日じゃないか、という気分でぼくは夕暮れのなかを歩いている。
ぼくは、ある晴れた日に走る少女を見ている。まだ10歳ぐらい。彼女の父は、ぼくらの憧れのラグビー選手だった。その能力を受け継いでいるのだろう、見事な走り方だった。その子の母をぼくは一時期、愛していた。でも、ほんとうのところ、出会ってしまった瞬間から、一日も忘れたことはなかったのかもしれない。そのために交際していた相手を捨て、彼女のもとに飛び込んだ。だが、別れてしまいぼくは東京で再会した裕紀と結婚することになった。また、裕紀のことも、ずっと好きでいつづけていた。ぼくのこころは、2人の女性が独占した。矛盾した言葉だが、事実は、どうやっても隠せないぐらい事実だった。
「早いんだね」
「むかし風に言えば、活発、おてんば」
「でも、素直なんでしょう」ぼくは、雪代に訊ねる。
「あの頃の年代って、揺れ動くものよ」
ぼくは、グラウンドの日陰が作られない場所に立って、順番に走る子たちを見ている。雪代もそうしている。帽子を目深にかぶって。過去のぼくに自分がそういう立場にいることを教えてあげたい。また、裕紀にもこういう立場を与えてあげたかったとも同時に思っている。
走り終わった雪代の娘はぼくらの方に寄ってきた。
「こんにちは」少女はぼくの方を見上げて、可愛く挨拶する。彼女の頭の中で、ぼくの存在がどう映っているのか理解の仕様もなかった。
「こんにちは、早いんだね」
「練習したから。じゃあ、また」小さな少女は、ぼくが出会う前の雪代を想像させた。ぼくが、知っているのは10代の終わりが迫ったころだった。
「ぼくのこと知ってるの? 人見知りしなかった」
「知ってるんじゃない」それ以上、雪代は説明しなかった。ぼくは、それから甥の走る姿も見た。彼の父もラグビー選手だった。ぼくの後輩。それを見ながら、自分の年齢があがってきてしまった事実を確認した。黙認とも呼べるようなものだった。ぼくと裕紀は、このような場所にいることはなく、自分たちの年齢や役割を曖昧な状態に置くことができていた。それは幸福でもあり、ある種の不幸でもあった。未熟でいることを許可され、未成熟であることの淋しさがあった。段階を踏まえなかった淋しさ。
すべてが終わり、雪代の娘である広美がまた近付いてきた。
「どうだった、今日、ひろし君?」広美は訊く。
「ぼくのこと、名前も知ってるんだ」
「だって、いっぱい、うちに写真があるもん。それで顔も知ってた」ぼくは、どのような写真を雪代が残し、それを結婚生活の間も保管していたのか知りたかった。
「そうなんだ。じゃあ、初対面でもない気分だね」
「ママが話してくれた。男の子を好きになるって、どんな気持ちになるのかって。それで、写真もあった。わたし、パパもよく知らないから」そう言って、自分の言葉が恥ずかしかったのか、ぼくらから少しはなれて走った。一日、運動しても元気がありあまるようだった。
「そうなんだ? 自分の知らない未来がどこかで作られていた」
「彼女は、彼女なりに父親像を作り上げたかったの。それで、ママの好きなひとの話をきかせてと言われたので、それなりに話していたら、不思議な人間が作られた。ほんとの父親でもあり、ひろし君の面影も散りばめられていった。写真もあったから」
「で、会えなかった父親の一部を担っている存在がいる」
「そんなに重く考えないで」
広美は立ち止まって振り返った。ぼくらが来るのを、つまらなそうな、また楽しそうな不思議な表情で待っていた。そこに着くと、「アイス、食べたい」と言った。それで、ぼくらは小さな喫茶店に入った。彼女は、アイスかアイスクリームが浮かんだソーダにするか迷っていた。そして、結局、ソーダを頼んだ。
「ママは優しい?」ぼくは、会話を埋めるため、そのような話題を持ち出した。
「いつもは優しい。でも、ときどき・・・」また、ソーダを飲んだ。ぼくも暇な時間にアルコールを飲まない健全なこの時間を楽しんでいた。
「自分が悪いことするからだよ、ね」雪代は優しく言った。そこには信頼関係があった。父親不在の共同体のようなものらしかった。ぼくは、今更ながら配偶者を失って立ち直れる可能性があることも感じていた。ここに、現に証人がいるではないか。それから、数十分ぼくらは無駄話をした。ぼくは部外者として嫌悪されるのも覚悟をしていたが、実際はそうはならなかった。小さなこころはぼくの存在を自然と受け入れ、母とぼくがふたりで親密に話していても嫌がらなかった。
それから、店を出た。ぼくらはそこで別れることになる。彼女は小さな手でバイバイとして振った。ぼくも同じように手を動かした。
「また、ひろし君」と広美は名残惜しそうに言った。それで、ぼくも、「さよなら、広美ちゃん」と返事をした。
「今日は、ありがとう、ひろし君。付き合ってくれて」と、今度は母が言った。「こちらこそ」と言いたかったが、なぜかぼくは口に出せなかった。しかし、野放図に酔っ払い、頬を打たれた自分を次の環境に移してくれた雪代に感謝していた。そして、家までの帰り道、暖かい気持ちで歩いていた。悪くない一日じゃないか、という気分でぼくは夕暮れのなかを歩いている。