壊れゆくブレイン(60)
社長がいなくなった会社はどこか別物だった。そして、いなくなったひとの全体像をぼくらはいかに知らないかという実感もまた覚えるのだ。それから、あのひとの残した些細な言葉の真の意味合いを覚ったり、再度発見したりもした。それで、またうろたえた。誰かがいないということだけで。
ぼくは松田と会う。彼とは幼いころからの友人だったが、ぼくからとは違うルートで彼の会社に仕事を依頼していた。そこには社長が大きく関与し、彼の会社の利益の多くはそこから派生していた。それだけではないが彼も悲しんでいるひとりだった。
「ひろしのことも良く話していたぞ」
ぼくが知らないところで、自分が話題のうえにあげられていた。ぼくは目上のひとから言われたかった言葉を友人経由で手に入れる。だが、実際に当人から直接言われたら数倍も嬉しかっただろうという内容だった。ぼくらは言葉や感謝を控えすぎているのだろうか? 遠慮しすぎているのだろうか? ぼくも社長に言うべき必要のある言葉が多々あった。それは山脈のように、またはネックレスのように連なっていて消えなかった。
「それで、後釜の担当は?」
彼は名前を言って、名刺を取り出した。頼りになる女性だった。ぼくは彼女の特徴や好みを伝えた。特徴や趣味? そういったもので人間は構成されているのだろうか?
「ひろしは会社に不満はない?」
「ないこともないけど、そう特別には」
「転職とかは?」
「考えてもいない」
「最近は人材を買うとか買わないとかでオレのところにも何人か来た」
「そうなんだ。引っ張りだこ?」
「ただの調査だよ。これでも、自分の会社を軌道に乗せてるから、それをどっかで役立てないかとか。ひろしにも声がかかっても良さそうだなと思って」
「ぼくは、社長がいちばん評価してくれてたから」
「実感があるんだ?」
「もう20年も付き合ってきた。学生のバイトをしたときも加算すればそれ以上。妻より長い」
「2人の妻。ごめん、酔ってきた」
「ぜんぜん。2人の妻より長い。事実だよ」それから、ぼくは彼の家族の話をきく。彼の妻は洋服やバックを作り、店の片隅に置いたものが売れ出して、それを主婦たちに教える日常が舞い込んできた。彼女は高校生のときに妊娠してひとりの息子を産んだ。学生時代の少なかった彼女が大人になり、また共同してなにかを始めるという生活に入ったことがぼくは嬉しかった。その息子も20代の半ばになり、交際相手を家に連れてきている。そう急かさずに自分の人生や未来を決めるようにと松田はアドバイスする。自分には誰かがしてくれなかったことだったとしても。
「仕事がいやになったら、これでもコネがあるから、お前をどこかに紹介してやるよ」と、帰り際に酔った松田はそう言った。その言葉をお土産にして、ぼくは帰り道を一人歩いている。10分ほどの帰り道の途中で娘に会った。
「お酒を飲んでたの?」
「学生からの友人とひさびさに会った」ぼくは彼のことをかいつまんで話す。それを誰か第三者に伝えるという経過を通して、そのひとが具体的に生きている形として再発見された。
「ママもその友だちを知ってる?」
「知ってるよ。まだ広美が存在するずっと前。そこの子どもがとても可愛かった。でも、もう20代も半ばになるんだって」
「大人だね」
「大人だよ。嬉しくもあり、すこし気持ちの行き場が気持ち悪い」
「どうして?」
「膝に乗って眠ったあの子のままでいて欲しかったなとか」
「無理だよ」
「そう、無理だよ。大人になって、いつか大人も越えてしまう」
「おじいさんやお婆さんにならないひともいる」
「君のパパや裕紀みたいにね」
「でも、年取ったほうがいい?」
「思い出も増えるし、誰かの成長を見守ることもできる」
「今度の休み、まゆみちゃんの家に泊まりに行くよ」
「そう。大きくなったかな?」それは彼女の子どもを指して使った言葉ということを互いに知っていた。
「見てくる」
「抱いてくる。そう言えば、ぼくが広美を抱いたということを記憶として留めてるって・・・」
「言った。分からないけどある」
「その子も、覚えてくれるかな?」
「さあ、バスケットボールぐらいの重さかな」彼女は日頃、触りなれているものと比較して語った。そのまま、大して話すこともできず家に着いた。
「なんだ、いっしょだったの?」雪代が振り返り言う。料理の仕度をしていた。
「そこで、いっしょになった。ひろし君もうお酒を飲んでるよ。友だちと会ったって」
「そう、誰と?」
「松田と。転職するなら、どこかに紹介してあげるだって」
「するの?」
「しないよ。ただ、路線変更をしたときをイメージしてみただけ」
「社長もいなくなったし」
「松田も世話になったと言ってた」
「奥さん、地区センターでバックなんかを作っているよ」
「なんだ、知ってたの?」
「小さな街だよ」雪代はそう言って作り終えたらしい料理を皿に盛り付け、テーブルに並べた。ぼくはビールを冷蔵庫から取り出し、つまみとしてそれらを食した。
「広美、まゆみちゃんに会いに行くって」ぼくは彼女らのいまの映像ではなく、数年前の印象をあたまに浮かべていた。誰かがそばに寄り沿い、頑なに守る必要がある存在としての。
社長がいなくなった会社はどこか別物だった。そして、いなくなったひとの全体像をぼくらはいかに知らないかという実感もまた覚えるのだ。それから、あのひとの残した些細な言葉の真の意味合いを覚ったり、再度発見したりもした。それで、またうろたえた。誰かがいないということだけで。
ぼくは松田と会う。彼とは幼いころからの友人だったが、ぼくからとは違うルートで彼の会社に仕事を依頼していた。そこには社長が大きく関与し、彼の会社の利益の多くはそこから派生していた。それだけではないが彼も悲しんでいるひとりだった。
「ひろしのことも良く話していたぞ」
ぼくが知らないところで、自分が話題のうえにあげられていた。ぼくは目上のひとから言われたかった言葉を友人経由で手に入れる。だが、実際に当人から直接言われたら数倍も嬉しかっただろうという内容だった。ぼくらは言葉や感謝を控えすぎているのだろうか? 遠慮しすぎているのだろうか? ぼくも社長に言うべき必要のある言葉が多々あった。それは山脈のように、またはネックレスのように連なっていて消えなかった。
「それで、後釜の担当は?」
彼は名前を言って、名刺を取り出した。頼りになる女性だった。ぼくは彼女の特徴や好みを伝えた。特徴や趣味? そういったもので人間は構成されているのだろうか?
「ひろしは会社に不満はない?」
「ないこともないけど、そう特別には」
「転職とかは?」
「考えてもいない」
「最近は人材を買うとか買わないとかでオレのところにも何人か来た」
「そうなんだ。引っ張りだこ?」
「ただの調査だよ。これでも、自分の会社を軌道に乗せてるから、それをどっかで役立てないかとか。ひろしにも声がかかっても良さそうだなと思って」
「ぼくは、社長がいちばん評価してくれてたから」
「実感があるんだ?」
「もう20年も付き合ってきた。学生のバイトをしたときも加算すればそれ以上。妻より長い」
「2人の妻。ごめん、酔ってきた」
「ぜんぜん。2人の妻より長い。事実だよ」それから、ぼくは彼の家族の話をきく。彼の妻は洋服やバックを作り、店の片隅に置いたものが売れ出して、それを主婦たちに教える日常が舞い込んできた。彼女は高校生のときに妊娠してひとりの息子を産んだ。学生時代の少なかった彼女が大人になり、また共同してなにかを始めるという生活に入ったことがぼくは嬉しかった。その息子も20代の半ばになり、交際相手を家に連れてきている。そう急かさずに自分の人生や未来を決めるようにと松田はアドバイスする。自分には誰かがしてくれなかったことだったとしても。
「仕事がいやになったら、これでもコネがあるから、お前をどこかに紹介してやるよ」と、帰り際に酔った松田はそう言った。その言葉をお土産にして、ぼくは帰り道を一人歩いている。10分ほどの帰り道の途中で娘に会った。
「お酒を飲んでたの?」
「学生からの友人とひさびさに会った」ぼくは彼のことをかいつまんで話す。それを誰か第三者に伝えるという経過を通して、そのひとが具体的に生きている形として再発見された。
「ママもその友だちを知ってる?」
「知ってるよ。まだ広美が存在するずっと前。そこの子どもがとても可愛かった。でも、もう20代も半ばになるんだって」
「大人だね」
「大人だよ。嬉しくもあり、すこし気持ちの行き場が気持ち悪い」
「どうして?」
「膝に乗って眠ったあの子のままでいて欲しかったなとか」
「無理だよ」
「そう、無理だよ。大人になって、いつか大人も越えてしまう」
「おじいさんやお婆さんにならないひともいる」
「君のパパや裕紀みたいにね」
「でも、年取ったほうがいい?」
「思い出も増えるし、誰かの成長を見守ることもできる」
「今度の休み、まゆみちゃんの家に泊まりに行くよ」
「そう。大きくなったかな?」それは彼女の子どもを指して使った言葉ということを互いに知っていた。
「見てくる」
「抱いてくる。そう言えば、ぼくが広美を抱いたということを記憶として留めてるって・・・」
「言った。分からないけどある」
「その子も、覚えてくれるかな?」
「さあ、バスケットボールぐらいの重さかな」彼女は日頃、触りなれているものと比較して語った。そのまま、大して話すこともできず家に着いた。
「なんだ、いっしょだったの?」雪代が振り返り言う。料理の仕度をしていた。
「そこで、いっしょになった。ひろし君もうお酒を飲んでるよ。友だちと会ったって」
「そう、誰と?」
「松田と。転職するなら、どこかに紹介してあげるだって」
「するの?」
「しないよ。ただ、路線変更をしたときをイメージしてみただけ」
「社長もいなくなったし」
「松田も世話になったと言ってた」
「奥さん、地区センターでバックなんかを作っているよ」
「なんだ、知ってたの?」
「小さな街だよ」雪代はそう言って作り終えたらしい料理を皿に盛り付け、テーブルに並べた。ぼくはビールを冷蔵庫から取り出し、つまみとしてそれらを食した。
「広美、まゆみちゃんに会いに行くって」ぼくは彼女らのいまの映像ではなく、数年前の印象をあたまに浮かべていた。誰かがそばに寄り沿い、頑なに守る必要がある存在としての。