夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(2)
公園から戻り、喉の渇きを潤して、机に向かう。
「パパは仕事をするから、絵本を読むか、ディズニーの映画でも見ていて」
「絵本は寝る前にパパに読んでもらう。あれって、ほかのひとに読んでもらうものだよ」そう娘は自分の考えを主張し、テレビのリモコンを操作する。まあとにかく、午前の時間を有効に使う必要がある。遊びつかれたのか、ジョンもぼくの足元に寝そべって、この地上での物事の関心をなくしていた。
マーガレットも海岸からのんびりと戻り、りんごのジュースを飲み、鏡の前で風に吹かれた髪の毛を梳かして、また外にでた。マーケットできょうの食材を買うためだ。これは避暑地でのいつもの日程だった。その日程を狂わされたのは何日か前の話だった。
朝から開いているバーで近所の職人さんたちはコーヒーを飲み、パンをつまみ一日に備えていた。これから始まるという予感が感じられる雰囲気である。そこに一日を終えたという表情の男性がいた。マーガレットもコーヒーを飲み、その男性の様子を目の端で失礼にならないように窺った。服装はいささか乱れ、袖口は絵の具らしきもので汚れていた。目は充血し、どこか体内に興奮が貯蔵されその捌け口を探しているようだった。そして、皆とは違い、目の前のグラスに入っているのは赤ワインのようだった。
ひとびとは足早に自分の職場という持分に向かい、暇を持て余すマーガレットとその男性と店員だけがそこに残る形になった。
「パパ、映画が急に映らなくなった。なおして」
ぼくは思考をお預けにして、その場に向かった。何回か電源を入れなおすと、また再びアニメのキャラクターが歌い出した。
「お嬢さん、お名前は?」
「マーガレット」
「ぼくは、レナード。暑い場所を避け、ここで絵のモチーフを探しています。一日中、部屋にこもって描いていたものだから話し相手が欲しくなって、眠らずにこんな場所にいる。しかし、これからみんな働くんだよね」
マーガレットは頷く。興味が湧くが、画家に対してどのような質問があり、相応しい返答というものがどういうものなのかマーガレットには見当がつかなかった。
「どんな絵を?」
「いまは静物を描いている。ここの名産のりんご」
マーガレットもそれを搾ったものを毎朝飲むことにしている。それについて更に言葉を加えたいが何も思い浮かばなかった。
「パパ、ココアが飲みたい」
ぼくは席を立ち、冷蔵庫から牛乳を取り出す。
「由美、学校ではもうちょっと自分のことを我慢させることを学んでいるだろう? パパは、大切な仕事の最中だから」
「分かった。でも、ここ学校じゃないよ。うちだよ。それに、ママがたくさん稼いでくれるから」ぼくはカップを由美の前に差し出す。「お昼、なに食べるの?」
「パパは、休憩のときに近くのファミリー・レストランに行くから、由美もいっしょにそこに行こう」
「お腹すいた」
「もうちょっと待ってね」
マーガレットはいつの間にか、静物画を描くことに飽きてきた画家の絵のモデルにならないかと頼まれている。その場所に行くのが恐いので自分の家で描くことを了承してくれるのならという提案を出し、簡単にレナードはそれをのんだ。
「2つ描いて、ひとつわたしにください」
「じゃあ、違った服装と髪形をしてもらうことになる」レナードは最後のグラスを飲み干し、約束の握手をしてその場を離れようとする。マーガレットは自分の家の住所を書き、そのメモを手渡す。そして、温くなったコーヒーを飲んで、マーケットに向かった。写真がまだ一般的になる前のことだった。自分の姿を半永久的にとどめておくのにそれは効果的な申し出であった。その受諾により、マーガレットの若さは残る。まだ、顔は顔として存在するピカソとその後継者の出現の前の時代だった。
「パパ、映画終わったよ」
「午後に宿題をするから、その準備のものをランドセルから出しておいて」
午前中、水沼さんは「ランドセルの語源て知ってます?」と質問した。「いいえ」とぼくが答えると、「明日までの宿題です」と笑って言った。その宿題をぼくは思い出していた。「語源? カステラ。南蛮」とひとりごとを言いながらぼくはマーガレットの買い物に付き合っている。ぶら提げたカゴには新鮮な野菜が顔をのぞかせている。しかし、昨日とは違い、買い物に身が入らない。マーガレットは自分のクローゼットのなかのことを考え、自分の髪型の変化なるものを思案していた。ふと、電車のなかで化粧をしている女性のことをぼくは考えている。ぼくが通勤をしていた時代にも多く見かけた。男性が車内で髭を剃り、アフターシェーブローションを擦り込んでいる姿をぼくは見かけたことがなかった。由美もいずれするのだろうか?
マーガレットはある店の窓ガラスに自分の肢体を反射させ、その様子を眺めた。自分が誰かの視線を一心に受け、それがキャンバスに乗り移り、収められるという希望に胸がときめいていた。大学の同級生のケンはそういう視線を自分に向けてきたことがあるのだろうかと、その瞳を通しての思いというものをマーガレットは比較していた。
公園から戻り、喉の渇きを潤して、机に向かう。
「パパは仕事をするから、絵本を読むか、ディズニーの映画でも見ていて」
「絵本は寝る前にパパに読んでもらう。あれって、ほかのひとに読んでもらうものだよ」そう娘は自分の考えを主張し、テレビのリモコンを操作する。まあとにかく、午前の時間を有効に使う必要がある。遊びつかれたのか、ジョンもぼくの足元に寝そべって、この地上での物事の関心をなくしていた。
マーガレットも海岸からのんびりと戻り、りんごのジュースを飲み、鏡の前で風に吹かれた髪の毛を梳かして、また外にでた。マーケットできょうの食材を買うためだ。これは避暑地でのいつもの日程だった。その日程を狂わされたのは何日か前の話だった。
朝から開いているバーで近所の職人さんたちはコーヒーを飲み、パンをつまみ一日に備えていた。これから始まるという予感が感じられる雰囲気である。そこに一日を終えたという表情の男性がいた。マーガレットもコーヒーを飲み、その男性の様子を目の端で失礼にならないように窺った。服装はいささか乱れ、袖口は絵の具らしきもので汚れていた。目は充血し、どこか体内に興奮が貯蔵されその捌け口を探しているようだった。そして、皆とは違い、目の前のグラスに入っているのは赤ワインのようだった。
ひとびとは足早に自分の職場という持分に向かい、暇を持て余すマーガレットとその男性と店員だけがそこに残る形になった。
「パパ、映画が急に映らなくなった。なおして」
ぼくは思考をお預けにして、その場に向かった。何回か電源を入れなおすと、また再びアニメのキャラクターが歌い出した。
「お嬢さん、お名前は?」
「マーガレット」
「ぼくは、レナード。暑い場所を避け、ここで絵のモチーフを探しています。一日中、部屋にこもって描いていたものだから話し相手が欲しくなって、眠らずにこんな場所にいる。しかし、これからみんな働くんだよね」
マーガレットは頷く。興味が湧くが、画家に対してどのような質問があり、相応しい返答というものがどういうものなのかマーガレットには見当がつかなかった。
「どんな絵を?」
「いまは静物を描いている。ここの名産のりんご」
マーガレットもそれを搾ったものを毎朝飲むことにしている。それについて更に言葉を加えたいが何も思い浮かばなかった。
「パパ、ココアが飲みたい」
ぼくは席を立ち、冷蔵庫から牛乳を取り出す。
「由美、学校ではもうちょっと自分のことを我慢させることを学んでいるだろう? パパは、大切な仕事の最中だから」
「分かった。でも、ここ学校じゃないよ。うちだよ。それに、ママがたくさん稼いでくれるから」ぼくはカップを由美の前に差し出す。「お昼、なに食べるの?」
「パパは、休憩のときに近くのファミリー・レストランに行くから、由美もいっしょにそこに行こう」
「お腹すいた」
「もうちょっと待ってね」
マーガレットはいつの間にか、静物画を描くことに飽きてきた画家の絵のモデルにならないかと頼まれている。その場所に行くのが恐いので自分の家で描くことを了承してくれるのならという提案を出し、簡単にレナードはそれをのんだ。
「2つ描いて、ひとつわたしにください」
「じゃあ、違った服装と髪形をしてもらうことになる」レナードは最後のグラスを飲み干し、約束の握手をしてその場を離れようとする。マーガレットは自分の家の住所を書き、そのメモを手渡す。そして、温くなったコーヒーを飲んで、マーケットに向かった。写真がまだ一般的になる前のことだった。自分の姿を半永久的にとどめておくのにそれは効果的な申し出であった。その受諾により、マーガレットの若さは残る。まだ、顔は顔として存在するピカソとその後継者の出現の前の時代だった。
「パパ、映画終わったよ」
「午後に宿題をするから、その準備のものをランドセルから出しておいて」
午前中、水沼さんは「ランドセルの語源て知ってます?」と質問した。「いいえ」とぼくが答えると、「明日までの宿題です」と笑って言った。その宿題をぼくは思い出していた。「語源? カステラ。南蛮」とひとりごとを言いながらぼくはマーガレットの買い物に付き合っている。ぶら提げたカゴには新鮮な野菜が顔をのぞかせている。しかし、昨日とは違い、買い物に身が入らない。マーガレットは自分のクローゼットのなかのことを考え、自分の髪型の変化なるものを思案していた。ふと、電車のなかで化粧をしている女性のことをぼくは考えている。ぼくが通勤をしていた時代にも多く見かけた。男性が車内で髭を剃り、アフターシェーブローションを擦り込んでいる姿をぼくは見かけたことがなかった。由美もいずれするのだろうか?
マーガレットはある店の窓ガラスに自分の肢体を反射させ、その様子を眺めた。自分が誰かの視線を一心に受け、それがキャンバスに乗り移り、収められるという希望に胸がときめいていた。大学の同級生のケンはそういう視線を自分に向けてきたことがあるのだろうかと、その瞳を通しての思いというものをマーガレットは比較していた。