壊れゆくブレイン(64)
保留にされた電話を取ると、聞き覚えのある声が聞こえた。
「近藤さんは、こういう仕事も扱っているのですかね。うちの両親が家を建て直すことになったの。それで、頼りになるひとを探している」その声はゆり江のものだった。
「そういう部署もあるよ。新築か、リフォームにするか。それに見合った設計図を作って、納得いただいて、ゴーサインを出す。その間に住む家も探してあげられる」
「家は、わたしのところに数ヶ月住めるからいい」
「説明にいくよ。というか大体のプランを訊きに行く」
「ひろし君が?」
「別のものが担当するけど、ぼくが行ってもいい」
「頼りになる」
ぼくは約束の日時にそこに向かう。ぼくは話を訊き、概要を説明し、実際の実務を担当するものを同行した。部屋にはゆり江の両親と、もちろんゆり江がいた。土地があり、いささか古びた家があった。いずれ、ゆり江もそこに住むことになるだろうと言った。横には、子どもが寝ていた。一時間弱で話はトントン拍子に進み、次回に希望の部屋と間取りを作って、もう一度説明に来る。そのために同僚は先に帰った。早速、戻って仕事に取り掛かる。
「こういう仕事もするんだ?」ゆり江は、興味深そうにたずねた。ぼくらは、その家から離れ、子どもの面倒を見る両親を置き、近くの喫茶店で話していた。
「社長が亡くなって、方向が定まらなくなった。段々と何でもする会社に変更したんだ」
「そう、あの社長が」彼女は悲しそうな表情をする。ぼくは途切れ途切れに20年以上もその表情を見ることになった。「裕紀さんの家族は、相変わらず?」
「ぼくは蚊帳の外。居なかった人間」
「まだ、思い出す?」
「たまにね」ぼくは裕紀の思い出を語れるひとをいまだに探していた。「そうだ、うちの娘にあったんだってね。なんかの遠足とかで」
「ああ、そうだ。会った。可愛い子だった」
「君のことも広美はそう言ってた」
「わたし?」
「そう、いつまでも可愛さのあるひとだって」
「お父さんは言わないのに?」彼女は微笑む。その笑顔もぼくは20数年間忘れることができなかった。
「言えなかった事情がたくさんある」
「責めてないよ」しかし、表情は無いに等しかった。「お父さんの役目はなれた?」
「お父さんらしいことは、なにひとつしてない。ただ、いっしょに暮らすたまに失敗をするお兄さん」
「それで良かったんでしょう?」
「良かった」
「奥さんは優しい?」
「まあ望める程度には優しいよ。ぼくをある時期、救ってくれたし。若いころのぼくのことも知ってるし」
「わたしも知ってる。でも、今日はありがとう。うちの両親、なんだか猜疑心が強くなって、誰かを信頼することを忘れてたみたいだけど、きょうは違ってた」
「そういう安心感のために、ぼくは給料をもらってる」
「わたしもむかし、その安心感にしがみついたっけ」
「いや。裕紀が亡くなったとき、ゆり江ちゃんにも助けてもらった」
「わたしは、裕紀ちゃんを捨てた男の人生を狂わせるはずだったのに、結局は、いまここで感謝されている。この身体も提供して」彼女は笑う。「なんだか下品だね」
「いや、その通り。ぼくは生きている身体や息遣いが必要だった。そこに君がいた」
「あれから何年?」
「7、8年かな」
「家が建つまでまたわたしと関わりができちゃったね」
「嬉しいよ」
「ほんと?」
「うん、最高の仕事にする。君も子どもも将来あそこに住むんだろう?」
「うん、ずっと住む。あの最初のアパート覚えてる?」
「覚えてる」ゆり江が働き出して最初に借りたアパート。その窓から見えた風景をぼくは手に取るように覚えている。彼女の生活がそこにあり、ぼくもそこで時間を過ごした。しかし、ぼくらには確かな未来がなかった。ぼくには雪代との土台のしっかりとした生活が別にあった。そのことに関してゆり江は恨むがましいことを一切口にしなかった。それゆえにぼくはいまだに良心の呵責を感じ、またそれゆえに甘美な思い出ともなっていた。過去の失敗や行き止まりは美しいものであり続けるのだ。
「たまに、あそこの夢を見る。わたしはあの年齢のままなんだけど、子どもがいて、ふたり心細く暮らしている。誰かの帰りをずっと待っているの。童話のなかの主人公のように。目を覚ますと、もちろん夫も子どももいて、わたしもおばさんになったけど、そのことで安心する」
「ぼくの責任みたいだね」
「全然ちがうよ。あの頃の思い出がなかったら、わたしの人生、潤いがなかったなって思うもん。ひろし君の一部もまだあそこにあるのかなと思ったり。でも、本当は、雪代さんのもので、思い出の大半は裕紀ちゃんが占有しているけど」
「でも、ごめんね」
「わたしはたまにこうして確証させる必要があるみたい。あの男性はちょっとでもわたしのことを好きでいてくれたんだろうかなって」
「ちょっとどころじゃない。だいぶ」
「ありがとう。でも、誰にも話せない。近藤ひろしはわたしのことが好きでした、とか」彼女は壁にかかっている時計を見た。「そろそろ、両親も子どもの面倒を億劫がる。あの子やんちゃだから、手に負えない。良いうち作ってね」
「そうするよ」
「そこを通るたびにひろし君はわたしのことを思い出すんだから」
「家がなくったって、思い出すよ」それは本当のことでもあり、また彼女は常に先頭にならないことも知っていた。ぼくは雪代がもっていないものを彼女に見つけ、裕紀を忘れるためにその肉体を利用した。それは代用でもあり、ごまかしでもあった。彼女個人の存在だけを愛してこなかったのかもしれない。しかし、言い訳だがぼくの前に雪代も裕紀もいない世界というものが存在するならば、ぼくはもう少し違った性格を身に着け、その伴侶としてはゆり江がいちばん相応しいのだとも思っていた。
保留にされた電話を取ると、聞き覚えのある声が聞こえた。
「近藤さんは、こういう仕事も扱っているのですかね。うちの両親が家を建て直すことになったの。それで、頼りになるひとを探している」その声はゆり江のものだった。
「そういう部署もあるよ。新築か、リフォームにするか。それに見合った設計図を作って、納得いただいて、ゴーサインを出す。その間に住む家も探してあげられる」
「家は、わたしのところに数ヶ月住めるからいい」
「説明にいくよ。というか大体のプランを訊きに行く」
「ひろし君が?」
「別のものが担当するけど、ぼくが行ってもいい」
「頼りになる」
ぼくは約束の日時にそこに向かう。ぼくは話を訊き、概要を説明し、実際の実務を担当するものを同行した。部屋にはゆり江の両親と、もちろんゆり江がいた。土地があり、いささか古びた家があった。いずれ、ゆり江もそこに住むことになるだろうと言った。横には、子どもが寝ていた。一時間弱で話はトントン拍子に進み、次回に希望の部屋と間取りを作って、もう一度説明に来る。そのために同僚は先に帰った。早速、戻って仕事に取り掛かる。
「こういう仕事もするんだ?」ゆり江は、興味深そうにたずねた。ぼくらは、その家から離れ、子どもの面倒を見る両親を置き、近くの喫茶店で話していた。
「社長が亡くなって、方向が定まらなくなった。段々と何でもする会社に変更したんだ」
「そう、あの社長が」彼女は悲しそうな表情をする。ぼくは途切れ途切れに20年以上もその表情を見ることになった。「裕紀さんの家族は、相変わらず?」
「ぼくは蚊帳の外。居なかった人間」
「まだ、思い出す?」
「たまにね」ぼくは裕紀の思い出を語れるひとをいまだに探していた。「そうだ、うちの娘にあったんだってね。なんかの遠足とかで」
「ああ、そうだ。会った。可愛い子だった」
「君のことも広美はそう言ってた」
「わたし?」
「そう、いつまでも可愛さのあるひとだって」
「お父さんは言わないのに?」彼女は微笑む。その笑顔もぼくは20数年間忘れることができなかった。
「言えなかった事情がたくさんある」
「責めてないよ」しかし、表情は無いに等しかった。「お父さんの役目はなれた?」
「お父さんらしいことは、なにひとつしてない。ただ、いっしょに暮らすたまに失敗をするお兄さん」
「それで良かったんでしょう?」
「良かった」
「奥さんは優しい?」
「まあ望める程度には優しいよ。ぼくをある時期、救ってくれたし。若いころのぼくのことも知ってるし」
「わたしも知ってる。でも、今日はありがとう。うちの両親、なんだか猜疑心が強くなって、誰かを信頼することを忘れてたみたいだけど、きょうは違ってた」
「そういう安心感のために、ぼくは給料をもらってる」
「わたしもむかし、その安心感にしがみついたっけ」
「いや。裕紀が亡くなったとき、ゆり江ちゃんにも助けてもらった」
「わたしは、裕紀ちゃんを捨てた男の人生を狂わせるはずだったのに、結局は、いまここで感謝されている。この身体も提供して」彼女は笑う。「なんだか下品だね」
「いや、その通り。ぼくは生きている身体や息遣いが必要だった。そこに君がいた」
「あれから何年?」
「7、8年かな」
「家が建つまでまたわたしと関わりができちゃったね」
「嬉しいよ」
「ほんと?」
「うん、最高の仕事にする。君も子どもも将来あそこに住むんだろう?」
「うん、ずっと住む。あの最初のアパート覚えてる?」
「覚えてる」ゆり江が働き出して最初に借りたアパート。その窓から見えた風景をぼくは手に取るように覚えている。彼女の生活がそこにあり、ぼくもそこで時間を過ごした。しかし、ぼくらには確かな未来がなかった。ぼくには雪代との土台のしっかりとした生活が別にあった。そのことに関してゆり江は恨むがましいことを一切口にしなかった。それゆえにぼくはいまだに良心の呵責を感じ、またそれゆえに甘美な思い出ともなっていた。過去の失敗や行き止まりは美しいものであり続けるのだ。
「たまに、あそこの夢を見る。わたしはあの年齢のままなんだけど、子どもがいて、ふたり心細く暮らしている。誰かの帰りをずっと待っているの。童話のなかの主人公のように。目を覚ますと、もちろん夫も子どももいて、わたしもおばさんになったけど、そのことで安心する」
「ぼくの責任みたいだね」
「全然ちがうよ。あの頃の思い出がなかったら、わたしの人生、潤いがなかったなって思うもん。ひろし君の一部もまだあそこにあるのかなと思ったり。でも、本当は、雪代さんのもので、思い出の大半は裕紀ちゃんが占有しているけど」
「でも、ごめんね」
「わたしはたまにこうして確証させる必要があるみたい。あの男性はちょっとでもわたしのことを好きでいてくれたんだろうかなって」
「ちょっとどころじゃない。だいぶ」
「ありがとう。でも、誰にも話せない。近藤ひろしはわたしのことが好きでした、とか」彼女は壁にかかっている時計を見た。「そろそろ、両親も子どもの面倒を億劫がる。あの子やんちゃだから、手に負えない。良いうち作ってね」
「そうするよ」
「そこを通るたびにひろし君はわたしのことを思い出すんだから」
「家がなくったって、思い出すよ」それは本当のことでもあり、また彼女は常に先頭にならないことも知っていた。ぼくは雪代がもっていないものを彼女に見つけ、裕紀を忘れるためにその肉体を利用した。それは代用でもあり、ごまかしでもあった。彼女個人の存在だけを愛してこなかったのかもしれない。しかし、言い訳だがぼくの前に雪代も裕紀もいない世界というものが存在するならば、ぼくはもう少し違った性格を身に着け、その伴侶としてはゆり江がいちばん相応しいのだとも思っていた。