爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(3)

2012年05月25日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(3)

「パパ、仕事どう? わたし、お腹空いた」と、短いTシャツのお腹の部分をさすりながら由美が言った。

「じゃあ、出掛けることにするか。ご飯食べたら、お昼寝して宿題もしよう!」と宣言し、ぼくはノートブックを閉じる。カギを閉め、悲しげに鳴く愛犬のジョンの喉元の音を玄関の向こうに聴く。

「この前、友だちと喧嘩した。普通はネクタイして新聞を持って、カバンをもって、朝に会社へ行くのが父親の役目だって言われたから」
「それで、何て答えたの?」
「それは、ママの役目。少なくても、うちでは、って」
「まあ、人生いろいろだから」
「ママとどこで最初に会ったか、もう一回話して、パパ」

 ぼくはあの頃を思い出す。ケンは授業を受ける場所に戸惑いながらもやっと見つける。額の汗を拭いながらも、緊張のためかいつまでもそれは止まなかった。そこに、いま生まれたばかりの新鮮な果実を思わせる女性が斜め右に座っているのを発見する。あれは、誰なんだ? と教室を探しあぐねたことを忘れ、彼女の名前やさまざまなことを知りたくなる。かといって、まだ友人もいない状況では、共通の友人も当然のこといないわけで、その模索と回答に至る最短の距離を知る方法を考えながら講義を受ける。

 間もなく、近くのファミリー・レストランに着いた。注文も終え、ぼくはのんびりと炭酸入りのジュースを飲んでいる。シフトの時間が変わるタイミングなのか聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「先生、お嬢さんがいたんですか?」
 そこのウェイトレスが水の入った容器を手にして、声をかけてきた。彼女が先生というのには意味がある。ぼくの高校時代の同級生が役所に勤め、予算の配分の関係で文化的なことにも力を注がなければならなかった。ぼくの本が地元の本屋の片隅に2冊並ぶと、彼は電話をかけてきた。「オレを助けると思って」と言い、文章の書き方を教えるという講座を地区のセンターで開くことになった。「まあ、一年の話だから」と安易に提案を出され、妻も、「役に立つことって、とにかく良いことよ、いまでもボランティアみたいな稼ぎしかないわけだから」ということで賛同し、そこに行って教えることになった。ウェイトレスである彼女の母は自分の半生を書くことを望んでいたが、ひとりでいくことを躊躇い、娘の彼女がついて来た。そもそも、文章のことなど興味もないことなので彼女は直ぐに横のパソコン教室に鞍替えした。その数回の出会いで彼女はぼくのことを先生と呼んだ。四月に出会い、ぼくに娘が居ることも知らないのも当然だった。いつも、午後、ぼくはそこで昼ご飯と創作のイメージ・トレーニングをしていた。

「お名前は?」
「由美です」と娘は言う。そして、誰に教えられたのか分からないようなとびっきりの笑顔を見せた。誰に?
 時間が経ち、料理が運ばれる。
「はい、由美ちゃん、こちら、ハンバーグになります。熱いから気をつけてね。先生は、もう少し待って」
 ハンバーグになる? ピノキオはおじいさんの愛に包まれ人間になった。人間のこころを持つようになった。いや、高慢になったピノキオの気持ちが彼の鼻を伸ばせることにならせた。努力して手にまめを作り素振りを繰り返した結果、彼をホームラン・バッターにならせた。
「おいしそう」由美が言う。
「先生、なにかありました。注文と違うとか、なにか入っていたとか?」
「いいえ、別に」

「変な先生」彼女は首を傾げ背中を見せて新たな調理をされたものを取りに行った。
「はい、ホウレン草のソテー。もっと栄養のあるしっかりとしたものを食べた方がいいんじゃないですか?」
「そうかな。そうだ、お母さんはあれから半生を書いている?」
「原稿用紙と万年筆を買って思案中。形から入るタイプだから。先生も高価な万年筆を?」
「いや、ぼくにはキーボードがあるし、十本の指がある」
「ささくれの出来た指もある。きれいな指の男性ってセクシーですよ」
「セクシーってなに?」と、由美が訊く。

「魅力的ってこと。また、頼むものがあったら言ってくださいね。わたしが直ぐに来るから」彼女は車の保険のような言葉を残し、ほかの席に向かった。ケンは大学の図書館で借りようと思っていた本が棚にことごとくないことに気付く。あきらめて奥の自習室に向かうと、それらがうずたかく並べられているのが見えた。でも、その席には誰もいなかった。後ろ髪をひかれるように、うらめしく眺めているとそこにある女性があらわれた。

「どうかしました?」
「これ」と、ケンはその本たちを指差す。
「これ?」
「全部、読めるの?」
「意気込みとしては。でも、実際には読めない」
「数冊、ぼくが借りたいと思っていたのが含まれている」
「どうぞ」
「ありがとう。読み終わって、メモを取ったら直ぐに返す。名前は?」
「マーガレット」
「ぼくは、ケン」
 一先ずは、名前だけは手に入れた。名前の数文字こそがそのひとを表すのだ。
「パパ、プリン食べてもいい?」
「こちら、プリンになります」ぼくは独り言のようにつぶやいた。
「え? なに、パパ」
 ぼくは児玉さんを探す。彼女の社交的な性格がウェイトレスを生き甲斐と感じさせるまでにならせた。
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壊れゆくブレイン(66)

2012年05月25日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(66)

 そして、ゆり江の両親の家は建ちはじめる。ぼくは仕事の途中にも、車でそこを通りかかるたびに寄った。または、そうする時間がないときは窓を開けて眺めた。それは壊れゆくものではなく、築き上げられ、命を与えられるものの象徴だった。いずれ、ゆり江もそこに住むと言った。彼女には夫と子どもがおり、両親はそこで世代が代わりつつあることを知る。ぼくもそれを知りながらも、彼女がまだ10代で無垢だった時代を記念のメダルのように大切に胸の奥にしまっている。無垢の記念碑。

 その建設が70パーセント近く過ぎたときに差し入れをもちながら、ぼくはそこに出向く。高いところに登り、作業をしている職人たち。彼らの献身的で無欲な感じが伝わってくる。目の前の問題だけに取り組んでいるストイックな表情。ぼくは無心にラグビーボールを前にすすめることだけを考えていた自分をそうしたときに思い出すのだ。実際は野望があり、名声への拘りがあったり、つまらない見栄に包まれていたとしても、普段はそういう無形のものと親友だったとしても、ここだけは違うという信念らしきものが感じられた。多分、考えすぎなのだろうか。そして、ある晴れた日にすべてが完成した。

 ぼくは、その日、カギを持ちそこを開ける。後ろには、ゆり江の両親ともちろんゆり江がいる。簡単に家の中を説明し、納得いただきカギを手渡す。彼らは家具を用意し、その業者が家の前で運ぶのを待ち構えていた。ぼくはそのひとりと話し、大体の構造のあらましを言い、あとの設置は任せた。

 そこにゆり江がでてきた。
「ありがとう、素敵な家になった」
「ぼくの力はほぼないけど、でも、その言葉、嬉しいね」
「両親も喜んでた」
「そう。裕紀にもこういう家を建てて上げたかったなと、いましみじみ思った。ゆり江ちゃんだから言うけど」
「その気持ちは分かるよ。家庭的だったしね」
 ぼくらは外からその家を眺める。空は快晴で、少しだけある雲がベランダの横を通りかかる。
「親が段々とこわいものでなくなった寂しさがあるね。いつまでも、自分を叱ってくれるものだと思っていた」
「まだ、元気じゃない」

「でもね、そうだ、記念になにかこの家に向いているものをプレゼントしてくれない」
「ぼくから?」ぼくはなぜか一瞬ためらった。でも、考え直して「ああ、いいよ。なにがいいんだろう」と、付け加えた。
「それは大事なひとだと思って、考えてよ」

 ぼくは車に乗り込み、仕事がひとつ片付いた安堵と、ゆり江が提案した条件に合うものを探した。片方では空白になった脳と、もう片方では思考を繰り返す頭脳があった。それを心地の良いものとそのときは考えていた。ぼくは近かったのでその帰りに実家に寄った。両親は午前中ののんびりとした時間を空虚のようにテレビを見ていた。ぼくはゆり江が接する両親を見て、自分もなにか暖かな言葉をかけたりしたかったが、自分の口からはなにも出てこなかった。ふたりはもう仕事をリタイアして父の店があった商店街の一角は、若者向けの飲食店に化けていた。

「お昼ご飯でも食べていく?」と母が言った。
「そうだね」ぼくは上着をハンガーにかけ、同じようにテレビの画面を見た。母は立ち上がり、台所で手際よくつくりはじめた。

 するとテーブルには料理が並べられた。ぼくは雪代との生活がこのふたりのような期間も続いていくのだろうかとご飯を噛みながら考えている。それに比べると自分は短い時間しかもてないことを知る。互いに二人目の結婚相手であるぼくらは、時間は短いがそれなりに濃密な時間があることも知っていた。それは、ただこのようなテレビを見ていた穏やかさとはまた違っていたようだった。

「そうだ、まだあの絵、まだあったんだっけ?」
 母はそれが何を指すのか知っていた。
「あんたの部屋にあるよ」

 それはぼくがもらった裕紀に似た子の絵だった。ぼくは東京の家を去るときにそれを梱包しいっしょにもってきた。いつのまにか家の倉庫から誰かが引っ張り出し、ぼくが暮らした実家の部屋に飾っていた。それを見た広美の友だちは不審がり、雪代の絵を描いて展覧会に出した。それはいまでもぼくの部屋に飾ってある。
「あれ、貰うよ」
「貰うも、なにも、最初からあなたのじゃない」

「そうか」ぼくは丈夫な紙とガムテープでそれをまたくるんだ。昼も終わり、上着を来て、それを助手席にのせた。ぼくは裕紀とドライブした過去の一日を懐かしく思い出している。
 また、さっきの家のベルを鳴らす。急いでゆり江が駆けつけた。
「なんだ、ガス屋さんかと思った。ひろし君だったの」
「まだ、来てないの?」
「予定の時間は過ぎているのに。どうしたの? 忘れ物」
「いや、こんなものがあって、これを持っているひとはもうぼくじゃない気がする。気に入ったら、家に飾って」
 ゆり江はそれを開ける。
「女のひとの肖像画だ。どこか、裕紀ちゃんに似ている」
「みんな、そういう」
「将来、子どもの部屋になる部屋に飾っておく」
「これ以外にも、なにかプレゼントは別に探すよ」
「いいよ、充分、これだけで」
 話していると、ぼくの後ろでバイクが止まった。「お待たせしました」とヘルメットを脱ぎながら制服を着た男性が現れた。
「じゃあ、これで」ぼくは、代わりに引き上げる。ぼくは裕紀につながる思い出や品物を手放したかったのだろうか? いや、まったくの逆だ。彼女の痕跡を誰かに押し付け、覚え続けていることを無意識に強要しているのだろう。それから、職場にもどり通常の営みにもどった。
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