爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(68)

2012年05月31日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(68)

 広美は自分の将来の方向を決めかねている。まだ10代の半ばの女性に完全なる答えを求めるのは酷かもしれなかった。自由と干渉の狭間に子どもはいる。ぼくと雪代は自由の多いほうに広美を置いた。それが彼女にとって幸福であるのか不幸であるのかぼくらには分からなかった。選択の幅が広ければ可能性も深まっていくように思えたが、その数え切れない選択が方向性を見誤せるのかもしれない。

 ぼくらはただの一直線の道を進んでいるわけではないことを改めて知る。ぼくは、まゆみという女性のことを考えている。彼女はバイト先の店長の娘としてぼくの前にあらわれる。幼少期の彼女をぼくは可愛がった。青春期にスポーツ選手になり地元の新聞を賑わせた。それから、大学生になった彼女は酔ったぼくの前にあらわれる。ぼくは裕紀を失った痛手から立ち直れずにいた。あの小さな女の子だった彼女がぼくの悲しみを労わってくれた。そこで、自由に育ちすぎていた広美の面倒を見るために、彼女は広美に勉強を教え、友人にもなった。大人として旅立つ前に彼女は身ごもった。その運命を無にする可能性だってあったかもしれないが、ぼくは誰かを失うことを許しはしなかった。それで、彼女はいま母になっている。ぼくは、そのことを知っておりタイム・マシーンでもあれば、あのバイト先の少女に教えてあげたいとも思う。いくつかのことに注意するように。また、避けようと思っても別のなにかが彼女に与えられ、奪っていくのだろうとも教えたかった。

 ぼくにも大切なものがあったが、いくつかは取り除かれた。また大事なものも腕のなかに放り込まれた。それを抱え込むのも、落としてしまうのも自分の問題だった。だが、今後はより一層落として失わないように注意を払うのだろう。それが大人になることのようだった。もう大人を何十年と過ごしてきたが。

 でも、まじめ過ぎるのもあきらめ、いや戒め、ぼくと広美はスポーツ・バーで座っている。
「この前、ホテルでパーティーがあって、前の先輩に会ったよ」
「電話できいた」
「そう。仕事、楽しいって?」
「覚えることがあって、大変だって。でも、前に会ったときに顔付きが変わっていた」
「どんな風に?」
「きりっとしてた。世間の風に揉まれた感じ」
「広美は大学に?」

「東京に行ってもいいかな」
「いいよ。雪代は知ってるの?」
「まだ、言ってない。許してくれるかな」
「雪代が反対するわけないじゃない」
「ただ、言ってみただけ。ひろし君との甘い生活が待っているママには」
「4年間だろう?」
「当面は」

「なんでも応援するよ。雪代もぼくも」ぼくはモニターから視線をはずして彼女の方に向いた。「恋をして、勉強して、思い出をたくさん作って」
「うん」
「失恋して、泣いて、思い出をつくって」
「馬鹿みたいだよ。ひろし君もした?」
「あいにく上手くいったけど、もっと大きな痛手もあったしね」
「前の奥さん?」

「それもあるし、ぼくと雪代は別れて、また島本さんと彼女は縒りをもどしたこともあるしね」
「その結晶がわたしだから。それは恨まないで」
「恨んでないよ。ただ、失恋もしておくべきだよ」
「おじさんくさい」
「おじさんだもん」

 ぼくらはまたぼんやりと映像を眺める。アメリカン・フットボールの大事な決勝の試合があった。大柄な男性たちがぶつかりあっている。その大きな鈍い音と衝撃が画面やスピーカーを通してあらわれた。
「近藤さんと広美ちゃんも、なにかおかわり持ってきます?」

 店員の男性が訊いた。
「同じもの」と、広美は華奢な指でグラスを指差した。「わたし、大学に落ちたら、ここで雇ってくれます?」
「大歓迎ですよ。広美ちゃんみたいに可愛くて、しっかりしていれば。危ないときは、お客さんのなかにボディー・ガードもいるし」

「ぼくのこと?」ぼくは、自分の鼻先に指で触れた。
「さあ」と言ってその店員は背中で笑いながら二つの空いたグラスを持ち去った。

 モニターの映像は大柄な男性から躍動感が伝わるミニスカートの女性たちに代わった。彼女たちは踊り、練習の成果を見せていた。だが、彼女たちがいったいどのような10年後を迎えるのか、まったくもって分からなかった。

「はい、就職祝いの手付金」さっきの店員は二つのグラスを満たして持ってきた。だが、無駄口はそこで終わり入り口からはいってきた若い男女を目敏く見つけ、そのひとたちの応対に追われた。

 また画面では大男たちの疾走する姿に変わっていた。その前にすすむという行為はなかなか捗らず一進一退を繰り返していた。
「ひとは自分に向いていることをするべきだね」広美がぽつりという。「彼が、机の前にすわって帳簿を見ている姿が想像できない」
「店長だから、裏ではもちろんそういうこともしているだろう」
「そうなのかな」
「雪代だって、家でしているじゃないか。税金の時期にはとくに」
「そうか」
「そうだよ」
「そろそろ、帰る?」壁にも時計があったが、広美は自分の左の手首を見た。「スーパーに寄って。わたしが今日作るよ」
「そう、じゃあ後で雪代に電話しておく」
「荷物ももってよ」

 ぼくらは外に出た。彼女の大学の受験は多分、来年のいまごろになるのだろう。あの少女が大きくなり東京でひとりで暮らす時期が来るのかもしれない。こっちに残るのかもしれない。どんな未来だって、彼女は乗り越えるだろうというおかしな信念がぼくにはあった。その母も20年も前に同じようにひとりで東京にいた。時間の疾走感にぼくは呑み込まれて窒息するような息苦しさと高揚を覚えていた。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(5)

2012年05月31日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(5)

「ただいま」妻が一日分の疲労と充足感を持ち帰りながら、言った。
「おかえりなさい」と娘の由美が彼女の肩にあったバッグを引っ張って取り上げて出迎えた。犬のジョンも後方で尻尾を振っていた。
「ご飯の用意するね」彼女は手を洗い、冷蔵庫を開ける。

 ぼくらはテーブルに着き、一日の話題を提供しながらご飯を食べる。妻の前とぼくの前にもビールが注がれたグラスがあった。彼女は、妊娠中と授乳中を除けば、ほぼ毎晩ビールを飲んでいた。意思が固いからそうしたのか、弱いからそうしているのか分からない。

「由美、宿題は?」
「ちゃんとしたよ」
「パパ、教えてくれた?」
「昼寝して、女のひとの名前を寝言で言ってた。楽しそうに笑ってた」と、娘は告げ口をする。
「不潔な中年男性」と妻が苦々しそうに言う。
「不潔な中年男性」と同じ言葉を娘が繰り返す。
「変な言葉を覚えるからやめろよ」

「じゃあ、変な寝言を言わないでよ」と、妻の正論。「なんて、言ってたの? 由美」
「マーガレット」それを聞いた妻の目は一回転したようだった。
「それは、いま書いている小説の主人公の名前だよ。誤解するなよ」
「へえ、そういうのも書けるんだ、あなた。とことん、見直した。節くれだった畳敷きで生活する苦悩するひとびとだけが主人公になるのかと思っていた。水洗便所もなく、ぼっとん便所で」

「ぼっとん便所」と、同じように由美もその響きが気に入ったのかつづけて言った。
「変な言葉を覚えるから止めなよ。それに、食事時だよ」
「はい、分かりました。妻が職場でいじめられている最中に女性の名前の寝言を言って昼寝。それで、マーガレットはなにをするの?」

 避暑に来ているマーガレットは壁の時計を眺めている。約束の時間になってもレナードは玄関の戸を叩かなかった。母は娘の軽率さをたしなめながらも、同じように興奮でそわそわしていた。そこに遅れてレナードがやって来た。時刻は二時を十五分ほど過ぎていた。

「すいません、徹夜をして絵を普段は描いているもんで、仮眠を取ったら、そのまま眠り続けてしまった」
 そして、マーガレットの母に挨拶をする。母はいくらか怪訝な様子をする。亡くなった夫は律儀な銀行員だった。時間に遅れるという観念などまったくなく、母もそれで待ちぼうけをくらわされたという経験もなかった。それでも、その男性がもたらした自由という感覚がどこからか新鮮な風を運んでくるような印象も同時に受けた。

「パパね、まだ学生のころ、素晴らしい小説を書いて、それでたくさん稼いでママを幸せにしてくれるって宣言したのよ、由美」妻と娘は共犯者のような顔をしている。「いつか、実現してくれるといいんだけど」
「だけど、お昼に会ったお店のお姉さんは、パパのことを先生と呼んでた」
「まだ未知なる大器。土のなかに埋もれている宝物」妻は自分の言葉に酔うようにビールを飲みながら言った。「先生、ビールが空になった」

 ぼくは、冷蔵庫に向かう。その扉を開いて缶を探す。同じようにレナードも床に絵の具で汚れた布を敷き、その上で道具が入っている箱を開き、絵の具や何本かの筆を取り出した。真っ白なキャンバスには無限の可能性があった。正面に座っているマーガレットの未来も限りなく無限であった。その画家の後方で母がじっと手元を見ていた。だが、なかなか握っている筆は動かなかった。
「描かないんですか?」しびれを切らしたようにナンシーは言う。素朴な疑問だった。銀行員なら直ぐに目の前の札束を数える。預金でも、出金でも。

「構想してます。具体的な未来のかたちを」それからしばらく経ち、顔の輪郭が描かれる。両親がつくったものを、異次元から来た男性が同じように創造しようとしている。無であるものが1になり、次第に2になる。そして、最後に完成される。その過程がいまはじまったばかりだった。

 妻の前の缶が1つになり、2になった。ぼくは宿題を見てあげられなかったことを後悔していた。
「あした、由美の宿題にみっちりと付き合うよ」
「なに言ってるの? お隣の久美子ちゃんがプールに連れて行ってくれると約束してたじゃない」と妻が言う。
「プール、プール」と、娘は喜んでいた。「9時半に迎えに来てくれるって」
「そうだったのか」

「先生は静かな部屋で大傑作を書いてちょうだい。そして、私の足がむくまなくてもいいように仕事を辞めさせて、せめて、高価なマッサージ器を買って」と妻は注文をだした。しかし、彼女は絶対にやめないだろうと分かっていた。物事を解決していく仕事を彼女はたしかに望んでいたし、生き甲斐にも感じているはずだった。

 マーガレットは一時間ばかり同じ姿勢で座り続けたため、首の凝りを感じていた。今日は不慣れなためこれで終わりということになった。レナードは荷物をまとめ、手を洗うために洗面所を借りた。そこで汚れを落としたが、すべての指がまっさらになったわけでもない。長年の期間を通じた指の汚れがどこかに残っているような気がした。そのまま、レナードは帰ろうとしたがテーブルには紅茶が用意されていた。

「足、揉んで。あなた」妻がベッドに横たわり、両足を指差した。それはほっそりとしてむくんでいるようには見えなかった。だが、ぼくは命じられたままそれを前後や上下にさすり、血流の流れを取り戻すように努力した。