ある会場で耳にしたのは「京のお茶漬け」。お茶漬けは飯に熱い茶をかけたもので、庶民的には粗末な食事の一つの例えに使う。また「茶漬けでも食べるか」といえば簡単な食事を意味することもある。しかし、そこは古都・京都のお茶漬け、いかなる内容の食事かと思いつつも機会に恵まれることもなく過ぎてきた。
ある辞典を繰っていて「京のお茶漬け」という項に気づいた。期待して読み始めた。「京都の人は、客の帰り際に『お茶漬けでも』と勧めるといわれる。京都の人は口先は愛想がいいが、根はけちだということば」と載っている。「遠州の何なら茶漬け」「大道湯漬け」など類似が並んでいる。どれも京都の例に同じ「もてなさない」こと。
亡くなった米朝さんが「京都ではやりにくい」と話して咄に入られたという。「高松のあつかん」も茶漬けが熱燗になったお話し。長居の客に対する帰り際の口愛想を真に受けられ「それではお茶漬けを、熱燗を」となったら大変なことになる。京の人間は言葉と腹の中が違う、米朝さんは「この咄は大阪から見た京都の風土」を表現した落語というが、その逆の咄があるなら知りたい。
実体のないお茶漬け、と知って笑えるのは咄だからとはいえ、これまで知らなかった自分への嘲笑かもしれない。しかし、京都はお茶の名産地、ネットに載っている宇治の茶畑はすごい、黙って笑っているとしたらなら京都のお茶はやはり大物だ。
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