a letter from Nobidome Raum TEE-BLOG

東京演劇アンサンブルの制作者が、見る、聞く、感じたことを書いています。その他、旅公演や、東京公演情報、稽古場情報など。

『銀河鉄道の夜』福島、そして須賀川

2015-10-25 18:33:22 | 東京公演
10月22日の夜、福島文化センター大ホールにて、
「生業を返せ! 地域を返せ!」福島原発訴訟原告団・弁護団の主催で『銀河鉄道の夜』を上演しました。

「今年の1月に生業訴訟と関わり始めてまだ一年も経たないうちに、こんな日を迎えることになるとは……」

喜びと驚きをない交ぜにした、劇団員の正直な気持ちです。

大地震と大津波に加えて放射能汚染という複合災害に見舞われた現地に足を運び、人に会って話を聞くうちに、
私たちにとって福島と関わることは、どこかしら自然な、当たり前のことになっていきました。
そして、裁判の傍聴に行って報告集会で歌を歌うだけでなく、
やはり自分達の芝居を福島に届けたいと思うようになりました。
しかし、いざ上演が決まると、天災と人災の不条理に引き裂かれてある現地の人たちに、
本当に向かい合うことができるのか、大きなプレッシャーを感じてもきたのです。

そのせいか、この日は役者同士でお互いの緊張を感じあいながらの舞台となりました。
その緊張は力みにもつながりましたが、
一瞬一瞬を強く深く感じ取ろうとする瞬発力も生んだように思います。
「場面ごとにこれまで福島で見たり聞いたり感じたりしてきたことがフラッシュバックする1時間半でした」
という永野愛理の感想に頷けるところがありました。

終演後、弁護団事務局長の馬奈木さんは、
「本当の幸いとはなにかという問いかけを持つ宮澤賢治の銀河鉄道の夜は、
生業訴訟をたたかう私たちにとって、ぴったりの作品だったと思います。」
と言われました。
語り手役の松下重人は挨拶の中でこう言いました。
「“ 思うことはねうちになる。かたちになる。”変えようと思えば世界は変えられる。
そんな宮澤賢治さんの世界を、どうしても福島のみなさんにお届けしたかったんです。」
それを聞きながら客席のあちこちで頷く人の姿が見られました。

舞台セットの後片付けは、
東京演劇アンサンブルの劇団員と生業訴訟原告団・弁護団の方たちで一緒に行いました。
原告団長の中島孝さん自ら重い装置を持ち、
トラックに乗り込んで汗だくで働く姿に劇団員も大盛り上がり。
原告団事務局次長の服部祟さんのノリのいい仕切りもあって、
あっという間に終わりました。
こんなに楽しい後片づけは久しぶりでした。

深夜の交流会で、服部祟さんから報告がありました。
「今日は700人を越える方々に来てもらいました。
アンケートは150も集まっています。
普段一人で出てくる父ちゃんたちが、今日は母ちゃんを連れて来てくれた。
見終わって出てくるみんなが、いい顔をしていたのがよかったです。」

また、原告団事務局長の服部浩幸さんは、
「身内に見られると思うと緊張するものです。
アンサンブルの皆さんが緊張したということは、
もう皆さんと私たちの関係が他人ではない、
一線を越えたということです(笑)」
と言って下さいました。

馬奈木さんは、福島公演の意向を劇団から打診されてからも、
原告団の方たちにそれをなかなか言い出せなかったといいます。
「原告団がどれだけのことをしなければいけないかを、私なりに考えたので。」
大震災と原発事故で大きく揺らいだ日々の暮らし。
国と東電を訴えた裁判継続のための様々な活動。
その中で演劇公演という大きなイベントを準備し、
成功させることがどれほど大変かを、馬奈木さんは気遣われたのだと思います。
「今日ほど一秒一秒が愛おしく思えたことはありませんでした。」
「みんなが誰かを連れて来てくれた。この生業訴訟が広がりを持ったのです。」

私たち東京演劇アンサンブルと生業訴訟の出会いを取り持って下さった馬奈木さん、
公演の準備に奔走して下さった二人の服部さんはじめ、
原告団や関係者の皆さん、
会場に来てくださった700人もの方々、
そして見には行けないが協力したいといってチケットを買って下さった多くの方たちに、心からお礼を申し上げます。
皆さんのおかげで、とても得難い時間を過ごすことができました。本当にありがとうございました。

ある原告団の方がこう言われました。
「私たちのたたかう姿、声が、東京演劇アンサンブルの演劇につながる。そう思って頑張ります。」

東京演劇アンサンブルの演劇が、生業訴訟の方たちの運動、生き方につながる―――そう思ってもらえるように、こちらが頑張らねば。
そう思いました。

生業訴訟原告団事務局長の奮闘記、福島原発事故被害弁護団のFacebookで、この日の写真をアップしていただいております。
どうぞご覧下さい。


翌日、東京への帰り道、
私たちは福島の公演にも駆けつけてくれた須賀川の農家、
樽川和也さんとお母さんの美津代さんのお宅に立ち寄りました。
大勢で押し掛けたにもかかわらず、あたたかく迎えていただきました。

樽川さんの住む大桑原という集落は、
緩やかな起伏に富んだ、美しいところです。
粘土質の土は稲作に向いていて、美味しいお米が育つそうです。
事実、差し入れにいただいた新米のおにぎりは、大粒でもちもち、
冷めても実に美味しいおにぎりでした。

ひと仕事終えた心地よい疲労感の中でお茶をいただきながら、楽しく過ごしました。
初めてここを訪れたのが今年の3月。
6月には和也さんに劇団主催の憲法集会に来ていただき、10日ほど前には稲刈りのお手伝いにも何人かで伺いました。
その折に、こうしてお付き合いの続く奇妙なご縁に、
「父ちゃんが引き合わせてくれたんだァ。みんなで原発なくせって。」
と言った美津代さんのことばが忘れられません。


「サウザンクロスの彼方で聞こえた父が息子にあたえる歌」

息子よ
父と遠く離れて
おまえは さびしいか
けれど息子よ
父の居ない食卓を
さびしがるな
父の居ない日曜の朝を
さびしがるな
息子よ 私も
かたぐるましたおまえを
夢みることをやめよう

君はおさない
父の仕事がわかるには
おさなすぎる
けれど息子よ
お前の小さな手で
こぶしをつくれ
やがて父をのりこえる
日がすぐ来る
息子よ 私は
その日につづく闘いを
今 闘っているのだ

君は自分の価値(ねうち)を
ひとりでみつけ出せ
君と僕と腕を組める日は
もう来ないのだ

息子よ 息子よ
遠く離れたところで
私はお前を
呼んでいる

広渡常敏 作詞
林光 作曲


原発事故のあと自死された和也さんの父、久志さんは、
原発の危険性や日本の食料自給率の低さを早くから憂えて、
先の読める人だったそうです。
舞台の終盤で車掌によって歌われるこの歌は、
和也さんの胸にどのように届いたのだろう。
訊ねてみたいと思いながら、とうとう最後まで言い出せずに手を振って別れました。





文責:竹口範顕

福島原発 生業訴訟と銀河鉄道の夜

2015-10-19 13:19:42 | 旅公演
10月16日、
福島原発 生業訴訟原告団・弁護団による、
福島県庁への要請行動に同行しました。

県庁内の一室は100名を越える原告団に、弁護団、
「原発なくそう! 九州玄海訴訟、川内訴訟」の弁護団の方など、
合わせて150名ほどの人でいっぱいになり、報道陣の方もたくさん詰めかけました。
県側は知事は出席せず、
原発事故被災行政に関係する様々な課の管理職がずらりと並んで対応しました。



この日の原告団・弁護団の最大の主張は、
「年間被曝線量20ミリシーベルト以下なら我慢しなさい」という国の考えを県(知事)は認めないでほしい、
ということでした。

20ミリシーベルトで線を引くことには3つの側面があるといいます。
「20ミリ以下なら大丈夫ということになる」
「だから20ミリ以下なら被害とはみなさない」
「だから20ミリ以下なら賠償や支援も打ち切る」
国は実際に、この考えに沿うように避難指示の解除や賠償の打ち切りなどの方針を発表しています。

原告団のある女性はこう言われました。
「小高(南相馬)から松川へ避難していた人が、
“帰るしかない、もう補償が出ないんだから”と、
庭に小屋を建てて帰る準備をしていました。
県は国に、福島の人々を何と思っているのか、と言ってくれないんですか?
私の孫は高校の合格発表を、あの事故の直後の雪の中で見ていました。
甲状腺ガンのことを考えると不安でたまりません。
この不安を抱えて黙っていなければならないのですか?」

これに対して県側は、
原発事故について、国には原発政策を進めてきたものとしての責任が、
東電には加害者としての責任がある、
と明言したものの、
20ミリシーベルトという国の方針については、
国が決めたことだから県としては言うことはない、と回答を拒みました。

原告団のある男性はこう言われました。
「国の所管だから言うことはない?
あの事故のとき、SPEEDIのデータは福島県にも届いていた。
しかし県は国が公表しないから県もしないと言ったな。
おんなじじゃないか。」

弁護団
「20ミリシーベルトという基準を、県としては問題視したことはあるのか」


「…………」

弁護団
「この数値は高すぎるのでは?
という申し入れを国にしたことはあるのか」


「……把握していません」

弁護団
「国の方針について、県は“それはおかしい。
20ミリシーベルトは高すぎる”とか考えないのか。
聞きたいのはその一点なんですよ。
国に対して、この基準を撤回しろ、
とわれわれは言ってもらいたいのだが、
その気はないのですか」


「今日は答えられません。
皆さんのお気持ちは受け止めました。
県としてはこれからも県民に寄り添って、真摯に対応していく考えです」
 
原告
「前もって要請項目を書面で提出した上でこうやって来ているのに、話を聞きました、
だけじゃ意味がないんだよ!」

………といった調子で埒があきませんでした。


原告団・弁護団は、県(知事)が福島県内だけでなく、
あらゆる原発の廃止を求めてほしい、とも要請しました。
県側の答えは、
「県は方針として脱原発を打ち出している。
無責任に原発廃止を求めるのではなく、
再生可能エネルギー推進を掲げて全国に働きかける、
それが福島のすべきことと考えている。
県外の原発について発言する立場にない。」
というものでした。

弁護団は、
「では世界中の核兵器廃絶を訴える広島と長崎の市長は無責任なことを言っているのか。
原発事故の被災地である福島のトップが全原発の廃止を言わなくて誰が言うのか、と言いたい。」
と訴えましたが、県側の答えは変わりませんでした。

この日、
「原発事故については国と東電に責任がある」
「20ミリシーベルト以上、以下に関わらず、損害があるかぎり補償すべきと考える」
「避難指示区域外からの自主避難者については、国の補償が打ち切られた後、県独自の支援策を講じる」
「避難指示が解除になったからといって、帰らなければならないとは考えていないし、
帰らないという選択をされた方にもケアの方策を立てなければと考えている」
など、県の踏ん張りが感じられる応答もあったのですが、全体としては、

「国と東電との交渉をいま、われわれがやっている。県が前面に立ってやってくれないのか」

という原告団の声が、至極まっとうに聞こえる2時間半でした。

最後に原告団の中島団長が県の管理職の人たちにこう訴えました。
「先日、沖縄の翁長知事は、日本はいま日常(民主主義)から非日常(中央集権)に紙一重で変わる一瞬を止めきれるかどうかの局面にあるといわれた。
福島もいま、紙一重のところに立っています。
どうか沖縄の姿勢を見習って、われわれの申し上げたことを政策課題として取り組んでいただきたい。」



国が推し進める“20ミリシーベルト受忍論”がこの裁判で認められると、
もしもこの先福島のような事故が起きたとき、
この数字が先例となってさらに多くの犠牲者を生むことになる―――

原告団の方たちが求めているのは賠償だけではありません。
全原発の廃炉です。
それぞれが抱える事情や立場を乗り越えて、その目は遠く未来を見ています。

今月22日、福島文化センターにおいて、
生業訴訟の原告団・弁護団主催で『銀河鉄道の夜』を上演します。
この方たちの前で舞台に立つことを恐ろしく、また誇りに思います。
宮澤賢治のことばと福島の人たちの間に立って、
本当の幸いを求める心が共鳴する空間を作り出すことができるか。
私たちにとって大きなチャレンジです。


この公演と生業訴訟については、
「生業を返せ! 地域を返せ!」福島原発訴訟原告団・弁護団のwebサイトをご覧下さい。
「原告団・弁護団の活動」をクリックすると、「銀河鉄道の夜」のお知らせを見ることができます。

文責:竹口範顕

福島原発 生業訴訟見学

2015-10-04 00:37:12 | 東京公演
9月29日~30日。
東京演劇アンサンブルのメンバー15人で福島原発 生業訴訟の見学ツアーをしました。
今年の1月から数えて5回目のツアーです。

人間の尊厳を求めて国と東電を相手にたたかう人たちに、
私たち東京演劇アンサンブルを引き合わせてくれたのは、
この訴訟の弁護団事務局長を務める馬奈木厳太郎さん。
29日はその馬奈木さんのガイドで立入制限区域へ行きました。



福島市内から浜通りの浪江町に抜ける国道沿いを走る車窓から見えるのは、
人のいない荒れた田畑、人のいない家々、人のいない学校。
「青いリボンを結んだ棒が立ててあるのは除染が終わった印、
赤いリボンならまだ除染が終わっていないということ」と、
馬奈木さんが教えてくれる。
中には突き立てた棒から棒へ渡した紐に、
狂ったように何本もの赤いリボンを結んであるところもある。
まるでこれからお祭りでもあるのかといったふうだが、
事情を知って見るこちらの目には、
ただただ異様に映る。

原告団副団長の紺野さんのお宅を訪ねた。
2007年に建てたその家はまだ木が新しく、
2011年の地震でも殆んど傷まなかった。
しかし、線量が高いので勿論住むことは出来ない。
玄関の中に掛けてある月間の予定表には、
2011年3月のスケジュールがそのまま残されている。
今年1月に伺った時から8か月分の埃が床に降り積もっているように思えた。
大熊町からよく遊びに来ていたというお孫さんは県外へ避難し、
紺野さんは現在、
福島市内で暮らしている。
前回同様、黙って案内してくれる紺野さん。
その胸のうちはどのようなものなのだろう。


そこから双葉町の請戸地区へ移動。
第一原発から5キロ程のところにあるこの地区は、
高線量のために除染が進まず、
1月に来たときには緑のない一面の泥地に、
流されてきた漁船が何艘も転がっていたが、
今はほぼ片付けられ、
奇跡的に残った家が数軒と請戸小学校が草原の中に立つばかり。
小学校の敷地では作業服姿の人たちが動いていた。
解体作業が始まろうとしているのかも知れない。





「この小学校の生徒さんたちは、前日に避難訓練をしていたため、全員が無事避難しました」と馬奈木さん。
人は避難させられても、原発は避難させられない。
再稼働?
なに考えてんだ?

夕刻、原告団長の中島さんをお訪ねしました。
中島さんは相馬市内で中島ストアーを経営されています。
この日の私たちの昼食は中島さんが自ら届けて下さった中島ストアーのお弁当でした。
一日300食出るお弁当は中島ストアーの主力商品。
私たちが伺ったのはちょうど夕方のお買い物のラッシュアワーで、
たくさんのお母さん方で賑わっていました。
そんな時間帯にも拘らず、
中島さんは私たちを喜んで事務所へ招いて下さいました。



震災後、夜になって明かりのつく家が、
一軒、また一軒と減っていくのを見て不安だったという中島さん。
「でも津波にやられなかったうちの店は、
この辺りの食料供給基地だったんだ。
周りには一人暮らしの老人もいる。
逃げるわけにはいかなかった。」
凛としたものを内に湛えて、
「俺は魚屋だよ」と朗らかに笑っている中島さん。
この人の魅力を語る言葉を持たないことがもどかしい。
でも、この人が団長さんだから人が集まってくるんだと思う。

夜は福島市内に戻り、記者レクというものに立ち合わせてもらいました。
報道機関の記者の人たちに語る馬奈木さんのことばは熱を帯びていて、
翌日の裁判がこの訴訟の山場であることを感じさせました。
報道陣の馬奈木さんへの質問が終わると交流会となり、
劇団員も記者の方たちや原告団事務局長の服部さん、
先月の公演『どん底』のアフタートークに来ていただいた白井聡さんらと日付が変わるまで交流させてもらいました。
その中にはおしどりマコさん、ケンさんのお二人もいました。
「生業訴訟に関わりながら生業をなくしつつあります」と、
自らの境遇を笑い話にしてしまうお二人ですが、
吉本興業に籍を置きながら原発に関するジャーナリストとしても活動するには、
なかなかの苦労があったことも教えていただきました。
お二人は日本各地だけでなく、
ドイツにも講演や取材に訪れ、
文字通り東奔西走の日々を送っています。


30日、福島地方裁判所で第14回期日を傍聴しました。
この日はリスク心理学の専門家、
同志社大学教授の中谷内一也さんへの尋問が原告、被告(国と東電)双方から行われました。
中谷内さんは、
人がある出来事に対して「恐い」「不安だ」と感じる心の働きをとても分かりやすく説明されました。
「年間20ミリシーベルト以下なら大丈夫。もう帰ってきていいよ。」という国や東電のことばに対して、
「いや、それでも恐い。不安だ」と感じたとしても何の不思議もない、
ということを主張されたのです。
言ってみれば当たり前のことを言われたわけで、
国や東電の代理人だって頭のいい人たちなのにそんなことも分からないのか、
と言いたくなりますが、
当たり前の事でも立証しなければならないのが裁判というもののようです。
国と東電の反対尋問は馬奈木さんいわく、
「質問すればするほど、こちらの主張を補完する結果に」なりました。
中谷内証人の尋問は、原告側の圧倒的優位の内に終わりました。

この日の裁判の山場は、このあとの原告弁護団の弁論にありました。
裁判はこれから被災者である原告の方たちの本人尋問へと移っていくことになるのですが、
被災地の様子を裁判官が直に見た上で、
原告本人の話を聞き、
判決を下すべきだというのが弁護団の考えです。
ところがこの日、弁護団が何度食い下がっても、
裁判官は現地を検証すると明言しませんでした。
閉廷後に行われた裁判官・原告弁護団・被告代理人の三者協議の場で裁判官は、
次回の期日(11月)までには回答します、
といったそうですが、予断を許さない状況です。

福島県立文化センターで裁判の報告集会が行われました。
傍聴出来なかった人たちにもわかるように、
馬奈木さんから裁判とその後の三者協議の模様が伝えられ、
その後ゲストの方たちからも発言がありました。
政治学者の白井聡さんは言われました。
「大きな講演会じゃなく、小さな学習会でも私を呼んで下さい。できることはなんでもやります。」
映画『大地を受け継ぐ』の映画監督の井上淳一さんも、
「役に立つのであれば、この映画をどんどん使って下さい。」と原告の皆さんに呼び掛けられました。

私たち東京演劇アンサンブルは今回も歌を届けることにしました。
ソル・チャンス作詞、林光 作曲の「石ころの歌」です。

力いっぱい投げつけた
石ころのように
やつら目指して
突き当たって行けば
石ころ
すべて火花となるのだ


この歌を歌いながら、会場にいる原告の皆さん一人一人が火花となった石ころなのだと思いました。

最後に原告団の中島団長が挨拶されました。
「私たちは対立を恐れてはなりません。
岡田尚弁護士はこう言います。
“対立こそが事柄の本質を明らかにすることであり、そこから相互の理解や和解へ至る道筋がある”
たとえ相手が国でも、我々は言わなければならんのです。
原発はいらない。
戦争するな、と。
誇りをもってこの闘いを続けましょう。」

生業訴訟は原告団4000人を数える大きな訴訟です。
しかし、事の重大さに見合うだけの注目を集めているとは言えないのも確かです。
国や東電が踏みにじろうとしているのは原告の人たちだけの尊厳ではありません。
日本に暮らす私たち一人一人の尊厳なのです。
これは原告の人たちだけの闘いではありません。
私たち一人一人の闘いなのです。
一人でも多くの方の目が福島の方たちの闘いに向けられることを願います。


生業訴訟については「生業を返せ、地域を返せ!福島原発事故被害弁護団」のホームページFacebook
「生業訴訟原告団 事務局長奮闘記」Facebookなどをご覧下さい。


文責:竹口範顕