爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(64)

2012年05月16日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(64)

 保留にされた電話を取ると、聞き覚えのある声が聞こえた。

「近藤さんは、こういう仕事も扱っているのですかね。うちの両親が家を建て直すことになったの。それで、頼りになるひとを探している」その声はゆり江のものだった。
「そういう部署もあるよ。新築か、リフォームにするか。それに見合った設計図を作って、納得いただいて、ゴーサインを出す。その間に住む家も探してあげられる」
「家は、わたしのところに数ヶ月住めるからいい」
「説明にいくよ。というか大体のプランを訊きに行く」
「ひろし君が?」
「別のものが担当するけど、ぼくが行ってもいい」
「頼りになる」

 ぼくは約束の日時にそこに向かう。ぼくは話を訊き、概要を説明し、実際の実務を担当するものを同行した。部屋にはゆり江の両親と、もちろんゆり江がいた。土地があり、いささか古びた家があった。いずれ、ゆり江もそこに住むことになるだろうと言った。横には、子どもが寝ていた。一時間弱で話はトントン拍子に進み、次回に希望の部屋と間取りを作って、もう一度説明に来る。そのために同僚は先に帰った。早速、戻って仕事に取り掛かる。

「こういう仕事もするんだ?」ゆり江は、興味深そうにたずねた。ぼくらは、その家から離れ、子どもの面倒を見る両親を置き、近くの喫茶店で話していた。

「社長が亡くなって、方向が定まらなくなった。段々と何でもする会社に変更したんだ」
「そう、あの社長が」彼女は悲しそうな表情をする。ぼくは途切れ途切れに20年以上もその表情を見ることになった。「裕紀さんの家族は、相変わらず?」
「ぼくは蚊帳の外。居なかった人間」
「まだ、思い出す?」
「たまにね」ぼくは裕紀の思い出を語れるひとをいまだに探していた。「そうだ、うちの娘にあったんだってね。なんかの遠足とかで」
「ああ、そうだ。会った。可愛い子だった」
「君のことも広美はそう言ってた」
「わたし?」

「そう、いつまでも可愛さのあるひとだって」
「お父さんは言わないのに?」彼女は微笑む。その笑顔もぼくは20数年間忘れることができなかった。
「言えなかった事情がたくさんある」
「責めてないよ」しかし、表情は無いに等しかった。「お父さんの役目はなれた?」
「お父さんらしいことは、なにひとつしてない。ただ、いっしょに暮らすたまに失敗をするお兄さん」
「それで良かったんでしょう?」
「良かった」
「奥さんは優しい?」

「まあ望める程度には優しいよ。ぼくをある時期、救ってくれたし。若いころのぼくのことも知ってるし」
「わたしも知ってる。でも、今日はありがとう。うちの両親、なんだか猜疑心が強くなって、誰かを信頼することを忘れてたみたいだけど、きょうは違ってた」
「そういう安心感のために、ぼくは給料をもらってる」
「わたしもむかし、その安心感にしがみついたっけ」
「いや。裕紀が亡くなったとき、ゆり江ちゃんにも助けてもらった」
「わたしは、裕紀ちゃんを捨てた男の人生を狂わせるはずだったのに、結局は、いまここで感謝されている。この身体も提供して」彼女は笑う。「なんだか下品だね」
「いや、その通り。ぼくは生きている身体や息遣いが必要だった。そこに君がいた」

「あれから何年?」
「7、8年かな」
「家が建つまでまたわたしと関わりができちゃったね」
「嬉しいよ」
「ほんと?」
「うん、最高の仕事にする。君も子どもも将来あそこに住むんだろう?」
「うん、ずっと住む。あの最初のアパート覚えてる?」
「覚えてる」ゆり江が働き出して最初に借りたアパート。その窓から見えた風景をぼくは手に取るように覚えている。彼女の生活がそこにあり、ぼくもそこで時間を過ごした。しかし、ぼくらには確かな未来がなかった。ぼくには雪代との土台のしっかりとした生活が別にあった。そのことに関してゆり江は恨むがましいことを一切口にしなかった。それゆえにぼくはいまだに良心の呵責を感じ、またそれゆえに甘美な思い出ともなっていた。過去の失敗や行き止まりは美しいものであり続けるのだ。
「たまに、あそこの夢を見る。わたしはあの年齢のままなんだけど、子どもがいて、ふたり心細く暮らしている。誰かの帰りをずっと待っているの。童話のなかの主人公のように。目を覚ますと、もちろん夫も子どももいて、わたしもおばさんになったけど、そのことで安心する」

「ぼくの責任みたいだね」
「全然ちがうよ。あの頃の思い出がなかったら、わたしの人生、潤いがなかったなって思うもん。ひろし君の一部もまだあそこにあるのかなと思ったり。でも、本当は、雪代さんのもので、思い出の大半は裕紀ちゃんが占有しているけど」
「でも、ごめんね」
「わたしはたまにこうして確証させる必要があるみたい。あの男性はちょっとでもわたしのことを好きでいてくれたんだろうかなって」

「ちょっとどころじゃない。だいぶ」
「ありがとう。でも、誰にも話せない。近藤ひろしはわたしのことが好きでした、とか」彼女は壁にかかっている時計を見た。「そろそろ、両親も子どもの面倒を億劫がる。あの子やんちゃだから、手に負えない。良いうち作ってね」
「そうするよ」
「そこを通るたびにひろし君はわたしのことを思い出すんだから」

「家がなくったって、思い出すよ」それは本当のことでもあり、また彼女は常に先頭にならないことも知っていた。ぼくは雪代がもっていないものを彼女に見つけ、裕紀を忘れるためにその肉体を利用した。それは代用でもあり、ごまかしでもあった。彼女個人の存在だけを愛してこなかったのかもしれない。しかし、言い訳だがぼくの前に雪代も裕紀もいない世界というものが存在するならば、ぼくはもう少し違った性格を身に着け、その伴侶としてはゆり江がいちばん相応しいのだとも思っていた。
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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(1)

2012年05月16日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(1)

 今日も暑くなりそうな予感がする朝のひととき。テーブルの横にコーヒーのカップを置き、10本の指をコンピューターのキーボードに乗せている。ある一定の年齢を超えてからの独学なので、その10本の指を全部うまく連携して使いこなすこともできない。しかし、スピードだけが命の問題でもないのだ。空想の物語をその指を通して保存し、世界にアプローチするのだ。ナイス・ショット。保存の失敗だけが、時間の後戻りとなる。トリプル・ボギー。

 主人公であるマーガレットは海辺を歩いている。同じような初夏の朝。マーガレットのワンピースは海のうえを通り抜けた風の力で揺れている。その揺れ方に規則性はない。潮風を感じ、それが同時に運ぶ海の匂いをマーガレットは喜ばしいものと感じている。

「朝ごはん、納豆でいい?」妻がキッチンの方から叫ぶ。マーガレットの運んでくれた潮風の匂いは庶民の朝の匂いに変貌する。
「それで、いいよ」
 マーガレットは靴を脱ぎ、乾いた砂の感触を足の裏に感じていた。指と指の間に砂の粒子が入り込み、また、ひかりの粒子がマーガレットの青い目を攻撃しようとしていた。
「パパ、抱っこして」今日から夏休みになった娘が突然、膝のうえに乗る。その様子を追いかけるように愛犬のジョンがぼくの肩に前足を乗せる。

「行儀悪いな、ジョン」上書き保存。マーガレットは砂の上で足を停めた。
「みんな、ご飯だよ。はい、ジョンも」ジョンのために赤い皿が用意され、床に置かれた。マーガレットの真紅のスカーフが風で飛ばされそうになっているが、細いマーガレットの指はその前に首元を押さえつけてそれを事前に避けた。

「はじめての夏休み。遊んで、宿題して、お昼寝もして」妻は娘に言い聞かせる。自分は仕事のため、化粧をして外出用の格好をしていた。「パパの言うことをよく聞いてね。ね?」最後のねは、ぼくに向かって言ったらしい。妻は外で仕事をして、夫は家で空想の旅をつづける。マーガレットは首元を抑え停まったままだ。

「朝は公園。ジョンの散歩。ご飯を食べて、お昼寝」と由美は言う。由美は娘の名前だ。
「いつ、お勉強?」
「お昼寝がすんでから」
「パパに教えてもらってね、分からないことがあったら」そう言って、妻はバックを掴み、ハイヒールを履き、家を出て行った。いつもなら娘の学校に行く時間に合わせいっしょに出掛けたが、その用がないため、少しだけ早く家を出た。早朝のオフィス。
「ジョンの散歩」その言葉が分かるかのように犬は耳を傾けてこちらを見た。

「ご飯を食べ終わった皿を洗ってから」ぼくは皿を重ね、台所に運ぶ。水はぬるく、流していると次第に冷たくなった。マーガレットの手の先に海水がある。それを手の平ですくい、指からこぼれるままにした。足元には流木があり、乾かない手でそれを拾い上げ、遠くに投げた。

「ジョン、ひろって」娘がボールを投げ、ジョンはそれに向かって走って行った。
「洗い終わったから散歩に行こう」娘は犬の首にリードをつけている。靴を履き、玄関を開けた。ぼくはカギをしめ後を追った。
「おはよう、由美ちゃん」となりの女子高生は娘に声をかけ、犬の頭を撫でた。そして、ぼくの姿を見ると、ていねいに「おはようございます」と言って頭を下げた。
「きょうも水泳?」
「はい。これから行って来ます」スイミングの得意な子で、この前も何かの大会で賞を取ったということだ。
「疲れたら、お昼寝するんだよ」と、娘はその子に言った。彼女は日に焼けた頬を見せ笑った。

「じゃあ、頑張って」とぼくは犬の後を追いながら、その子に言う。彼女は玄関から自転車を出し、それに乗って反対側に向かった。スカートは揺れ、見る見るうちにその後ろ姿は小さくなった。

 マーガレットは思案をしている。つい先日、ふたりの男性に恋の告白をされた。ふたりとも魅力的で彼女は選びかねている。
「パパ、ひろって」由美は犬の後ろを指差している。ジョンは生きていた。生きるということが摂取と排泄の繰り返しならば、たしかに生きていた。「公園で遊んでいい?」

「いいよ」信号を渡ると、小さな公園があった。小さいながらも季節によって色とりどりの花々が咲き、老若男女がその場に足を運んだ。娘は先ずは滑り台の階段を登り、うえから手を振った。ぼくはベンチに座り、同じように手を振り替えした。ジョンはその横で疲れたのか寝そべっていた。

「こんにちは、由美ちゃん元気ね」と近所の主婦がぼくに声をかける。彼女も自分の息子と公園に来ていた。「お仕事、はかどってますか?」
「まあまあです」水沼さんはぼくの仕事を知っていた。由美が彼女の息子にぼくの仕事を告げ、それを彼女に話したらしい。その前は、無職の男性でも見るような嫌な視線を送ってきたが、ある日から変わった。輝ける芸術家の夫。「いまも構想中です」

 そのひとの息子と由美はなにかの拍子に怒鳴り合っていた。順番かなにかの問題だろう。彼女は息子の名を呼び、「男の子なんだから譲ってあげなさい」と言った。それで一先ず収拾はついた。

 マーガレットは避暑の前に自分の母親と言い争っていた。大学の年度が変わる前に男性から手紙をもらった。将来が約束されている家柄も良い男性からの。その手紙に返事を書かない。また郵便で手紙が届いたが、封もあけずに自分のテーブルの上に置いたままだった。

「失礼になるから、近況でもなんでも良いから、とにかく返事を出しなさい」
「わたしの人生だから」そういうことをマーガレットは母に言う。
「あなたの幸せは、わたしの幸せでもある」と母はマーガレットに言う。そして、冷たい言葉の応酬ということになった。
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