夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(3)
「パパ、仕事どう? わたし、お腹空いた」と、短いTシャツのお腹の部分をさすりながら由美が言った。
「じゃあ、出掛けることにするか。ご飯食べたら、お昼寝して宿題もしよう!」と宣言し、ぼくはノートブックを閉じる。カギを閉め、悲しげに鳴く愛犬のジョンの喉元の音を玄関の向こうに聴く。
「この前、友だちと喧嘩した。普通はネクタイして新聞を持って、カバンをもって、朝に会社へ行くのが父親の役目だって言われたから」
「それで、何て答えたの?」
「それは、ママの役目。少なくても、うちでは、って」
「まあ、人生いろいろだから」
「ママとどこで最初に会ったか、もう一回話して、パパ」
ぼくはあの頃を思い出す。ケンは授業を受ける場所に戸惑いながらもやっと見つける。額の汗を拭いながらも、緊張のためかいつまでもそれは止まなかった。そこに、いま生まれたばかりの新鮮な果実を思わせる女性が斜め右に座っているのを発見する。あれは、誰なんだ? と教室を探しあぐねたことを忘れ、彼女の名前やさまざまなことを知りたくなる。かといって、まだ友人もいない状況では、共通の友人も当然のこといないわけで、その模索と回答に至る最短の距離を知る方法を考えながら講義を受ける。
間もなく、近くのファミリー・レストランに着いた。注文も終え、ぼくはのんびりと炭酸入りのジュースを飲んでいる。シフトの時間が変わるタイミングなのか聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「先生、お嬢さんがいたんですか?」
そこのウェイトレスが水の入った容器を手にして、声をかけてきた。彼女が先生というのには意味がある。ぼくの高校時代の同級生が役所に勤め、予算の配分の関係で文化的なことにも力を注がなければならなかった。ぼくの本が地元の本屋の片隅に2冊並ぶと、彼は電話をかけてきた。「オレを助けると思って」と言い、文章の書き方を教えるという講座を地区のセンターで開くことになった。「まあ、一年の話だから」と安易に提案を出され、妻も、「役に立つことって、とにかく良いことよ、いまでもボランティアみたいな稼ぎしかないわけだから」ということで賛同し、そこに行って教えることになった。ウェイトレスである彼女の母は自分の半生を書くことを望んでいたが、ひとりでいくことを躊躇い、娘の彼女がついて来た。そもそも、文章のことなど興味もないことなので彼女は直ぐに横のパソコン教室に鞍替えした。その数回の出会いで彼女はぼくのことを先生と呼んだ。四月に出会い、ぼくに娘が居ることも知らないのも当然だった。いつも、午後、ぼくはそこで昼ご飯と創作のイメージ・トレーニングをしていた。
「お名前は?」
「由美です」と娘は言う。そして、誰に教えられたのか分からないようなとびっきりの笑顔を見せた。誰に?
時間が経ち、料理が運ばれる。
「はい、由美ちゃん、こちら、ハンバーグになります。熱いから気をつけてね。先生は、もう少し待って」
ハンバーグになる? ピノキオはおじいさんの愛に包まれ人間になった。人間のこころを持つようになった。いや、高慢になったピノキオの気持ちが彼の鼻を伸ばせることにならせた。努力して手にまめを作り素振りを繰り返した結果、彼をホームラン・バッターにならせた。
「おいしそう」由美が言う。
「先生、なにかありました。注文と違うとか、なにか入っていたとか?」
「いいえ、別に」
「変な先生」彼女は首を傾げ背中を見せて新たな調理をされたものを取りに行った。
「はい、ホウレン草のソテー。もっと栄養のあるしっかりとしたものを食べた方がいいんじゃないですか?」
「そうかな。そうだ、お母さんはあれから半生を書いている?」
「原稿用紙と万年筆を買って思案中。形から入るタイプだから。先生も高価な万年筆を?」
「いや、ぼくにはキーボードがあるし、十本の指がある」
「ささくれの出来た指もある。きれいな指の男性ってセクシーですよ」
「セクシーってなに?」と、由美が訊く。
「魅力的ってこと。また、頼むものがあったら言ってくださいね。わたしが直ぐに来るから」彼女は車の保険のような言葉を残し、ほかの席に向かった。ケンは大学の図書館で借りようと思っていた本が棚にことごとくないことに気付く。あきらめて奥の自習室に向かうと、それらがうずたかく並べられているのが見えた。でも、その席には誰もいなかった。後ろ髪をひかれるように、うらめしく眺めているとそこにある女性があらわれた。
「どうかしました?」
「これ」と、ケンはその本たちを指差す。
「これ?」
「全部、読めるの?」
「意気込みとしては。でも、実際には読めない」
「数冊、ぼくが借りたいと思っていたのが含まれている」
「どうぞ」
「ありがとう。読み終わって、メモを取ったら直ぐに返す。名前は?」
「マーガレット」
「ぼくは、ケン」
一先ずは、名前だけは手に入れた。名前の数文字こそがそのひとを表すのだ。
「パパ、プリン食べてもいい?」
「こちら、プリンになります」ぼくは独り言のようにつぶやいた。
「え? なに、パパ」
ぼくは児玉さんを探す。彼女の社交的な性格がウェイトレスを生き甲斐と感じさせるまでにならせた。
「パパ、仕事どう? わたし、お腹空いた」と、短いTシャツのお腹の部分をさすりながら由美が言った。
「じゃあ、出掛けることにするか。ご飯食べたら、お昼寝して宿題もしよう!」と宣言し、ぼくはノートブックを閉じる。カギを閉め、悲しげに鳴く愛犬のジョンの喉元の音を玄関の向こうに聴く。
「この前、友だちと喧嘩した。普通はネクタイして新聞を持って、カバンをもって、朝に会社へ行くのが父親の役目だって言われたから」
「それで、何て答えたの?」
「それは、ママの役目。少なくても、うちでは、って」
「まあ、人生いろいろだから」
「ママとどこで最初に会ったか、もう一回話して、パパ」
ぼくはあの頃を思い出す。ケンは授業を受ける場所に戸惑いながらもやっと見つける。額の汗を拭いながらも、緊張のためかいつまでもそれは止まなかった。そこに、いま生まれたばかりの新鮮な果実を思わせる女性が斜め右に座っているのを発見する。あれは、誰なんだ? と教室を探しあぐねたことを忘れ、彼女の名前やさまざまなことを知りたくなる。かといって、まだ友人もいない状況では、共通の友人も当然のこといないわけで、その模索と回答に至る最短の距離を知る方法を考えながら講義を受ける。
間もなく、近くのファミリー・レストランに着いた。注文も終え、ぼくはのんびりと炭酸入りのジュースを飲んでいる。シフトの時間が変わるタイミングなのか聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「先生、お嬢さんがいたんですか?」
そこのウェイトレスが水の入った容器を手にして、声をかけてきた。彼女が先生というのには意味がある。ぼくの高校時代の同級生が役所に勤め、予算の配分の関係で文化的なことにも力を注がなければならなかった。ぼくの本が地元の本屋の片隅に2冊並ぶと、彼は電話をかけてきた。「オレを助けると思って」と言い、文章の書き方を教えるという講座を地区のセンターで開くことになった。「まあ、一年の話だから」と安易に提案を出され、妻も、「役に立つことって、とにかく良いことよ、いまでもボランティアみたいな稼ぎしかないわけだから」ということで賛同し、そこに行って教えることになった。ウェイトレスである彼女の母は自分の半生を書くことを望んでいたが、ひとりでいくことを躊躇い、娘の彼女がついて来た。そもそも、文章のことなど興味もないことなので彼女は直ぐに横のパソコン教室に鞍替えした。その数回の出会いで彼女はぼくのことを先生と呼んだ。四月に出会い、ぼくに娘が居ることも知らないのも当然だった。いつも、午後、ぼくはそこで昼ご飯と創作のイメージ・トレーニングをしていた。
「お名前は?」
「由美です」と娘は言う。そして、誰に教えられたのか分からないようなとびっきりの笑顔を見せた。誰に?
時間が経ち、料理が運ばれる。
「はい、由美ちゃん、こちら、ハンバーグになります。熱いから気をつけてね。先生は、もう少し待って」
ハンバーグになる? ピノキオはおじいさんの愛に包まれ人間になった。人間のこころを持つようになった。いや、高慢になったピノキオの気持ちが彼の鼻を伸ばせることにならせた。努力して手にまめを作り素振りを繰り返した結果、彼をホームラン・バッターにならせた。
「おいしそう」由美が言う。
「先生、なにかありました。注文と違うとか、なにか入っていたとか?」
「いいえ、別に」
「変な先生」彼女は首を傾げ背中を見せて新たな調理をされたものを取りに行った。
「はい、ホウレン草のソテー。もっと栄養のあるしっかりとしたものを食べた方がいいんじゃないですか?」
「そうかな。そうだ、お母さんはあれから半生を書いている?」
「原稿用紙と万年筆を買って思案中。形から入るタイプだから。先生も高価な万年筆を?」
「いや、ぼくにはキーボードがあるし、十本の指がある」
「ささくれの出来た指もある。きれいな指の男性ってセクシーですよ」
「セクシーってなに?」と、由美が訊く。
「魅力的ってこと。また、頼むものがあったら言ってくださいね。わたしが直ぐに来るから」彼女は車の保険のような言葉を残し、ほかの席に向かった。ケンは大学の図書館で借りようと思っていた本が棚にことごとくないことに気付く。あきらめて奥の自習室に向かうと、それらがうずたかく並べられているのが見えた。でも、その席には誰もいなかった。後ろ髪をひかれるように、うらめしく眺めているとそこにある女性があらわれた。
「どうかしました?」
「これ」と、ケンはその本たちを指差す。
「これ?」
「全部、読めるの?」
「意気込みとしては。でも、実際には読めない」
「数冊、ぼくが借りたいと思っていたのが含まれている」
「どうぞ」
「ありがとう。読み終わって、メモを取ったら直ぐに返す。名前は?」
「マーガレット」
「ぼくは、ケン」
一先ずは、名前だけは手に入れた。名前の数文字こそがそのひとを表すのだ。
「パパ、プリン食べてもいい?」
「こちら、プリンになります」ぼくは独り言のようにつぶやいた。
「え? なに、パパ」
ぼくは児玉さんを探す。彼女の社交的な性格がウェイトレスを生き甲斐と感じさせるまでにならせた。