壊れゆくブレイン(63)
広美は父を亡くして10数年を経過し、その半分ぐらいの年数にまがいものの父がいた。父というより母の愛したひとだった。だが、本物と偽者の差などいったいどこにあるのだろう。継続すべきものが本物であり、中断するものが偽者である。そう定義するなら、ぼくは、また同じ理由で裕紀の思い出の一部を失い続けていくのだろう。
ぼくらは、根本的に大切なものを失ったグループの一員だった。もちろん、雪代もそうだった。そういう儀式を済ませるため、ふたりは出かけていた。島本さんもいなければ、彼の母もこの世にいない。まゆみの生まれてきた子どもの代わりに、いなくなるひとも多くなった。ぼくの会社の社長も亡くなり、もちろん、誰よりも大切な存在であった裕紀もいなかった。
外は雨が降っている。窓は閉めてあったが、湿気は室内にいても感じられた。その重たい雨の気配が過去へとぼくを導くようだった。過去は人間の順番待ちの行列のようにぼくの向こうに並んでいた。生きているひとも死んでいるひとも自分のことを思い出してもらいたがっているように、そこに整然と並んでいた。
最初にいるのは、病院のベッドで横たわる裕紀。まだ回復が見込まれていた時期だ。ぼくは、直ったらしてあげられそうなことをたくさん発見する。自分の指の指紋のかたちを改めて見つめたように。仕事と仕事の合間に見舞いに行った短い間だったが、それをはっきりと思い出している。その後、ぼくを見送るようになった叔母と連れ添って歩いた。
「ある朝、あるお店で、ひろしさんを発見する」
「なんのことですか?」
「さっき、裕紀ちゃんに聞いたのよ。東京に居るはずのないひとが目の前にいた」
「ああ、ぼくらの出会い。いや、再会ですね」
「そのひとは自分に気付かない。なにかに意識を集中しているようだった」
「東京での生活にも慣れていない時期だったんです。会社もまだ自分に馴染んでいなかった。それで周りのものに関心をもてなかったのかもしれない」
「合図を送ろうとしたかったけど、実際はしなかった。なにかが躊躇させた」
「ぼくは、裕紀を裏切ったことがあるから」
「でも、彼女は結婚すべきひとは、このひとだと思ったんだとか」
「ぼくもです。いや、そうかな? 東京で味方を見つけられたと思ったのかな」
「妻が味方なんて一番じゃない」叔母は微笑んでそう言う。「その再会が、こんな形になってしまったのを彼女は悔いている。慰めてあげたんだけど」
「直ぐ治りますよ。これは一時的な試練だから。ぼくらの一時的な」
「じゃあ、そういうことを言ってあげて」
「言ってますよ」
「じゃあ、もっと言ってあげて。優しい言葉が一番の治療になるから」
そこで、ぼくは病院の外に出る。タクシーを拾い、次の約束の場所を運転手に告げた。
「お見舞いですか?」
「妻が病気で」
「それは、大変ですね。仕事にも身が入らないでしょう・・・」それから、彼は自分の体験談を話す。病気の妻を自分のタクシーで病院に連れて行ったこと。何よりもそのときの運転が注意とスピードのバランスを保てたこと。「いま、乗ってるお客さんに話すようなことじゃないんですけどね。今日も安全運転ですよ」
彼にも思い出がある。ぼくは語るべき優しさが含まれている言葉を見つけようとしている。
「うちで働かないか?」
社長は、そうぼくを誘った。宇宙のはじまりのようにまだ完全なる形となっていなかった会社。ぼくはラグビーで夢を叶えられず、大学の勉強の成果を実際の仕事に向けることができなかった。投げ槍でもなかったが、このひとも魅力のためにいっしょに働いて、形あるものにしたいとも思っていた。それは確かにそうなり、いくつかの支店もできた。ビルやマンションはひとびとを集め、生活をよりよいものにしようという幻想をいくつかは実現した。ぼくは、そのビルのひとつにいる。東京で画廊を営む女性。彼女に向かって賃貸の契約書を取り出す。彼女はそれに同意した。壁には裕紀に似た少女の絵が飾られている。いまは、ぼくの実家になぜだかあった。
「ただいま、疲れた」
雪代と広美が入ってくる。彼女たちは黒い服装をしている。
「こんな写真があったよ。パパとひろし君がいっしょに写っている」
広美はぼくに何枚かある写真の一枚を手渡した。そこには10人ほどの男性がラグビーのユニフォームを着て写っていた。まだ10代の半ばのぼくたち。それが、どのようなときに写されたのかはもう覚えていなかった。だが、ぼくらは確かにそのなかにいた。
「覚えてないな。でも、なんかの試合か練習のときだったろうね。みんな、若さに溢れている」
「ママのふたりの結婚相手」
「たまたま同時にそこにいた。普通は大好きになって、別れて、違う場所で新しい恋人を見つけるのに」雪代は自分のもっている恋のイメージを披露する。
「そんなことないよ。広美だって」ぼくは余計な口を挟む。「でも、こんな写真があったんだ」
「わたしもこのふたりから影響を受けた。健康さと、あと、なんだろう?」
広美はぼくに視線を向ける。ぼくは、その10代をいっしょに暮らした少女にいったい何を示してこれたのだろう? 耐えること。失ったものを一時的に忘れて笑い続けること。それならば、彼女もしてきた。そばにいるものへの愛着。いないものへの憧憬。ぼくは裕紀を失った試練と同等のものを抱えているひとりの女性になりつつ存在を見つけていたのか?
広美は父を亡くして10数年を経過し、その半分ぐらいの年数にまがいものの父がいた。父というより母の愛したひとだった。だが、本物と偽者の差などいったいどこにあるのだろう。継続すべきものが本物であり、中断するものが偽者である。そう定義するなら、ぼくは、また同じ理由で裕紀の思い出の一部を失い続けていくのだろう。
ぼくらは、根本的に大切なものを失ったグループの一員だった。もちろん、雪代もそうだった。そういう儀式を済ませるため、ふたりは出かけていた。島本さんもいなければ、彼の母もこの世にいない。まゆみの生まれてきた子どもの代わりに、いなくなるひとも多くなった。ぼくの会社の社長も亡くなり、もちろん、誰よりも大切な存在であった裕紀もいなかった。
外は雨が降っている。窓は閉めてあったが、湿気は室内にいても感じられた。その重たい雨の気配が過去へとぼくを導くようだった。過去は人間の順番待ちの行列のようにぼくの向こうに並んでいた。生きているひとも死んでいるひとも自分のことを思い出してもらいたがっているように、そこに整然と並んでいた。
最初にいるのは、病院のベッドで横たわる裕紀。まだ回復が見込まれていた時期だ。ぼくは、直ったらしてあげられそうなことをたくさん発見する。自分の指の指紋のかたちを改めて見つめたように。仕事と仕事の合間に見舞いに行った短い間だったが、それをはっきりと思い出している。その後、ぼくを見送るようになった叔母と連れ添って歩いた。
「ある朝、あるお店で、ひろしさんを発見する」
「なんのことですか?」
「さっき、裕紀ちゃんに聞いたのよ。東京に居るはずのないひとが目の前にいた」
「ああ、ぼくらの出会い。いや、再会ですね」
「そのひとは自分に気付かない。なにかに意識を集中しているようだった」
「東京での生活にも慣れていない時期だったんです。会社もまだ自分に馴染んでいなかった。それで周りのものに関心をもてなかったのかもしれない」
「合図を送ろうとしたかったけど、実際はしなかった。なにかが躊躇させた」
「ぼくは、裕紀を裏切ったことがあるから」
「でも、彼女は結婚すべきひとは、このひとだと思ったんだとか」
「ぼくもです。いや、そうかな? 東京で味方を見つけられたと思ったのかな」
「妻が味方なんて一番じゃない」叔母は微笑んでそう言う。「その再会が、こんな形になってしまったのを彼女は悔いている。慰めてあげたんだけど」
「直ぐ治りますよ。これは一時的な試練だから。ぼくらの一時的な」
「じゃあ、そういうことを言ってあげて」
「言ってますよ」
「じゃあ、もっと言ってあげて。優しい言葉が一番の治療になるから」
そこで、ぼくは病院の外に出る。タクシーを拾い、次の約束の場所を運転手に告げた。
「お見舞いですか?」
「妻が病気で」
「それは、大変ですね。仕事にも身が入らないでしょう・・・」それから、彼は自分の体験談を話す。病気の妻を自分のタクシーで病院に連れて行ったこと。何よりもそのときの運転が注意とスピードのバランスを保てたこと。「いま、乗ってるお客さんに話すようなことじゃないんですけどね。今日も安全運転ですよ」
彼にも思い出がある。ぼくは語るべき優しさが含まれている言葉を見つけようとしている。
「うちで働かないか?」
社長は、そうぼくを誘った。宇宙のはじまりのようにまだ完全なる形となっていなかった会社。ぼくはラグビーで夢を叶えられず、大学の勉強の成果を実際の仕事に向けることができなかった。投げ槍でもなかったが、このひとも魅力のためにいっしょに働いて、形あるものにしたいとも思っていた。それは確かにそうなり、いくつかの支店もできた。ビルやマンションはひとびとを集め、生活をよりよいものにしようという幻想をいくつかは実現した。ぼくは、そのビルのひとつにいる。東京で画廊を営む女性。彼女に向かって賃貸の契約書を取り出す。彼女はそれに同意した。壁には裕紀に似た少女の絵が飾られている。いまは、ぼくの実家になぜだかあった。
「ただいま、疲れた」
雪代と広美が入ってくる。彼女たちは黒い服装をしている。
「こんな写真があったよ。パパとひろし君がいっしょに写っている」
広美はぼくに何枚かある写真の一枚を手渡した。そこには10人ほどの男性がラグビーのユニフォームを着て写っていた。まだ10代の半ばのぼくたち。それが、どのようなときに写されたのかはもう覚えていなかった。だが、ぼくらは確かにそのなかにいた。
「覚えてないな。でも、なんかの試合か練習のときだったろうね。みんな、若さに溢れている」
「ママのふたりの結婚相手」
「たまたま同時にそこにいた。普通は大好きになって、別れて、違う場所で新しい恋人を見つけるのに」雪代は自分のもっている恋のイメージを披露する。
「そんなことないよ。広美だって」ぼくは余計な口を挟む。「でも、こんな写真があったんだ」
「わたしもこのふたりから影響を受けた。健康さと、あと、なんだろう?」
広美はぼくに視線を向ける。ぼくは、その10代をいっしょに暮らした少女にいったい何を示してこれたのだろう? 耐えること。失ったものを一時的に忘れて笑い続けること。それならば、彼女もしてきた。そばにいるものへの愛着。いないものへの憧憬。ぼくは裕紀を失った試練と同等のものを抱えているひとりの女性になりつつ存在を見つけていたのか?