a letter from Nobidome Raum TEE-BLOG

東京演劇アンサンブルの制作者が、見る、聞く、感じたことを書いています。その他、旅公演や、東京公演情報、稽古場情報など。

TEEリレートークVol.14 『ジョヴァンニのいないクリスマスなんて…』 太田昭

2018-12-29 17:08:07 | 劇団員リレートーク
12月26日、
『銀河鉄道の夜』の公演が終わり、
打ち上げ。
27日舞台のバラし、夜は運営委員会。
28日劇団総会、納会準備。
29日納会。
これが東京演劇アンサンブルの年末のあり方だ。

今年はブレヒトの芝居小屋での最後のクリスマス公演ということもあり、
早々にチケットが完売した。
訪れてくれたお客様の中には、
30年前に来て以来という方が、
お子様を連れてきてくれて、
当時の古い当日リーフレットを見せてくれた。
そんな話がいくつも聞けた公演だった。
ブレヒトの芝居小屋での『銀河鉄道の夜』は、
やはり、なんだか特別な公演だ。



36回目とあるが、
聞いただけで、2回、お休みしている年がある。
1度目のことはずいぶん古くてぼくは知らないのだが、
2度目はぼくが劇団に入団した年だったので、
記憶に残っている。
1996年。
この年の12月は木下順二作『沖縄』のベトナム・イタリア公演だった。
ぼくは入ってまだ1年も経っていないのに、
イタリア公演の旅制作をさせられた。
どんな仕事をしたかなんて、ちっとも覚えていない。
ツアコンに毛が生えたような、
素人の付き添いみたいなもんだったろうと思う。
そのイタリア公演がクリスマスど真ん中の時期だった。
だから、1996年の12月には、ブレヒトの芝居小屋に軽便鉄道は現れなかった。



1995年に大学4年生になったぼくは、
就職活動を躍起になって行う同級生たちを尻目に、
むさぼるように芝居を観ていた。
それこそが自分の就職活動だと言わんばかりに、
この年100本を超える観劇をしていた。
教職をあきらめ、
ネクタイをしない仕事を選びたい、
それが必然的に演劇の道へと足を向けたのは、
子どものころから「例会」として出会って来た、
舞台劇の魅力に取りつかれ、
その世界へのあこがれを持っていたからに他ならない。
100本も見ていくと、
だんだん自分の好みというか、嗜好というか、
やりたい芝居がどんなものか、おぼろげながら見えてくる。
言葉にすると、
大人のための芝居も、子どものための芝居も、どっちもやっている劇団がいい。
啓蒙ではなく、問題提起してくれる作品がいい。
舞台にいる俳優だけでなく、そこに関わる人たちの息遣いが聞えてくる作品がいい。
そんな折に出会ったのが、
東京演劇アンサンブルの『奇蹟の人』だった。



ラストシーンで、
ヘレン・ケラーが言葉を獲得する瞬間に、
アニー・サリヴァンが庭のポンプから水を出すのだが、
舞台上では、ジャンジャン本当に水が出てくるのだ。
下手の端の一番前の席にいると、
もう水がジャンジャンかかっちゃうのだ。
ブレヒトの芝居小屋とは、
そういう劇場なのだ。
そして、終演後、この水に何やら毒が盛られていたのかもしれないが、
その場で制作部長さんを捕まえて、
卒業したら入れてください、
と思わず言ってしまった。
では、夏休みに稽古場にいらっしゃい、ということで通ったのが、
『沖縄』の稽古場だった。
敗戦50年の年に、ほとんどの劇団は、
戦争に関する作品の上演をしていたのだが、
東京演劇アンサンブルは、
「戦後の差別は沖縄だ。敗戦50年の年に沖縄にを取り上げる」
という言葉をタリさんから聞いたとき、
ものすごいところに足を踏み入れたな、
という気がした。

あれから20年以上経ってはいるが、
いまでも、大人のための演劇も、
子どものための演劇も、
どちらも作りたい思いは変わっていない。
そういう意味でも、
毎年のクリスマス公演は、
どちらも満たされるものだったとあらためて思う。









来年の今頃は、どんなことを想うだろうか。
ジョヴァンニも、カンパネルラもいないクリスマスに。
しかし、劇団は、
新たな根拠地を求めて動き始めている。
きっと新天地でも、
『銀河鉄道の夜』のような、
東京演劇アンサンブルらしさの漂う公演を生み出せるに違いない。

さて、年が明けて3月には『クラカチット』。
クラカチットとは原子爆弾のこと。
ブレヒトの芝居小屋を破壊する最後の公演。
どこの岸辺に着くかもしれず漕ぎ出す船乗りのように、
また、次の仕事も始めようと思う。



来年の12月27日は大掃除と運営委員会してるかな。
28日は総会かな?
29日は納会かなー?
タイトルは、1996年12月のレターに洋佑さんが書いた文章のパクリ。
年明け、次は、その洋佑さんになりまーす。

第7回 戯曲を読む会のご案内

2018-12-28 11:01:00 | 芝居小屋企画

第7回 戯曲を読む会

新企画として、6月から月一回を目処に、「戯曲を読む会」を開催しています。

東京演劇アンサンブルの若手の提案による、いろんな戯曲を皆で声に出して読んでみようという会です。

ワークショップという形式ではないので、どなたでも気軽に参加出来ます。

第7回は篠原久美子さんの「空の村号」を読みます。

12月中旬にブレヒトの芝居小屋でリーディング公演があったばかりの作品です。
劇団としては、2012年以降、洪美玉が出演していたのでご存知の方も多いかと思います。


戯曲に興味がある方、作品について話し合ってみたい方等、お気軽にご参加下さい!

日時 1月26日(土) 18時30分~21時30分
場所 ブレヒトの芝居小屋
参加費 500円(会場費等)

参加希望の方は2日前までに03-3920-5232、もしくはteeyomukai@gmail.comご連絡ください。
ご質問等もお気軽にお待ちしています。


第6回の作品はアーサー・ミラー作「みんなわが子」でした。

東京演劇アンサンブルの前進の劇団である劇団三期会の立ち上げの作品ということもあり、戦争における個人の責任についてなど、色々と話しました。

この日もプロダクションに所属している俳優の方や、劇団の古くからのファンの方などが来てくださいました。


チラシデザインは劇団員の山﨑智子です!
今回のためにまた新しくバージョンアップして新しいものを作ってもらいました!
そちらもご覧ください!!

東京演劇アンサンブルHP
http://www.tee.co.jp


篠原久美子 (しのはら くみこ)
1960年生まれ。茨城県出身。横浜市在住。劇団劇作家代表。昭和音楽大学非常勤講師(台本シナリオ演習)。公務員、舞台照明家を経て劇作家に。1999年『マクベスの妻と呼ばれた女』で日本劇作家協会優秀新人作品に選出、2000年『ケプラー・あこがれの星海航路』で文化庁舞台芸術創作奨励賞佳作。2005年、『ヒトノカケラ』で鶴屋南北戯曲賞ノミネート。2013年、震災後の演劇を考える児童・青少年演劇劇団協同組合合同公演『空の村号』で斎田喬戯曲賞。劇作のほか演劇教育にも携わり、2010年、実践記録『子どもたちと一緒に脚本を作る』で、第51回 演劇教育賞・特別賞受賞。

京演劇アンサンブル
1954年4月,俳優座養成所を卒業した3期生の有志が結成。初めは劇団三期会を名のったが,67年 12月現名称に改称した。早くからブレヒト作品に取組み,80年元映画スタジオを改装して設けた劇場「ブレヒトの芝居小屋」を開場,活動の拠点とする。広渡常敏演出によるブレヒト作『セチュアンの善人』,『ガリレイの生涯』,チェーホフ作『かもめ』などが代表作。岸田国士作品の連続上演も行なった。


TEEリレートークVol.13 『新しい場所』 公家義徳

2018-12-21 16:45:05 | 劇団員リレートーク


あと半年もすれば、ぼくたちは今とは別の場所に新しい拠点を構えているのだろう。
そしてそれからまた半年もすれば、少しずつ慣れてきた新天地で、
ブレヒトの芝居小屋のことを思いだしながら、また新しい作品創りに励んでいるのだろう。
もともとはアナーキーで遊牧民的な生き方に憧れていた劇団なのだから、こんなこともあるだろう。
人生はそう甘くはない、甘えはよくない、
それに生活には変化が必要だ。
そう思うことにしよう。



環境が変わることでなにかは確実に変化する、良くも悪くも。
しかし劇団の財産は人と作品なのだから、人がどこからでも集まってくるような芝居を作ることを考えよう。
演劇を続けながら人生を送れるなんて、こんな幸せはなかなかない。
それをきちんと手に入れよう。
人生の困難は乗り越えるためにある。
続けることは才能につながる。
芝居は生き方そのものなのであって場所ではない。
芝居は“わたし”そのものだ。
だから“わたし”がしっかりしていなければ芝居はフニャフニャにしかならない。
フニャフニャな生き方ではつまらない。
生き方に場所は関係ない、おそらく。



今は亡き演出家の広渡さんからぼくがさんざ教え込まれたこと。
あらゆることにおいて安定することなく、
常に不安定な足場の上に身を置いて歩みを進めること。
そしてそこに身を投げ出すための覚悟と不安(矛盾)を抱きながら、
その行為の先に生まれるであろう“なにものか”を信じること。
それから、ナイーヴであること。
じぶん自身と向き合うことを忘れずに世界を見つめること。
などなど、おそらくこれはキラキラと生きるための秘訣だ。
この秘訣をいつか手に入れたい、と思っている。



『かもめ』のトレープレフは「新しい形式が必要なんです!」と叫び続けている。
世界中で、かれこれ100年以上も前から。
東京演劇アンサンブルの前身であった三期会はチェーホフ研究会だった。
頭と心を柔らかくしよう。
鈍感なじぶんの日々の態度に疑いのまなざしを向けよう。
そしていろんなことを努力して手に入れよう。
日々世界で更新されていく情報に意識を傾けて、感覚を研ぎ澄まそう。
これから先劇団がどうなるか世界がどうなるかなんて一寸先のことはわからないけれど
「何処の岸辺に着くかも知れぬ船乗りのように」
勇気を持って船出しよう、新しい始まりを迎えられるように。


TEEリレートークVol.12 『言いだしっぺなんだが』 小森明子

2018-12-15 09:17:55 | 劇団員リレートーク


言いだしっぺなんだが、何を書いてよいのかわからない……。
『銀河鉄道の夜』はおかげさまでかなり満席となりました。
23日夜と25日夜はまだ余裕あるんですが……。

1989年1月15日、昭和天皇が死んですぐに劇団に入った。
わたしたちの劇団は年号は使わない。
だからいま平成何年かわからないのだけれど、
考えてみたらその平成という年の分だけわたしは劇団にいたことになる。
89年は世界的にも激動の年だった。
東京オリンピックの年に生まれ高度成長期に育ちバブル期に卒業した、
いまから思えばとても楽天的な世代。
それでも天安門とベルリンの壁崩壊は驚天動地の事件だった。
その年から始まった劇団生活はイコール芝居小屋での勉強生活であり、
まあ、家とか学校のようなものだった。
自分のアパートをいくら引っ越しても、芝居小屋があるからたいしたことはなかった。
子育てもした。
保育園から息子を連れてきては、そこらへんにはなっておいた。
若い研究生や劇団員が面倒を見てくれた。
だから〝おっかない小森さん〟という制作者でいられた。



ここがなくなる、ということはまだよくわからない。
建物が壊される日には見に来るんだろうな、とか諸々想像はしてみるが……

先輩方が建てた稀有な空間であり、
広渡常敏の城であり、
やさしかったり厳しかったり仲が悪かったり良かったりドロドロだったり……、
つまり世間と同じである。
ただ、芝居を創ることに向けての集中力と諦めの悪さはすごい。
それを許す場所を持っていたことは、すごい。



イベントもした。
岡本有佳氏とは、広渡常敏と編集者の松本昌次という犬猿の仲良しの後継同士として知り合った。
彼女とやった数々のイベントは新しい試みだった。
芝居小屋に様々な文化人が集うすごい機会だった。
少女像まで腰を落ち着けたし!!

大家さんも、お金に縛られないで、このすごい価値を堪能しつづけてくれたらいいのに、と思う。
もっとたくさんの演劇人と組んでここの継続を狙えばよかった、とも思う。
けれども、星の数ほど劇団があるのは、
星の数ほど表現方法が違うということなのだから、簡単に劇団が組むなんてできないよな、とも思う。

だから、わたしたちは、移転する。
結局わたしたちの芝居小屋だったのだ。
いろんな風に利用したけれど、東京演劇アンサンブルの拠点だったのだ。
遠い、暑い、寒い、腰が痛い……さんざん言われ続けてきたけれど、なくなると寂しいでしょ?
こんなお化け屋敷(笑)

年末の納会では、小森、一応最後の厨房です。
壇一雄が「同じ釜の飯を食うんだろ?」と贈ってくれた厨房セット一式もいまはシンクとオーブンが残るだけ。
で、100人分ぐらいのパーティー料理をつくらねば。
そして最終公演は未だ形の見えないカレル・チャペックの『クラカチット』。
原子爆薬とメロメロ恋愛ドラマの変なSF小説の舞台化なんだが……まだまだドタバタはつづく。
そして夏、嵐のように、新天地求めて船出します!!
気の休まる暇のない、いつでも事件だらけの東京演劇アンサンブルより愛をこめて~


TEEリレートークVol.11 『お母さんはぼくを許してくれるだろうか』 志賀澤子

2018-12-04 15:30:20 | 劇団員リレートーク


たけちゃん(竹口範顕)の『銀河鉄道の夜』の話から受け継ぐと、
私にとってのジョバンニ、カムパネルラ、語り手についても書きたくなります。
そのたちあげの時には「おかあさんはぼくを許してくれるだろうか」と銀河の底で叫ぶカムパネルラとして舞台にいました。
『銀河鉄道の夜』は私にとって喪失、再生そのものでした…
高円寺にあった自前の稽古場から始まりブレヒトの芝居小屋に移って稽古をし、初演を迎えました。

ブレヒトの芝居小屋の私の好きな場所はロビー。
写真とポスター、岡島茂夫さん(ほとんどすべての芝居の舞台装置をデザインした)の絵「対話」。
そしてディグコーヒー。
そこにいつもタリさん(演出家広渡常敏)がいて、選りすぐりの道具でコーヒーをいれていました。
本番で客席に入らない時は、いつもコーヒーカウンターの上にあるモニターをききながら、
主演俳優の芝居についてアシスタントの私に文句を言ってたので、
私が出ている時は、きっとその時のアシスタントに同じように私の芝居のこと言っていたに違いないと思ってました。
そして今気がついてみると、
広渡常敏が居なくなってもう12年、
とうとうブレヒトの芝居小屋が終わる時を迎えることになりました。



ブレヒトの芝居小屋に移るというのは、革命だったのです。
それまでの曖昧な価値観を捨てて、演劇で、世界を見る。
マイノリティとして生きる、自らの価値は自分でつくる。
マスコミではなく、演劇で生きる。それからそのようにやって来ました。
大変だった、革命だったから



1984年死んだ津金伸行のことも思います。
労演が市民劇場、演劇鑑賞会に名前を変えた時期、
東京演劇アンサンブルは劇団三期会から名前を変えて10年くらい経っていて、
毎年全国の演劇鑑賞会の例会で3カ月くらい旅をして劇団は存在していました。
演劇鑑賞会と大衆化路線で激しく討論をし、
組織に頼らず、独自の演劇を創るための本拠地としてブレヒトの芝居小屋を制作部だった津金は見つけてきました。
1984年に死んだ彼(夫)もまた私にとってブレヒトの芝居小屋そのものとも思えます。
初期の海外公演、
野外劇などまだ文化庁の助成が始まったばかりの頃からブレヒトの芝居小屋を支えてくれたのは、
企業の中にいた津金の学生時代からの親友でした。
私は津金の志を受け継いで、その友人に支えられて、
海外公演や学校公演、野外公演などの場を創るプロデュースの仕事を、
女優としてと同時に続けることができたと想います。
彼らは実に意気揚々とやっていたから……私もそんな風に飛び込むことができたのです。
ブレヒトの芝居小屋に移るということは、
劇団の生き方の革命だったと思ってます。
ブレヒトの『コンミューンの日々』を1977年頃から例会作品として出し、
会員拡大の為に市民劇場、演劇鑑賞会と“労演”から名前を変えはじめた流れに逆らって広渡常敏と東京演劇アンサンブルは各地で論争し、
津金はその最先端にいました。
パリ・コンミューンの芝居は一つも例会にとられせんでした。
労演へ革命をともに語ろうと呼びかけて、大衆化の路線に逆行すると、拒否されたのです。

演劇鑑賞会公演がなくなっても、
自分たち自身で学校を訪ね公演をつくろうと、
劇団は高校演劇鑑賞の舞台に賭けました。
映画放送部も廃止し、今の状況にたちむかう芝居だけをしようと。
その選択で脱落する人がいたし、
逆にそれを過激に求め同じ激しさに飛び込まない人を排除する人たちがいて、80年代に2回大きな脱退がありました。

丁度その頃文化庁の海外交流事業が始まりニューヨークに『桜の森の満開の下』モスクワに『かもめ』を持って行くことができました。
バブルの始まりでもあり、友人の企業人が中心につくってくれたケンタウルスの会と名付けた後援組織にも支えられました。
ローマ・ハノイに『沖縄』を持って行くころバブルは終わりました。
でも海外公演に行く前には約半数が抜けたあやうい劇団が、
ブレヒトの芝居小屋から世界に発信する芝居を生み出す新しい歩みをはじめていました。



それからタリさんの晩年の20年ブレヒトの芝居小屋を中心に、多様な独自の演劇活動が展開しました。
芝居小屋の小さな額の中の白黒写真。
モスクワや、ニューヨークや、ベルリンや、ローマや、ダブリンや……日本各地での野外公演などの写真。
その一枚一枚を見ていると浮かび上がる沢山の人と出来ごと。
1987年からの広渡常敏最後の20年の芝居を、ともに創ったというのは、私の誇りです。
岸田国士の2年にわたる連続公演から、海外戯曲の初演、
木下順二、久保栄、秋元松代の新演出、広渡常敏のオリジナル、
そして勿論ブレヒト、チェーホフの繰り返しの上演。
ブレヒトの芝居小屋だけでのたった5回の公演も多かったけれど、
どれもその当時の世界の状況と向き合い、
人間としての存在を自身に問う、前衛的であろうとした公演でした。
そのなかで格闘した沢山の役を演じた稽古場と本番が私にとってのブレヒトの芝居小屋そのものです。
ベルリナー・アンサンブルからブレヒト没後50年のフェスに招かれ、
『ガリレイの生涯』を演じて帰ってきたことを報告できたことを忘れられません。
足りさんの満足そうな顔。

闇へ落下する時たちのぼる鮮やかな景色に身をまかせる瞬間!
その瞬間を生きること。
いのちの空間・ブレヒトの芝居小屋。

ブレヒトの芝居小屋で私は革命を生きたと思います。
ここを去る時にもおこるだろう革命。
生き抜きたいと思います。

芝居小屋での40年を語ろうとして、また総括的で、出来事の羅列になってしまいました。
「私たちやってきた、そしてこれからもやる」



一つ一つ芝居を創ることでしか語れません。

この度の基金のお願いで、
思いがけなく芝居小屋のはじめの頃を知っているいろいろな方からもご喜捨をいただき感謝の気持ちで一杯です。
その方との関わりから、その時の芝居が蘇ります。

「未来は、自らが創る。自分たちの価値は自分で創る」そう言い続けてきました。今もまだ。

次回は小森明子。
制作者としての喜びから、演出家としての喜びを求める。
闇に飛び込んだらその華麗な景色を堪能するしかないよね。


第6回 戯曲を読む会のご案内

2018-12-01 15:47:37 | 芝居小屋企画

第6回 戯曲を読む会

新企画として6月から月一回を目処に、「戯曲を読む会」を開催しています。

東京演劇アンサンブルの若手の提案による、いろんな戯曲を皆で声に出して読んでみようという会です。

ワークショップという形式ではないので、誰でも気軽に参加出来ます。

第6回はアーサー・ミラーの「みんな我が子」を読みます。


戯曲に興味がある方、作品について話し合ってみたい方等、お気軽にご参加下さい!

日時 12月9日(日) 18時30分~21時30分
場所 練馬区 関町北地区区民館(会場がいつもと違うのでご注意下さい)
参加費 500円(会場費等)

参加希望の方は2日前までに03-3920-5232、もしくはteeyomukai@gmail.comご連絡ください。
ご質問等もお気軽にお待ちしています。


第5回の作品は安部公房作「友達」でした。

四年前にスープ劇場で安部公房の「未必の故意」を上演したときの話や、共同主催者の和田響きがアンサンブルに入団する前にこの作品に出演した話をしたりと、盛り上がりました。

この日は近くの中学校で先生をしてる方や、テレビ局の方等も初参加してくれました。


チラシデザインは劇団員の山﨑智子です!
今回のためにまた新しくバージョンアップして新しいものを作ってもらいました!
そちらもご覧ください!!

東京演劇アンサンブルHP
http://www.tee.co.jp


アーサー・ミラー

アーサー・アッシャー・ミラー(Arthur Asher Miller, 1915年10月17日 - 2005年2月10日)は、アメリカ合衆国の劇作家。代表作は『セールスマンの死』など。1915年にニューヨークでオーストリアのユダヤ系の家庭に生まれる。高校卒業後、ミシガン大学に入学するが、成績の低さが原因で奨学金が受けられず、更に大恐慌によって父親からの支援がなくなり、2年ほど自動車生産工場で働く。入学後、演劇を学び、在学中からラジオドラマの脚本を皮切りに劇作を始めた。1944年『幸運な男』でブロードウェーに進出を果たす。1947年『みんな我が子』がヒットし注目を集める。1949年『セールスマンの死』でエリア・カザンが演出し、トニー賞、ピュリッツァー賞を受賞。劇作家としての地位を確立し、テネシー・ウィリアムズとともにアメリカ現代演劇の旗手に躍り出た。

京演劇アンサンブル
1954年4月,俳優座養成所を卒業した3期生の有志が結成。初めは劇団三期会を名のったが,67年 12月現名称に改称した。早くからブレヒト作品に取組み,80年元映画スタジオを改装して設けた劇場「ブレヒトの芝居小屋」を開場,活動の拠点とする。広渡常敏演出によるブレヒト作『セチュアンの善人』,『ガリレイの生涯』,チェーホフ作『かもめ』などが代表作。岸田国士作品の連続上演も行なった。

TEEリレートークVol.10 『未来へのあこがれ』 竹口範顕

2018-12-01 09:47:23 | 劇団員リレートーク


こんにちは。
前回のブログで、冨山小枝から「どうしたら早く仕事が終わるかを考えている」と言われた、竹口範顕です。
ここで言う仕事というのは、舞台の設営や後片付けのことですね。
それは言い換えれば「どうしたら早くビールが飲めるか」ということなのですが(笑)
もちろん、真面目な理由もありますよ。
疲れる前に早く終われば怪我も少なくなるし、
なにより芝居に向かう心の余裕が生まれます。
早く仕事を済ませる工夫は、役者と裏方兼業の私たちには欠かせないものです。



わたしは今、冨山小枝と同じ『銀河鉄道の夜』のチームで北陸を巡演しています。
彼女は『銀河鉄道の夜』のことを、「共に歩んできた、私の芝居人生そのもの」と言っていましたが、
それほどでなくとも、この演目に強い思い入れのある劇団員は少なくないのではないかと思われます。
「これはこうだよ」「いや、そうじゃないよ、こうだよ」と、芝居の細部について話し出すと収拾がつかなかったりするほど(笑)



わたしにとっても、『銀河鉄道の夜』はやはり特別な存在です。
わたしは1992年に入団してまもなく、学校公演を続けていたこの演目のチームに入れられました。
それ以来、キャスティングは変わっても、
一度もこのチームから離れることなく、今に至ります。



もう十数年前のことになりますが、劇団をやめようとしたことがありました。
仕事で精神的に追い込まれたせいか、芝居がしたいという欲求も消えてしまうような鬱状態になったのです。
結局は、
「そんなにしんどいなら休めば? そして今の状態を乗り越えて元気になったら戻っておいでよ。
あたしはその時のあなたとまた芝居がしたい。」
という大先輩のことばで踏みとどまり、役者をやめずにすみました。
その後は、実際には仕事の量を減らしただけで、休まずに続けていたのですが、
それでも舞台の上で本気で人と向かい合い、
戯曲のことばに魂を吹き込もうという仕事をするには、ひ弱な精神状態が長く続きました。
前向きな心持ちになるまで、多くの人に助けてもらいましたが、
作品としてわたしを支えてくれたのが、『銀河鉄道の夜』です。
真っ暗な宇宙の闇に向かい合って、たった一人、自分の足で立とうとするジョバンニに背中を押されたのです。
そうか、カッコなんか悪くたっていいのか、
鼻水すすりながらでも、前を向いて自分の足で立ってることが大事なのね。
と、そんな気持ちにさせられました。
震災のような、心身ともに大きなダメージをもたらす出来事がある度に、
大勢の人たちが宮沢賢治のことばを求めるのが、わたしにも少しわかるような気がしました。



『銀河鉄道の夜』が東京演劇アンサンブルの代表作のひとつであり、
多くの劇団員の心を掴んでいるのは、
この作品の中に、よりよき未来へ向けて歩んでいきたい、
という願いをみるからかも知れません。
しかも、それを状況説明的な描写を削り落とした、
凝縮されたことばで語ってくるので、話の設定や劇団員それぞれの状況の違いをを越えて、
聞く人観る人の心に刺さってくるのです。

こども向けの演目にしても、大人向けの演目にしても、
東京演劇アンサンブルの舞台には、よりよき未来への憧れという要素が共通していると思います。
それが演目によって、
動物たちの生き方がテーマだったり、
戦争がテーマだったり、
自由がテーマだったり、
基地問題がテーマだったりするだけです。

ブレヒトの芝居小屋は、公演の度に、
また憲法集会などイベントの度に、
職業のジャンルを越えて人が集い、新しい繋がりが生まれるところです。
その営みは世界から見ればとても細々としたものかもしれません。
でも、そうやってよりよき未来への憧れが人から人へ手渡されてきたのです。
入団する前、この劇団の『銀河鉄道の夜』を見て、
なんだか訳がわからず眠ってしまい、
ここにはそんなに長くはいないだろうと思っていたわたしが、今こうしているのです。
若い頃に比べて、少しは想像力が広がったのでしょう。
「想像力が広がるとは、その人自身が変化することだ」
と、このブレヒトの芝居小屋で教わりました。

今月22日からの『銀河鉄道の夜』ブレヒトの芝居小屋公演に是非いらしてください。
そして、たとえ時間がかかろうと人間の変化の可能性に賭け、
よりよき未来への憧れが次世代に手渡される空間、
ブレヒトの芝居小屋の移転に、引き続き皆さまのお力添えをいただければ幸いです。



次回のブログ担当は、わたしに「そんなにしんどいなら休めば?」と言ってくれた大先輩で、
劇団代表の志賀澤子です。