壊れゆくブレイン(62)
ぼくは甥っ子のサッカーの試合を見ている。雪代がとなりにいた。彼女は陽を遮るように大きな縁のある帽子を被っていた。横で歓声をあげたり、その合間にコーヒーを飲んでいた。試合は、どこかピリッとしたものに欠け、甥のチームは格下の相手に実力を出せないでいた。
ぼくらと離れているが左側の前方には広美がいた。横には男性が同じように座っていた。ここからでは背中だけしか見えない。
「あれが、新しいボーイフレンドなんだ?」ぼくは、試合に興味を失いかけ、そう雪代に訊いた。
「そうみたい。最近、長電話している」
「前の子は?」
「さあ」
「さあって?」
「別れたんでしょう。二股とかするような器用な子じゃないので。誰かみたいに・・・」
ぼくはそれに返事をしないでいる。了承とも呼べそうな、無言の抵抗とでもいうようなタイプの沈黙だった。
「ふたりが並んでいるのを見て、似合っているなとか、なんで、とか、あれ、どういう感じなんだろうね」
「それで、あのふたりは?」
「背中だけだと、やっぱりね。評価に難しい」
「そのひとの友だちの評判もあるし。わたしは、ひろし君のお友達から評判が悪かった」
「むかしの話だよ。それに非難したのは、ぼくの行動に対してだから」
そうしていると前半が終わった。ゴールを奪えるシーンは何度かあったが、それでも両チームとも無得点のまま時間が過ぎただけだった。広美の横にいる青年が、階段をのぼってきた。最初からここにいることを知らされていたのか、こちらに軽く会釈した。それで、ぼくと雪代も同じように振舞った。
「ハンサム」雪代がただその四語をかみ締めるように言った。
「親子とも外見を重視する」
「どこが?」と雪代は笑いながら言った。すると、両手に紙のコップを持って、先程の青年が階段を降りている。その背中に視線が集中していることを理解している様子があった。雪代はある面では、娘をたまたまいっしょに住んでいる女の子とでも思っているような節があった。それは、途中でぼくがその家族に割り込んだ所為かもしれず、そのまま二人で暮らしつづけていたら、もっと密接な濃度の濃い親子関係が築かれていたかもしれない。反対にもっともっと淡い関係が生まれていたのかもしれない。だが、今の状態が双方にとって居心地の良いものらしく、ときに喧嘩をするにせよ、普段は年の離れた友人のように何事も屈託なく話し合った。
目の前では後半の試合がはじまった。なにかいままで用事があったのか、それとも、大きくなりすぎた息子の試合など関心がなくなったのか、ぼくの妹がやっととなりに座った。
妹と雪代は視線だけで簡単な挨拶をした。妹は直ぐに試合に注目することをやめ、周りをざっと見回していた。
「あれ、広美ちゃん?」彼女は、前方を指差した。
「そうだよ」
「となりに男の子がいる」
「いるね」
「似合っている」
「背中だけで分かる?」
「それは、分かるよ」
そう言うととなりで悲鳴を上げる雪代の声があった。待ち続けた念願のゴールが入った。それを決めたのは甥だった。ぼくと妹はその大切な瞬間を見逃していた。その大きな声に驚いたのか広美がはじめて振り返った。親の声は直ぐに分かるらしい。そこには怪訝さが含まれていた。新しいボーイフレンドを意識してなのか、それともたた単純に恥ずかしかったからなのかは分からない。
「やっと、入った。これを守りきれば」と妹は言う。だが、時間的に守りを固めるには早過ぎた。その考えを知られたのか直ぐに同点になった。遠くで今度は広美が嘆きの声をあげた。親子はどうも似ているらしい。
そのまま試合は終わってしまった。簡単に勝てそうな相手にもたつき、逆に強そうな相手に最高の実力を見せる。世の中はままならないようにできているらしい。
そこに広美が歩いてきた。
「ママ、うるさいよ。あ、おばさん、こんにちは。そう、今日、夕飯いらないから。その変わり、ちょっと食事代ちょうだい」
「男の子に出してもらえば?」そう言いながらも雪代は財布を開いている。
「たくさん、稼ぐようになったら、出してもらう。ありがとう」そして、背中を見せて歩いて行った。
「かずや君には、誰か好きな子が?」雪代は財布をしまいながら言う。
「いるんでしょうけど、馬鹿みたいにサッカーばっかりしている。お兄ちゃんとは大違い。そうだ、たまにはうちに来る。あの子、なんだか料理が好きになって」と、姪のことを妹は話した。ぼくらには予定はなく、ちょっと寄り道をしてから行くと伝えた。仕事を離れ外気にあたるのは心地の良いものだった。ぼくは湿ったような空気の匂いを嗅ぎ、むかし、同じように走り回ったころのことを思い出している。それは、広美の背中を見た所為かもしれず、不甲斐ない試合をしたやるせない気持ちを抱いているスポーツに明け暮れる青年たちをみた所為かもしれない。若さは走馬灯のように去り、ぼくは徐々にひろがり根を張っていく人間関係を感じている。幼かった女の子は自分の手で料理を作り始め、それを誰かに披露したいと思っていた。そういうことが生きている証のようだった。ぼくらは雪代の店のそばの評判の良いケーキ屋さんに入り、いくつかチョイスして妹の家に向かった。
ぼくは甥っ子のサッカーの試合を見ている。雪代がとなりにいた。彼女は陽を遮るように大きな縁のある帽子を被っていた。横で歓声をあげたり、その合間にコーヒーを飲んでいた。試合は、どこかピリッとしたものに欠け、甥のチームは格下の相手に実力を出せないでいた。
ぼくらと離れているが左側の前方には広美がいた。横には男性が同じように座っていた。ここからでは背中だけしか見えない。
「あれが、新しいボーイフレンドなんだ?」ぼくは、試合に興味を失いかけ、そう雪代に訊いた。
「そうみたい。最近、長電話している」
「前の子は?」
「さあ」
「さあって?」
「別れたんでしょう。二股とかするような器用な子じゃないので。誰かみたいに・・・」
ぼくはそれに返事をしないでいる。了承とも呼べそうな、無言の抵抗とでもいうようなタイプの沈黙だった。
「ふたりが並んでいるのを見て、似合っているなとか、なんで、とか、あれ、どういう感じなんだろうね」
「それで、あのふたりは?」
「背中だけだと、やっぱりね。評価に難しい」
「そのひとの友だちの評判もあるし。わたしは、ひろし君のお友達から評判が悪かった」
「むかしの話だよ。それに非難したのは、ぼくの行動に対してだから」
そうしていると前半が終わった。ゴールを奪えるシーンは何度かあったが、それでも両チームとも無得点のまま時間が過ぎただけだった。広美の横にいる青年が、階段をのぼってきた。最初からここにいることを知らされていたのか、こちらに軽く会釈した。それで、ぼくと雪代も同じように振舞った。
「ハンサム」雪代がただその四語をかみ締めるように言った。
「親子とも外見を重視する」
「どこが?」と雪代は笑いながら言った。すると、両手に紙のコップを持って、先程の青年が階段を降りている。その背中に視線が集中していることを理解している様子があった。雪代はある面では、娘をたまたまいっしょに住んでいる女の子とでも思っているような節があった。それは、途中でぼくがその家族に割り込んだ所為かもしれず、そのまま二人で暮らしつづけていたら、もっと密接な濃度の濃い親子関係が築かれていたかもしれない。反対にもっともっと淡い関係が生まれていたのかもしれない。だが、今の状態が双方にとって居心地の良いものらしく、ときに喧嘩をするにせよ、普段は年の離れた友人のように何事も屈託なく話し合った。
目の前では後半の試合がはじまった。なにかいままで用事があったのか、それとも、大きくなりすぎた息子の試合など関心がなくなったのか、ぼくの妹がやっととなりに座った。
妹と雪代は視線だけで簡単な挨拶をした。妹は直ぐに試合に注目することをやめ、周りをざっと見回していた。
「あれ、広美ちゃん?」彼女は、前方を指差した。
「そうだよ」
「となりに男の子がいる」
「いるね」
「似合っている」
「背中だけで分かる?」
「それは、分かるよ」
そう言うととなりで悲鳴を上げる雪代の声があった。待ち続けた念願のゴールが入った。それを決めたのは甥だった。ぼくと妹はその大切な瞬間を見逃していた。その大きな声に驚いたのか広美がはじめて振り返った。親の声は直ぐに分かるらしい。そこには怪訝さが含まれていた。新しいボーイフレンドを意識してなのか、それともたた単純に恥ずかしかったからなのかは分からない。
「やっと、入った。これを守りきれば」と妹は言う。だが、時間的に守りを固めるには早過ぎた。その考えを知られたのか直ぐに同点になった。遠くで今度は広美が嘆きの声をあげた。親子はどうも似ているらしい。
そのまま試合は終わってしまった。簡単に勝てそうな相手にもたつき、逆に強そうな相手に最高の実力を見せる。世の中はままならないようにできているらしい。
そこに広美が歩いてきた。
「ママ、うるさいよ。あ、おばさん、こんにちは。そう、今日、夕飯いらないから。その変わり、ちょっと食事代ちょうだい」
「男の子に出してもらえば?」そう言いながらも雪代は財布を開いている。
「たくさん、稼ぐようになったら、出してもらう。ありがとう」そして、背中を見せて歩いて行った。
「かずや君には、誰か好きな子が?」雪代は財布をしまいながら言う。
「いるんでしょうけど、馬鹿みたいにサッカーばっかりしている。お兄ちゃんとは大違い。そうだ、たまにはうちに来る。あの子、なんだか料理が好きになって」と、姪のことを妹は話した。ぼくらには予定はなく、ちょっと寄り道をしてから行くと伝えた。仕事を離れ外気にあたるのは心地の良いものだった。ぼくは湿ったような空気の匂いを嗅ぎ、むかし、同じように走り回ったころのことを思い出している。それは、広美の背中を見た所為かもしれず、不甲斐ない試合をしたやるせない気持ちを抱いているスポーツに明け暮れる青年たちをみた所為かもしれない。若さは走馬灯のように去り、ぼくは徐々にひろがり根を張っていく人間関係を感じている。幼かった女の子は自分の手で料理を作り始め、それを誰かに披露したいと思っていた。そういうことが生きている証のようだった。ぼくらは雪代の店のそばの評判の良いケーキ屋さんに入り、いくつかチョイスして妹の家に向かった。