爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(61)

2012年05月08日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(61)

 広美はまゆみの家に遊びに行き、帰ってきた。まゆみは夫の仕事の関係上、京都で暮らしていた。まゆみを幼少のころから知り、その無鉄砲さと率直さは、ぼくが抱く京都のイメージとは不釣合いだったが、彼女も大人になり母になり、それらしく変わっていくのだろう。

「まゆみちゃんの子ども、どうだった?」と雪代は関心を隠し切れない態度で訊いた。
「大きくなって、可愛くなってた」
「あなたもお母さんになりたくなった?」
「お母さん?」急に問われた質問に怪訝な様子を示しながら広美は返答する。「まだ、先だよ。順番を踏んでから」
「弟か妹を欲しくなった?」
「なに、急に、気持ち悪いな」

「まあ、可能性の話よ」雪代はそこで口を閉じる。彼女の体内に宿って育つ可能性は確かに減っていた。だが、ぼくは敢えて、そういうものを深いところでは望んでいないのかもしれない。ぼくは、裕紀に与えられなかったものを、今更、誰かと共有して楽しもうという気持ちなど芽生えてこなかった。しかし、結果としてそうなれば、また違った気持ちも生まれてきたのかもしれないが。「ひろし君は自分の遺伝子を残していないから」
「急に難しい話になったね」ぼくは、話題を反らすようにそう言う。それから、まゆみがベビーカーに子どもを乗せ、それを押しながら京都の町を広美といっしょに観光した話を聞く。彼女は中学のときにも修学旅行で行ったはずだが、その印象が今回の旅行ですっかり入れ替わったそうだ。

 広美はバックの中から衣類を取り出し、洗濯機に放り込みスイッチを入れた。それから風呂に入り、早目に自分の部屋に引き上げた。

「ごめん、眠いから干しておいて」と、母に言葉を残した。
 ぼくと雪代はテーブルに向かって座っている。
「京都か」ぼくは溜息混じりに言う。
「あんまり、そっち方面行かないね?」
「関西方面は仕事のテリトリーじゃなかったから」
「建っていくビルやマンション」
「そう、だから無関心だった」
「でも、広美はいっぱいいろいろなところに友だちを作って欲しい」
「仕事でもするようになれば、若い女性も飛び回るような世の中になるよ」
「銀色のスタイリッシュなバックを小脇に抱え」雪代は笑う。「ひろし君は、子どもいいの?」まじめな顔付きで雪代は問いかける。

「いいも、なにも出来ないよ」
「なんで?」
「誰かがそう決めたんだろう」
「そう」
「雪代も、そんなに若くない」
「あら、最近の医学をなめている。でも、広美を育ててるとき、大変だったけど、楽しかったな」
「ぼくは知らない」
「でも、ふたりで楽しい生活があったんでしょう?」
「あった」
「見返りがいらないほど・・・」

「まあ、でも、もうぼくの物語はそこにはないから」そういう言葉を語ったが、実際は別だったかもしれない。ぼくの一部は裕紀との生活をまだ続けているのかもしれなかった。その小さな失われた可能性にスポットを当て、いろいろな角度から思考し、模索していた。結局、答えはないのだが、ぼくは人生の逃避の一部として、そこに逃げ込む時間が確かにあった。

「わたしは、あのひとのこと思い出さない、全然」と、残念そうに雪代は言った。彼の前の夫である島本さんはその言葉を聞いたら、どういう感情を抱くのだろう? 彼なら、「清々する」とでも言いそうだった。ラグビーのユニフォームの襟を立て、そのままどこかに走って消え去りそうだった。「なんでだろう?」

「前向きにできているんだろう」
「ひろし君はときどき後ろ向き」
「失敗から学ぶから」
「違うよ。失敗を愛おしいと思っている。今だから言うけど、全国大会に行けない自分が好きだったでしょう?」
「そんなことないよ。あそこで活躍してそこそこの名声を得て、だいぶ、ちやほやされる」
「わたしが、あんなに愛したのに?」
「まあ、充分だったけど」
「もう、寝る?」
「洗濯物は?」
「あ、そうだ」
「ぼくも手伝うよ」
「じゃあ、このお皿洗って」ぼくは皿を重ね、シンクのなかに入れ、水を出した。スポンジはいささかくたびれ、交代要員を探していた。雪代は窓を開け、ベランダの下部に衣類を干した。風が気持ちよく、夜の匂いを運んできた。それが終わるとまた窓が閉まった。

「スポンジ、古びてる」
「そうだ、買ってあるのよ。明日、出す」
 ぼくは手を拭き、寝室に入る。ベッドに潜り込むと、横に雪代が入って来た。彼女の匂いがぼくを安心させた気持ちにする。
「弟か、妹を広美に造ってあげないと」と、雪代はふざけた口調で口にする。ぼくらは出会い、別れた。そして、お互いの再婚相手としてまた見つけた。その期間がどこかでずれていたら、ぼくは自分の子どもを抱く雪代の姿が見られたのかもしれなかった。ぼくらは若さゆえの強情さと、なにかを撥ね退けたい力とで運命を狂わせた。しかし、ぼくはこの夜に隣に彼女がいることが自分にとってどれほど大切かということに気付かされたのだ。あのときは知らなかった。26歳のぼくは彼女と別れ、ある意味ではその状態に立ち向かおうとしていたのだろう。実際にその力はぼくの内部にきっちりと内包されていたが、その力を失ったぼくの安楽な気持ちは彼女の腰の丸味がいかに魅力的かということにも気付いていたのだ。このベッドで。
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