爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(2)

2012年05月22日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(2)

 公園から戻り、喉の渇きを潤して、机に向かう。

「パパは仕事をするから、絵本を読むか、ディズニーの映画でも見ていて」
「絵本は寝る前にパパに読んでもらう。あれって、ほかのひとに読んでもらうものだよ」そう娘は自分の考えを主張し、テレビのリモコンを操作する。まあとにかく、午前の時間を有効に使う必要がある。遊びつかれたのか、ジョンもぼくの足元に寝そべって、この地上での物事の関心をなくしていた。

 マーガレットも海岸からのんびりと戻り、りんごのジュースを飲み、鏡の前で風に吹かれた髪の毛を梳かして、また外にでた。マーケットできょうの食材を買うためだ。これは避暑地でのいつもの日程だった。その日程を狂わされたのは何日か前の話だった。

 朝から開いているバーで近所の職人さんたちはコーヒーを飲み、パンをつまみ一日に備えていた。これから始まるという予感が感じられる雰囲気である。そこに一日を終えたという表情の男性がいた。マーガレットもコーヒーを飲み、その男性の様子を目の端で失礼にならないように窺った。服装はいささか乱れ、袖口は絵の具らしきもので汚れていた。目は充血し、どこか体内に興奮が貯蔵されその捌け口を探しているようだった。そして、皆とは違い、目の前のグラスに入っているのは赤ワインのようだった。

 ひとびとは足早に自分の職場という持分に向かい、暇を持て余すマーガレットとその男性と店員だけがそこに残る形になった。
「パパ、映画が急に映らなくなった。なおして」
 ぼくは思考をお預けにして、その場に向かった。何回か電源を入れなおすと、また再びアニメのキャラクターが歌い出した。
「お嬢さん、お名前は?」
「マーガレット」
「ぼくは、レナード。暑い場所を避け、ここで絵のモチーフを探しています。一日中、部屋にこもって描いていたものだから話し相手が欲しくなって、眠らずにこんな場所にいる。しかし、これからみんな働くんだよね」
 マーガレットは頷く。興味が湧くが、画家に対してどのような質問があり、相応しい返答というものがどういうものなのかマーガレットには見当がつかなかった。
「どんな絵を?」
「いまは静物を描いている。ここの名産のりんご」
 マーガレットもそれを搾ったものを毎朝飲むことにしている。それについて更に言葉を加えたいが何も思い浮かばなかった。

「パパ、ココアが飲みたい」
 ぼくは席を立ち、冷蔵庫から牛乳を取り出す。
「由美、学校ではもうちょっと自分のことを我慢させることを学んでいるだろう? パパは、大切な仕事の最中だから」
「分かった。でも、ここ学校じゃないよ。うちだよ。それに、ママがたくさん稼いでくれるから」ぼくはカップを由美の前に差し出す。「お昼、なに食べるの?」
「パパは、休憩のときに近くのファミリー・レストランに行くから、由美もいっしょにそこに行こう」
「お腹すいた」
「もうちょっと待ってね」

 マーガレットはいつの間にか、静物画を描くことに飽きてきた画家の絵のモデルにならないかと頼まれている。その場所に行くのが恐いので自分の家で描くことを了承してくれるのならという提案を出し、簡単にレナードはそれをのんだ。
「2つ描いて、ひとつわたしにください」

「じゃあ、違った服装と髪形をしてもらうことになる」レナードは最後のグラスを飲み干し、約束の握手をしてその場を離れようとする。マーガレットは自分の家の住所を書き、そのメモを手渡す。そして、温くなったコーヒーを飲んで、マーケットに向かった。写真がまだ一般的になる前のことだった。自分の姿を半永久的にとどめておくのにそれは効果的な申し出であった。その受諾により、マーガレットの若さは残る。まだ、顔は顔として存在するピカソとその後継者の出現の前の時代だった。

「パパ、映画終わったよ」
「午後に宿題をするから、その準備のものをランドセルから出しておいて」
 午前中、水沼さんは「ランドセルの語源て知ってます?」と質問した。「いいえ」とぼくが答えると、「明日までの宿題です」と笑って言った。その宿題をぼくは思い出していた。「語源? カステラ。南蛮」とひとりごとを言いながらぼくはマーガレットの買い物に付き合っている。ぶら提げたカゴには新鮮な野菜が顔をのぞかせている。しかし、昨日とは違い、買い物に身が入らない。マーガレットは自分のクローゼットのなかのことを考え、自分の髪型の変化なるものを思案していた。ふと、電車のなかで化粧をしている女性のことをぼくは考えている。ぼくが通勤をしていた時代にも多く見かけた。男性が車内で髭を剃り、アフターシェーブローションを擦り込んでいる姿をぼくは見かけたことがなかった。由美もいずれするのだろうか?

 マーガレットはある店の窓ガラスに自分の肢体を反射させ、その様子を眺めた。自分が誰かの視線を一心に受け、それがキャンバスに乗り移り、収められるという希望に胸がときめいていた。大学の同級生のケンはそういう視線を自分に向けてきたことがあるのだろうかと、その瞳を通しての思いというものをマーガレットは比較していた。

壊れゆくブレイン(65)

2012年05月22日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(65)

 ぼくは職場に戻る。同僚はもう図面に手をかけはじめている。ぼくが部屋に入った様子が分かったのか、こちらも見ずに話しかけてきた。
「きれいなひとでしたね?」
「誰が?」
「誰がって、若い奥さんのほうですよ」彼は当然というような表情をして、はじめてこちらを向いた。ぼくは即答せずにコーヒーのカップを黒い液体で満たした。残っている分を彼のそばまで持っていき、彼のカップにも注いだ。「知り合いだったんですか? 以前から」
「ああ、知ってた。前の妻と幼馴染みだったからね」
「すいません」

「いや、謝ることないよ」彼の予測は当たっていた。ぼくらにはそれ以上の関係があったのだ。
「でも、そういう繋がりって、まだ生きてるんですね?」

 ぼくはそのことについてしばし考える。裕紀がのこした遺産というものがあるとしたら、いくつかの人間関係の源流としての意味合いがあるのかもしれない。だが、ぼくとゆり江の関係は、もしかしたら、裕紀にはなにも負っていないのかもしれない。ゆり江は好きだったお姉さんをふった男性を許せなかった。それによってぼくに近付く。だが、ぼくにとってそのことは関係がなかった。関係がないというのは表現として適切ではない。ぼくのこころが進みゆく動機としては影響がなかった。ぼくはその可愛らしい女性のことをただ好きになったのだ。また雪代が入り込まない女性関係というもうひとつの枠組みを必要としていたのだろう。それぐらい、雪代というのはぼくを根底から決定してしまった女性だった。あとは、亜流なのだ。すべてが。

 だからといって亜流が魅力をもっていないわけでもない。美しさもある。その美化された思い出をぼくは人生の道中でいくつも拾い、それを長年大事にあたためてきた。その彼女のお願いであれば、ぼくは望んで引き受けるべく待ち構えるのだった。

「前の妻がいなくなっても、ぼくらだけの接木したような関係もあるんだろうね」
「そうですよね」という頼りない返答を彼はした。それは仕事に集中しているときの彼の癖だった。だからそれ以降、ぼくも口をつぐみ自分の仕事に手をつけはじめた。しかし、横の女性はいままでの会話に関心をもってしまったようで、その人間関係の支流のような話を自分の友だちのエピソードに変えて話しはじめた。

 その友人は離婚した。だが、どういう成り行きだか分からないが、元の夫の母とそれからも親しく交友をつづけ、旅行に行ったり、ちかくに食べ歩いたりするときは必ずその義理の母と行動するそうである。家の電話にかけて元夫が出て自分の母にそれを取り次ぐ。夫婦であったふたりはそこで知らない者同士のように世間話をする。そもそも、自分たちには熱い関係が不向きだったのだと悟るように。
「そういうひといます? 近藤さんにも」自分の話に飽きたのか彼女は最後をそう締めくくった。
「ぼくも、東京に出張に行くと、彼女の叔母に会いに行く。だけど、それは互いの傷を嘗めあうような具合だね。ふたりとも遭難して無人島にたどりついてしまった見知らぬふたりのような表情と戸惑いを浮かべて」
「まだ、愛してる?」
「職場に似合わない言葉だよ。ただ、引き出しの探し物が見つからないだけかも」ぼくは実際にはさみを探していた。「鋏、ある?」

「使っていいですよ、これ」彼女は自分のお腹の部分の引き出しから愛用のものを出した。ぼくは借りてものを切り、10秒後にはもう返していた。
「近藤さん、ぼくが帰ったあとに、なんか家の要望出ましたか?」同僚がまた声をかけた。ぼくは、自分の仕事を一切していないが、またこれも仕事の一部だとあきらめている。
「とくには、なにも」
「何通りか、作りますか?」
「そうしてもらうと、喜ぶと思うよ」

「そうします」彼はまた口を閉じ、指を動かしている。ぼくもそのような業務に憧れをもった過去があったが、実際はたくさんのひとと会い、たまに感謝の言葉をもらい、失望や非難の声をきいた。その狭間にいることが自分の役目のようだった。だが、ゆり江や家族からがっかりしたことが分かるそのような言葉をもらいたくないのは当然だった。しかし、同僚の頑張りも前面に出ることはなく、その甘い言葉という利益はぼくが存分に受ける立場にあった。

 その一日も終わりに近づく。みな、その分だけの疲労が蓄積された顔をしながらも、これからの週末を楽しむべく余力があった。若い女性社員は喜びというものがみなぎっている表情で会社をあとにした。ぼくは誰もいなくなった室内の照明のスイッチを全部消し、そこを出た。

 新しい家ができる。そこに住み、歴史を築き上げることができる人々。裕紀にはそのような楽しみはもうない。ゆり江やその子どもにはまだたくさんの未来があった。そのための新しい家の完成を望んで暮らすこと。ぼくはその力を頼ることになっている同僚の週末のことも考えてみるが、彼が普段なにをして過ごしているのかほとんどしらないことに気付く。ただ、数時間会社で顔を合わせ、時折り冗談を交わし、たまに昼ごはんをいっしょに食べたりした。そういうひとが多くいることを知る。それに加え、ぼくに多大な影響を与え続けるひとびとも少なからずいた。ゆり江はどちらの範疇に属する人間なのか考えてみる。もちろん、後者だ。ぼくの若いころの思い出のいくつかに彼女は入り込む。少なくない数に。そして、裕紀を忘れるためにぼくは彼女の身体にある日おぼれた。それは代用だったとしても、きちんと血液が流れ、意思をもった身体だった。たまに付き合う程度の人間とは根底的に違う。その彼女の今後の幸福のことを考えているうちに家に着いた。