a letter from Nobidome Raum TEE-BLOG

東京演劇アンサンブルの制作者が、見る、聞く、感じたことを書いています。その他、旅公演や、東京公演情報、稽古場情報など。

批評対話2011 1日目 バイセクル the bicycle/人形劇団ひとみ座

2011-08-01 00:59:12 | The Play for Children & Young People
今年も昨年に続き、
児演協では、デンマークから2人の講師をお呼びして、
『デンマークの批評対話を学ぶ』を行いました。
1人は、一昨年岸和田でお会いしたピーターさん。
もう1人は、来日は6度目というヘンリックさん。
3日間の短期集中ですが、
記録をしておこうと思います。




バイセクル the bicycle/人形劇団ひとみ座/代々木オリンピックセンター・小ホール

原作 エドワード・ゴーリー
構成・演出 石川哲次・友松正人

出演 齋藤俊輔 冨田愛 木俣かおり 勝又茂紀 長倉理沙 亀野直美



批評対話1日目。
この作品は、
3つのパートに分かれており、
それが重層構造的に行き来しながら展開している。
また、セリフのない人形劇ということで、
デンマークからの2人の講師にも、
アプローチしやすいのでは、ということで取り組むことにした作品です。

最初の質問は、
どうして(Why)この原作を選んだのか。
そして、どのように(How)人形劇にしようと思ったのか、
ということでした。
基本的にこの3日間は、WhyとHowのよって対話することになる。

答えるのは、2人の作家兼演出家。
それぞれで、3つのパートを担当したとのこと。
とても特徴的な絵本を書いている原作者ということで、
演出家自身が求めていた世界観に似ていたからだ、ということ。
ずっとこういうテーマというか、世界観を持った作品を探していた。
それは、原作絵本が、
ストーリーがシンプルであり、作品世界が支配されてしまわないことのないもの。
絵と絵をつなぐものが読者に委ねられている。
そして、無言劇のとして成立しそうだったので、
今回のセリフのない人形劇という手法を選んだ。

この3つのパート、
主旋律はタイトル通り、“自転車の話”。
そして、この自転車の話を書こうと苦悩する“作家の話”。
で、間に挿入されるのが“プルーンピープルという話”。
物語は、“自転車の話”と“作家の話”を行ったり来たりしながら進み、
後半途中に“プルーンピープルの話”が入ってくる。
この物語の間をジャンプするというのが、
ひっかかってくる。

ここで、新たな質問。
何を描きたかったのか?
実にシンプルな問いに、
端的な答え。
「2人の子どもの生きる力を描きたかったのだ」と。
これはわかる。
つまり“自転車の話”がやはり主旋律であるのだ。
にもかかわらず、
その印象が薄いのが気にかかった。
そして、核心に迫る質問となる。
誰に見せようとしたのか、ということ。

この作品は、
もともと大人向けに作った作品だった。
それを香港の国際フェスティバルで上演したところ、
「なぜ、子どもに見せないのか?」
と問われたという。
それをうけて、子どもに見せられる形にしようと手を加えたのだ。
間に挿入される物語も、
以前のものは少しシビアすぎる内容だったため、
“プルーンピープルの話”に変更した。
そういう意味での未成熟さがあったのか。

さて、もちろんそういうこともあったのだろうが、
デンマーク人講師の2人が対話したかったのはその部分ではない。
大人向け、子ども向けによって、
作品創作の姿勢が変わってしまったのか、ということだ。
そしてそれに関しては、演出の2人よりも、
出演者の2人が、明確に答えていた。
それで変えることはない、と。
だとすれば、少し戻ることになるが、
主旋律にある“子どもをどう描くのか”ということになる。
大人が子どもをどう見ているか。
もっと言えば、芸術家が子どもをどう見ているか、ということだ。

出演者の2人は、
子どもを演じるのではなく、
自分の中にある子どもの心を表現した、
というような言い方をしていた。
それもまた、明確な答えだと思った。
創作された作品について、
対話の中で、言語化していくのはとても難しい作業だ。
アーティストにしてみれば、
言いたいことは作品ですべて語っているはずで、
それを後出しで説明して理解してもらうというのは、
じつは、恥ずかしく、つらいことなのだ。
にもかかわらず、
今回は、参加した方々からは、
参加して作品をより理解できた、という声が多く聞かれた。
そのことを真摯に受け止めるとしたら、
この作品が、まだ、さらに、進化することのできる作品だと言うことができる。

たしかに、
最初に演出家の話に合ったように、
観客の想像力に委ねる形で、提出されている作品ではある。
しかし、たとえセリフのない人形劇であっても、
人形たちは雄弁にその物語を語り、
彼ら自身を語っているのである。
それが演出家の意図するものであれ、
意図しないものであれ、
観客は何らかの意思を感じることになる。

デンマーク人講師の2人がこだわったのは、
この演出家の演出が、
意識的であったのか、
無意識的であったのか、
ということなのだ。
観客対象が変わろうと、
どんな複雑な構造の戯曲であろうと、
作り手の狙いが意識的に表現されているのかということが大切だ。

「批評対話」初日、
原作の扱いについて、
大人が子どもをどう見るかについて、
創造者の意識的な表現についてが語られました。

夏のフェスティバル、西へ、東へ。

2011-07-30 23:00:45 | The Play for Children & Young People
この夏、東京演劇アンサンブルは、
西に東に、
夏の児童・青少年に向けての演劇フェスティバルに参加します。
特に!!
大阪、福島近辺のみなさまは、
ぜひこの機会にご覧いただければと思います。

8月4日(木)19時開演
ラリー ぼくが言わずにいたこと』
岸和田市・浪切ホール・小ホール
2011子ども演劇祭in岸和田参加

前売 1,500円 当日 1,800円
全席自由


8月7日(日)13時半開演
『銀河鉄道の夜』
喜多方市・喜多方プラザ・大ホール
喜多方発21世紀シアター参加

作品券 1,000円 パスポート 4,000円
全席自由

※こちらの公演は、被災者のみなさんをご招待する公演ともなっております。


どうぞお近くに、親類縁者、知人友人の方々がいらっしゃいましたら、
ぜひぜひ、お誘いいただければと思います。
どうぞよろしくお願いします。

チャリティー公演報告

2011-07-27 17:33:20 | The Play for Children & Young People
東京演劇アンサンブル チャリティー公演
『おじいちゃんの口笛』
終了のご報告です。

7月2日・3日とブレヒトの芝居小屋にて公演を行いました。
2日間で、入場者数224人
総収入が、チケット代のほか、
翻訳の菱木晃子さんから絵本の提供などがあり、
533,620円となりました。

ここから必要経費など差し引いたうち、
139,853円が支援室のほうに振り込まれました。

ご来場いただいたみなさま、
まことにありがとうございました。


支援室のほうの動きも活発化していて、
9月からは、かなりの公演が増えていきそうです。
連携を強めながら、
出来る限りの協力をしていきたいと思います。

すでにご紹介したとおり、
この支援金は、
被災地に、子どものための芸術家を派遣するプロジェクトに使われます。

「見たい作品」を考える。

2011-07-20 23:17:46 | The Play for Children & Young People
毎年6月中旬から7月中旬の約1ヶ月、
全国のおやこ劇場・子ども劇場の次年度の例会のための、
企画説明会があります。
会議のネーミングは、それぞれ、交流会とついたり、
事務局会議とついたり、
まぁ、それぞれいろいろあるわけですが、
ジャンルによって多少違いはありますが、
東北から九州まで、10カ所弱の地域を回ります。

昨年から、
少しずつ話に聞こえてきているのが、
「見れる作品から、見たい作品へ」という言葉です。
この言葉に、
非常に励まされ、
何とか東京演劇アンサンブルの作品も例会に選ばれるよう、
作品説明に臨んでいます。

しかしながら、
つい、限られた時間(だいたい1団体5~7分程度)で、
作品そのもののよりも、
「見たい作品」について話すことが多くなってしまった。
いま、
全国の子ども劇場・おやこ劇場では、
例会作品は、平均編成人数が3人と言われています。
そんな現状の中、東京演劇アンサンブルのような17,8人編成の作品は、
なかなかハードルが高いのです。
それでも作品の紹介とともに、
一つ昨年から考え続けていることがあり、
その話を中心にしてきました。

それは、端的に言ってしまえば作品の質の話なのですが、
僕たち自身が、
せっかく「見たい作品とはなにか」という話題が出ているときに、
その“見たい作品”であるかどうか、
その問を、ずっとこの1年間考え続けてきたように思います。
僕たちは常々、子どもたちに作品を見せようと思う時、
子どもが大人になるまでの間に、
子どもたちに知ってほしいこと、大人と一緒に考えてほしいこと、
そんなことを芝居を創造しながら考えています。
今、とても生きることそのものが困難な時代にあって、
その時代を共有する異年齢の人間同士として、
避けて通れない問題が、たくさんあり、
大人から、子どもたちに向けて話さなければならないことがある。
それが、僕らにとっては、
芝居なのです。
だから、今を生きる子どもたちに見てほしいし、
見て、一緒に話をしたい、
そんな話をしてきました。

それから、もう一つ。
“見たい作品”であるためには、
当然、作品の質の問題が問われることになります。
そのことは、
昨年から東京ではじめた“批評対話”を絡めて話をしました。
個々の劇団での不断の努力は前提として、
児演協でも、創造の質を高めあうための努力をしているということ。
こちらは少しづつですが、
何とか、創造団体同士が、創造の質の話をできるような“言葉”を獲得するために、
続けていきたいことです。
ちなみに昨年はこんな感じでした。
http://blog.goo.ne.jp/tee-akira/e/c4cbf576acd0535a7b74d13031aaa265

ということで、
『批評対話』は今年もやります。
21日・人形劇団ひとみ座
22日・劇団如月舎
23日・アートインAshibina
下記のサイトで、U-Streamにて生中継もおこないます。
興味ある方はのぞいてみてください。
http://www.ilios.co.jp/de
ai-no-forum-2011/

今年は、
さらに、やはり見てもらいたいという思いもあり、
この夏、大阪と福島でのフェスティバルにも参加します。
それについては、次のブログで紹介したいと思います。

児演協劇作講座

2011-02-19 10:15:08 | The Play for Children & Young People
劇団では『道路』公演中ですが、

本日発表会があります。
公演終了後に、
新宿に寄り道してはいかがでしょうか?


児演協劇作講座発表
17時半~21時
プーク人形劇場


17:30~『由美と健太とウタカタの詩』
作・桑原睦(TEE)

18:20~『冬が来る前に』
作・川上志野(TEE)

18:50~『黄金のリンゴ』
作・渡邊綾(児演協)

休憩

19:30~『紙と鋏』
作・西本勝毅(人形劇団プーク)

20:00~『演劇の未来』
作・太田昭(TEE)


作品ごとに講評などがありますので、
時間はあくまでも目安です。

東京演劇アンサンブルからは他に出演者として、
天利早智
小山えみ
三木元太
が参加しております。

喜多方発 21世紀シアター2010

2010-08-20 23:59:58 | The Play for Children & Young People
4日間のフェスティバルのうち、
2泊3日で、3日間を過ごすことができた。
17.5作品を観劇し、1作品のワークショップを覗いた。
10数年前に行ったデンマークのフェスティバルのように、
むさぼるように舞台芸術のシャワーを浴びれるのは、
やはり楽しいものだ。
この喜多方のフェスティバルの魅力は、
一つは、父親が客席に座っていることだ。
家族で観劇、という形が存在している。
ヨーロッパでは当たり前のこの光景が、
実は日本のフェスティバル、いやいや、
劇場では見ることができない姿だったりする。
観光地でもあるせいか、
これはうれしい光景だった。

そしてもう一つは、ボランティアの姿。
中学生くらいの子たちから大人まで、
小さな町のいたるところに、
ボランティアの黄色いTシャツ姿を見ることができる。
レンタル自転車で移動していた僕としては、
次の会場近くに行くと、
地図で確認する必要もなく、
黄色いTシャツを目指せば、そこに劇場がある、
というのが、けっこう嬉しかったりした。
これは、おそらく、
行政と民間のバランスがとれている形で運営されているのだろうなぁと思った。
ついでに、パスポートでラーメン50円引きも、
輪をかけて嬉しかった。

さらに加えて言うならば、
夜の交流会も、なかなかのもの。
その日の出演者と、主催者と、観客が、
まぁ、まぁ、適当に集まって、
会津の太鼓を聞きながら、酒を酌み交わす。
今回は、そこで知り合いになった方がいたり、
これまで話したことのなかった人と話せたりと、
新しい出会いが生まれる、というのが良かった。
終わった後も、さらに交流していただきました!!

他に類を見ない魅力的なフェスティバル。
見ると聞くでは、大違いだった。
財政的な問題はあれども、
なんとか来年は参加してみたいものだな、
と思ったのです。
この喜多方の人たちに、
このフェスティバルに来る人たちに、
大ホールでの魅力的な舞台を届けてみたいと思ったのでした。

批評対話/まとめ 出会いのフォーラム2010

2010-08-19 09:04:31 | The Play for Children & Young People
最終日の最後に、
講師のピーターと、レーネが話してくれたことを書いておこうと思う。

3日間を通して感じたことで、
どの作品にも、もう少しユーモアがほしいと思った、とのこと。
確かにこれは大事だ。
現在の日本の児童青少年演劇では、
その場しのぎ的というか、
一般的に「子どもにこびる」というのとは違う、
ドラマや、しぐさや、その人物像そのものが持つユーモアな感覚、
これは非常に表現が難しいが、
確かに、それは乏しい気がする。

ただ、今回の上演でのプークの『ねぎぼうずのあさたろう』は、
例えば浪曲を使っていたり、
誰もが知ってる人情話的な展開は、
ユーモアたっぷりだったとも思うので、
この辺はお国柄の違いなのかな、とも感じた。

そして、そのあとに、
今デンマークでは新しい創造の指針をもとに、
作品の評価を始めているという。
おそらくこれも、批評対話の流れの中で生まれてきたものだろう。
Y字を書き、
その3方向にそれぞれ評価基準があり、
評価によって、その長さを変えていく。
そのY字の形により、
作品の特徴や、バランスなどを図で表すやり方だ。
IAN(イアン)モデルと呼んでいた。
まずYの一角は、
“I”=Intention。
意図。コミットメントして、伝えようとする心があるかどうか。
“A”=ability。
能力。芸術的、技術的能力。俳優の能力。
“N”=necessity。
必要性。上演する重要性。観客のためか、自分のためか。
例えば、『ラリー』は、
IとNのラインが長く、Aが短くなるだろう、とのこと。
なるほどね。
批評対話の表現よりも、
もう少しわかりやすく、直接的だな、

さて、この批評対話。
3日間の講座が終了しても、
出会いのフォーラムのいたるところで、
作品の話をしている人が増えたという印象を多くの人から聞いた。
作品鑑賞後に、
鑑賞団体の人が、どのように創造団体に感想を伝えるのか。
実は、単純そうで、
いろいろな影響を与えることが多い。
それが良い意味でなら問題ないが、
違った意味で(誤解を含めて)伝わってしまうことが多い。
批評対話によって、どのように話せばよいか、
分かったように思う、という話を聞いた。

かつてあった“児演協”というブランドは、
過去のものとなり、
加盟劇団であることが、作品のクオリティの信頼になっていないとしたら、
悲しいことだ。
だから、この批評対話を、
派手目に宣伝し、アピールに使った。
今後も数年かけて、
自分たちで、日常的にできるようにしていきたいと思う。
簡単に、ひょいとそこへ行けるとは思わないけど、
できるだけ、多くの人を巻き込みながら、
先へ進んでいきたいな、と思っている。

批評対話Ⅲ 出会いのフォーラム2010

2010-08-17 09:26:26 | The Play for Children & Young People
批評対話3日目

対象作品は、
山の音楽舎
『うたのたね』



最初に演出家からの作品の意図が語られた。
全体に丸い形が入用二時にはふさわしいだろうということで、全体のコンセプトを既定した。角がなく、柔かいもので全体を統一しようと思った。
自分は専門は、“オイリトミュー”というダンスをしています。
音楽的要素がベースのコンサートというイメージがある。

それに対して、
まず子どもたちの感覚の領域は、思っているよりも、もう少し広いのでは?
対象が、0歳からとありますが、
コンタクトをとるのは、0歳の親子、
つまり、大人と子どものための劇のように思えた。
そうであるならば、大人を惹きつけることは大事な要素になりますが、
大人に対しては、少しゆっくり過ぎる気がしました。
もちろん、ワークショップのようなもので補える可能性はありますが、
しかし、作品は“見せるもの”ということは大事です。


それから、
ドラマには対立(conflict)があります。
しかし、それがありませんでした。
この理論のベースにあるものが、“わらべうた”でしたが、
そこにある祈りの心のようなものが、
いったい誰が、何を祈るのか、
矛盾のような、違いのある“願い”のようなものがなかった。


それに対して演出家からは、
そういう発想はなかった、との答えが。
しかしそれは、
ドラマを構築しようという発想がなかったのではないだろうか?
あくまで、演奏会である以上、
ドラマよりも重点が置かれたのが、うたである、ということではないだろうか?
もちろん、playとcommunicateのどちらもあるだろう、 とは講師の話。

そしてもう一つ特徴的だったのは、
荘厳的で、宗教的な感じさえしました。
通常よりも、息づまる雰囲気があり、
世界の中での調和ということが感じられました。
しかし、ルールが破られる、ということがなかった。
子どもの集中力をキープするのにも、
驚き(surprise)が必要であるべきです。
例えば、客席と舞台が入れ替わるとか、
大人の観客とだけコミュニュケーションする瞬間があるとか。
大人を招き入れるということも必要になってくる。
子どもにとって良い演劇は、
大人にとっても良いものです、とのこと。
至極当然だが、論議の流れからすると、
そこへのバランスが欠けているかもしれないとも思えた。


ある意味ストレートな演劇というカテゴリーには捉えづらく、
創造団体側もそれを狙っていると言える。
しかし、うたをベースに、そのストーリーを伝えようとしていることを考えると、
それは、ドラマを見せようとしているとも言えるのではないだろうか?
これに対して、創造団体側はあくまで音楽会だというのであれば、
この問題は平行線をたどってしまう。
しかし、演出家は、出された意見に対して、
おもしろそうに、言わば発展的に聞いていように思う。
その辺のバランスのとり方も、今後追い求めていただければな、と思うのである。

最後にキーワードだけ並べると、
対象年齢がどこにあるのか、
ドラマのあり方について、
子どものためということ、親子のためということ、
そして、
子どものために良い芝居とは、
大人にとっても良い芝居であるということ。

最後のそれは、本当に大切なことだし、
この仕事に携わるものすべてが、
そうありたいと思っている。
そういう話は、いつだって、何度だって、
話をしたらいいと思いました。


赤字=北欧講師2名の話

批評対話Ⅱ 出会いのフォーラム2010

2010-08-12 10:45:58 | The Play for Children & Young People
批評対話2日目

対象作品

東京演劇アンサンブル
『ラリー ぼくが言わずにいたこと』

最初に、前日のディスカッションを受けて、
いきなり劇団側への質問が、
この劇で最も重要な部分はどこだったでしょうか、
1センテンスで答えてください、とのこと。
これは、考えたなぁ、と勝手に思った。

俳優陣からの答えは、
「ジョシュがお母さんを失い、何を手に入れ、何を失ったか」
「ジョシュ・スウェンセンとは、いったい誰なのだろうか」
「ジョシュ・スウェンセンという男の子が、自分の素直な気持ちを誰かに伝えようとすることを獲得する物語」
そして演出家からは、
「僕の現実と夢」という答えが出ました。

それを受けて、講師からは、
最初は政治的な劇だろうか、と思った。
しかし、話が進むにつれ、男の子と女の子のドラマなのか、と思い、
両親と男の子のドラマなのか、
つまり、本当のドラマはどこにあるのか、
その核がどこなのか、それを知りたかった。


それに対しての演出家の答えは、
確かに政治的な部分はあるけれど、
自分が勉強してきたブレヒトや、チェーホフ、
その中で、今どんな芝居をしたら良いんだろうと考えたときに、
今失われつつある思想というものが、
現代の日本では、必要なのではないかと思った。
今、僕自身がどんな時代に生きているんだろうかということ、
そして、その歪んだ時代に影響を受けながら、
僕も生きているんじゃないかと。
けれど、ブレヒトやチェーホフを学んできた自分は、
未来に対するあこがれという思いは持ち続けたい、
でも、じゃ、舞台にする時にどうしたら良いんだろう、
現代をどんなふうにして捉えることができるだろうかということがあった、
と演出家から語られた。

そしてフロアに対しても、
この芝居の中で一番のテーマはなんだったか、との質問が出た。
「ジョシュはどういう人なのかな」
「ネット社会で簡単に作られるヒーローと、簡単に転落させられる」
「消費社会批判なんだけど、その批判自体が消費されてしまう重さ」
「消費にまみれている社会を否定して、世界を良くすることに貢献したいと願っていた青年が、好きな女の子に好きと言えなかったり、死んだお母さんのことを心の中で思い続けたりという矛盾を感じた」
「人間が生きる孤独、難しさ」
「孤独の中で求めている自己肯定感」
「人の孤独感というものが、一人が分かってくれるだけじゃダメなんだな」

そして、もう一つの質問。
たくさんのシーンの中で、どのシーンに最も心が動かされましたか?
「くそ、くそ、くそ、と叫ぶシーン」
「ヨガのポーズでバランスを取るシーン」
「ベスの店の裏で、ねじを数えているシーン」
「お義父さんとの会話。お前がすべてわかっているんだな、というところ」
「ラリークラブが動き出したときに、ベスがタトゥーを見せるところが象徴的だった」
「ベスが、私も昔から好きだったわと言うシーン」
「お母さんの思い出の場所のデパートの化粧品売り場のシーンが、孤独を感じた」

このようにいろいろフロアから聞いたのは、
やはりドラマ核がどこにあるか、
それをはっきりさせなければ、
話を進められない。
そして、ここでわかるのは、人間の関係性が書かれている芝居だということが、
わかってきた。
どうすれば、シニカルなラストシーンに向かっていけるのか、
ということに興味を持ちました。
原作のある作品で、
そのストーリーを追いすぎるとその核が難しくなってしまう。
例えば、ファッションショーのシーンなど、
繰り返しのシーンがあるので、
そういった部分をもう少しハイライトにできないだろうか、
と思いました
、とのこと。
こういう意見って、これまでで、一番突っ込んだ意見だな、と思った。

それから、ステージデザインがとてもエキサイティングで、
照明もきれいだった。
とてもオープンなスタイルだったのだが、
それが生かし切れていなかったように思う。
例えば転換や出入りが多く、
それがかえって気になってしまう。
何も起こらない2秒は、以外に長いものだ。
スクリーンをもう少し活用できないだろうか、
照明によってもっとフォーカスできないだろうか、
さらにダイナミックにできるのではないだろうか、

という意見が出された。

フロアからも、その後かなり具体的な意見が出されたが、
進行役の手腕もあり、
作品批判ではなく、発展的に向かう批評対話がなされたように思う。

最後に語られたのは、導入部のこと。
人間の関係性ということを考えても、
主要な3人の姿を、早くみたいと思う。
そこまで、なかなか時間がかかっていると思う。
どこからスタートさせたいのか、
ヒューマンストーリーにするには、 どうしたら良いのか、
そして、もう少し軽く書くこともできたのではないだろうか

といった話が出た。

ここまで突っ込んだ対話になったのは、
これまでと、何が違ったのだろうか?
一つは、これは予期しなかったことだが、
打ち合わせ時間が短かったために、
このような突っ込んだ話ができたとも思う。
しかし、より重要だと感じたのは、
劇団の演出家が、明確な作品の目指した方向性を提示したこと。
そして、作品が、まだまだそこに向かう過程にあることを赤裸々に語り、
やろうとしたことと、
まだまだできていない部分を提示したからだろう。
(もちろん、制作が口を挟まなかったのも、良かったかもしれない。)

最後に、キーワードだけ並べると、
ストーリーの核がどこにあるのか、
舞台装置の効果的な使いかた、
導入部からラストまでのバランスの問題、
といったところか。

僕としてはこの「批評対話」に出るにあたって、
すでに評価されている作品ではなく、
劇団の新しいレパートリーで、
野心的なものとしてこの『ラリー』を提出した。
これは、本当によかったと思う。
さらに作品を進化させるための、
大切なことが見えてきたように思う。
まぁ、最後にいいわけじゃないけど、
こうしたいな、と思っていたことが出てきたりして、
それも、おもしろかったというか、
方向性を確認できてよかった。

赤字=北欧講師2名の話

批評対話Ⅰ 出会いのフォーラム2010

2010-08-10 23:03:00 | The Play for Children & Young People
昨年岸和田の演劇祭で経験した「批評対話」、
今年は東京で開催しました。
3日間だけの企画ですが、
濃厚な3日間となりました。
ぼくらの劇団も参加しましたが、
その報告を書いておきたいと思います。


対象作品

人形劇団プーク
『ピーターとおおかみ/ねぎぼうずのあさたろう』


まず最初に触れられたのは、『ねぎぼうず…』について。
脚本にあるテーマが、
父親探しと、正義のために悪を懲らしめる、
という2つのテーマが描かれていたように思う。
そして、あさたろうが旅の中でいろいろな人と出会うのだが、
その登場人物たちが、いったいあさたろうにとって、
どういう役割がふられているのか、

ということに質問が及んだのだが、
なかなかその辺がかみ合わなかった。
原作絵本を舞台化したということと、
初演から、さらに登場人物を増やすというリクエストで、
作り出されたために、もう少しそこの出会いを考えたい、
との演出家の答えだったのだが、
おそらくここで聞きたかったのは、
もっとシンプルなことだったのだろう。
しかし、そのシンプルなことが、
実は定義されていなかったのではないだろうか。

そして話は『ピーター…』の方に移っていく。
すでに有名な作品であり、
世界でも、いろんな形で上映されている作品である。
最初に人形と人が合致しているところがすばらしい、という意見から、
ただ、役者が人形に隠れてしまっているのは、なぜだろうか。
『あさたろう…』では、その合致によって、俳優たちの表情もともに見ることができたが、
しかし、『ピーター…』では、時々、顔が隠されている。
そして、時々俳優の顔が観ることができる。
それが余計に興味をそそられるのだが、何か意図があるのだろうか?

という質問が出てきた。
俳優の目が気になってしまわないように、
子どもたちにより人形に集中してほしくて、そのようにしたとのこと。
そしてフロアからの質問でも、
その顔を見せたり、見せなかったりについてが出てきた。
ここで、演出家から語られたのはテーマが「自由」ということだった。
話が中盤になり、ようやく作品の狙い、方向性が具体的に出てきたように思う。
例えば、音楽もクラシックなものを使わないというのも、
その「自由」というテーマに沿ったものだし、
俳優たちにとっても制約のある戯曲ではあるのだが、
最後はそこから「自由」の獲得という意味で、
顔も出てくる、ということ。
そして、観客である子どもたちにも「自由」でいいんだよ、
というメッセージが込められている。

さて、そしてそこで指摘されるのが、
俳優たちの動き、ムービングについてだ。
音楽に対して、全体にうまく機能して、
正確にムービングがされていた。
しかし、そうすることによって、
得るものと、失うものが何があるかを考えなければならない。
もしかしたら発展できるチャンスを逃してしまっているかもしれない。
例えば、おおかみがあひるを呑み込むシーンは、
もっと見たかった。
さらっと終わってしまい、もったいないと思った。
色んなやり方で、見せることができたし、
音楽を遅らせてでも、物語の展開を見せることができたはず。
もっとオープンに、ディテールにこだわってやれるシーンではないだろうか。

ここで、作品の意図した「自由」の問題が、
音楽の制約によって規制されてしまった一つの事実が浮かび上がる。

そして、
フロアの発言も含めて、
音楽によって、舞台が支配されてしまっているのでは、
という意見が多く出てきた。
特に“ロバの音楽座”という特徴的な音楽集団によって作られた音楽であり、
ともすれば、そちらがメインになってしまう気がした。
台詞のないこの人形劇では、
音楽と俳優に、相互作用(インタラクティブ)がなければならない。
そこが、どうも偏っているように思えたのだ。

もちろん、
作曲家が稽古場に足を運べずに、
録音された音楽が届くなど、
諸般の事情があることもわかる。
しかし、たとえ楽譜があり、決まった音楽があったとしても、
それでもなお、「自由」をテーマにした作品の中で、
俳優たちが窮屈に、音楽に合わせることで精いっぱいとなってしまうのは、
やはり目指す方向としては、何かが足りないという気がしてしまう。

この辺の話をしたところで、
だいたい時間切れとなっていった。
『ピーター…』は新作であり、
非常に挑戦的な演目であった。
果敢に向き合おうとした劇団の姿勢は、高く評価できるし、
だからこそ、この「批評対話」にでてもらってよかったと思った。
反省点としては、
制作担当が解説しようとしてしまうところが、
ストッパーになってしまった感もある。
この辺は修正していきたいことだ。

しかし、
他劇団とはいえ、
僕としては、どうしたらよりこの作品が先に進めるのか、
ということが見えてきたと思う。
キーワードだけ並べても、
音楽と俳優の相互作用、
ディテールを見せること、
テーマを貫くこと(「自由」について)、
登場人物の役割、
といったところか。

特に『ねぎぼうず…』については、
浪曲であったり、日本人的感覚を要求される部分もあり、
もう一つ踏み込むためには、
やはり日本人同士でなければ、
とも思った。
それでも、
さらなる作品の向上のため、
この「批評対話」ではなされたことが、
作品を動かすきっかけになればなぁ、と思いました。

赤字=北欧講師2名の話