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元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、播磨赤穂藩主の浅野内匠頭が、高家旗本・吉良上野介に対して江戸城殿中において刃傷に及ぶ。浅野内匠頭は殿中抜刀の罪で即日切腹となり赤穂藩は改易となった。これは元禄赤穂事件。この時の匠守の辞世の句はよく知らられている「風誘う花よりもなお我はまた春の名残をいかにとやせん」。
遺臣である大石内蔵助以下、赤穂浪士四十七士が翌15年12月14日(西暦1703年1月30日)深夜に吉良屋敷に討ち入り、吉良上野介を家人や警護の者もろとも殺害した。この一連の事件は忠臣蔵として人形浄瑠璃や歌舞伎で上演され日本武士のひとつの姿として語り伝えられた。今も年末にはTVドラマととして伝えられている。
祖母は忠臣蔵が好きだった。浪士の名前とその忠誠心、討ち入りまでの苦労をよく聞かせてくれた。忠臣蔵の映画にも連れて行ってくれた。六十数年も前の白黒の四角な画面の中でのチャンバラ、その中味は記憶に残っていない。しかし、いつの間にか吉良が悪で浅野が気の毒、忠臣蔵のイメージはそうなった。
桜がはらはらと散り始めると、祖母が綴じた新聞の切り抜きを大切そうにしながら、話してくれた姿を思い出す。それは、三世代が同居しいた我が家、孫で次を担う長男の私へ、家を守るための教えだったのでは、この年になるとそんな思いがする。祖母が他界して60年になる。
(写真:お堀に浮かんだ桜の花びら)
近所にも 山本五十六の書もありました
敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜かな
散る桜 残る桜も散る桜 とか
見事散りましょ 国の為 とか
でも せっかくの綺麗な花が
戦意高揚に使われると 雨に打たれた桜になる
複雑な気持ちです
それは喜怒哀楽、どの場面でも当てはまりそうですが、戦意高揚だけは願い下げたいものです。