12月26日、
『銀河鉄道の夜』の公演が終わり、
打ち上げ。
27日舞台のバラし、夜は運営委員会。
28日劇団総会、納会準備。
29日納会。
これが東京演劇アンサンブルの年末のあり方だ。
今年はブレヒトの芝居小屋での最後のクリスマス公演ということもあり、
早々にチケットが完売した。
訪れてくれたお客様の中には、
30年前に来て以来という方が、
お子様を連れてきてくれて、
当時の古い当日リーフレットを見せてくれた。
そんな話がいくつも聞けた公演だった。
ブレヒトの芝居小屋での『銀河鉄道の夜』は、
やはり、なんだか特別な公演だ。
36回目とあるが、
聞いただけで、2回、お休みしている年がある。
1度目のことはずいぶん古くてぼくは知らないのだが、
2度目はぼくが劇団に入団した年だったので、
記憶に残っている。
1996年。
この年の12月は木下順二作『沖縄』のベトナム・イタリア公演だった。
ぼくは入ってまだ1年も経っていないのに、
イタリア公演の旅制作をさせられた。
どんな仕事をしたかなんて、ちっとも覚えていない。
ツアコンに毛が生えたような、
素人の付き添いみたいなもんだったろうと思う。
そのイタリア公演がクリスマスど真ん中の時期だった。
だから、1996年の12月には、ブレヒトの芝居小屋に軽便鉄道は現れなかった。
1995年に大学4年生になったぼくは、
就職活動を躍起になって行う同級生たちを尻目に、
むさぼるように芝居を観ていた。
それこそが自分の就職活動だと言わんばかりに、
この年100本を超える観劇をしていた。
教職をあきらめ、
ネクタイをしない仕事を選びたい、
それが必然的に演劇の道へと足を向けたのは、
子どものころから「例会」として出会って来た、
舞台劇の魅力に取りつかれ、
その世界へのあこがれを持っていたからに他ならない。
100本も見ていくと、
だんだん自分の好みというか、嗜好というか、
やりたい芝居がどんなものか、おぼろげながら見えてくる。
言葉にすると、
大人のための芝居も、子どものための芝居も、どっちもやっている劇団がいい。
啓蒙ではなく、問題提起してくれる作品がいい。
舞台にいる俳優だけでなく、そこに関わる人たちの息遣いが聞えてくる作品がいい。
そんな折に出会ったのが、
東京演劇アンサンブルの『奇蹟の人』だった。
ラストシーンで、
ヘレン・ケラーが言葉を獲得する瞬間に、
アニー・サリヴァンが庭のポンプから水を出すのだが、
舞台上では、ジャンジャン本当に水が出てくるのだ。
下手の端の一番前の席にいると、
もう水がジャンジャンかかっちゃうのだ。
ブレヒトの芝居小屋とは、
そういう劇場なのだ。
そして、終演後、この水に何やら毒が盛られていたのかもしれないが、
その場で制作部長さんを捕まえて、
卒業したら入れてください、
と思わず言ってしまった。
では、夏休みに稽古場にいらっしゃい、ということで通ったのが、
『沖縄』の稽古場だった。
敗戦50年の年に、ほとんどの劇団は、
戦争に関する作品の上演をしていたのだが、
東京演劇アンサンブルは、
「戦後の差別は沖縄だ。敗戦50年の年に沖縄にを取り上げる」
という言葉をタリさんから聞いたとき、
ものすごいところに足を踏み入れたな、
という気がした。
あれから20年以上経ってはいるが、
いまでも、大人のための演劇も、
子どものための演劇も、
どちらも作りたい思いは変わっていない。
そういう意味でも、
毎年のクリスマス公演は、
どちらも満たされるものだったとあらためて思う。
来年の今頃は、どんなことを想うだろうか。
ジョヴァンニも、カンパネルラもいないクリスマスに。
しかし、劇団は、
新たな根拠地を求めて動き始めている。
きっと新天地でも、
『銀河鉄道の夜』のような、
東京演劇アンサンブルらしさの漂う公演を生み出せるに違いない。
さて、年が明けて3月には『クラカチット』。
クラカチットとは原子爆弾のこと。
ブレヒトの芝居小屋を破壊する最後の公演。
どこの岸辺に着くかもしれず漕ぎ出す船乗りのように、
また、次の仕事も始めようと思う。
来年の12月27日は大掃除と運営委員会してるかな。
28日は総会かな?
29日は納会かなー?
タイトルは、1996年12月のレターに洋佑さんが書いた文章のパクリ。
年明け、次は、その洋佑さんになりまーす。
『銀河鉄道の夜』の公演が終わり、
打ち上げ。
27日舞台のバラし、夜は運営委員会。
28日劇団総会、納会準備。
29日納会。
これが東京演劇アンサンブルの年末のあり方だ。
今年はブレヒトの芝居小屋での最後のクリスマス公演ということもあり、
早々にチケットが完売した。
訪れてくれたお客様の中には、
30年前に来て以来という方が、
お子様を連れてきてくれて、
当時の古い当日リーフレットを見せてくれた。
そんな話がいくつも聞けた公演だった。
ブレヒトの芝居小屋での『銀河鉄道の夜』は、
やはり、なんだか特別な公演だ。
36回目とあるが、
聞いただけで、2回、お休みしている年がある。
1度目のことはずいぶん古くてぼくは知らないのだが、
2度目はぼくが劇団に入団した年だったので、
記憶に残っている。
1996年。
この年の12月は木下順二作『沖縄』のベトナム・イタリア公演だった。
ぼくは入ってまだ1年も経っていないのに、
イタリア公演の旅制作をさせられた。
どんな仕事をしたかなんて、ちっとも覚えていない。
ツアコンに毛が生えたような、
素人の付き添いみたいなもんだったろうと思う。
そのイタリア公演がクリスマスど真ん中の時期だった。
だから、1996年の12月には、ブレヒトの芝居小屋に軽便鉄道は現れなかった。
1995年に大学4年生になったぼくは、
就職活動を躍起になって行う同級生たちを尻目に、
むさぼるように芝居を観ていた。
それこそが自分の就職活動だと言わんばかりに、
この年100本を超える観劇をしていた。
教職をあきらめ、
ネクタイをしない仕事を選びたい、
それが必然的に演劇の道へと足を向けたのは、
子どものころから「例会」として出会って来た、
舞台劇の魅力に取りつかれ、
その世界へのあこがれを持っていたからに他ならない。
100本も見ていくと、
だんだん自分の好みというか、嗜好というか、
やりたい芝居がどんなものか、おぼろげながら見えてくる。
言葉にすると、
大人のための芝居も、子どものための芝居も、どっちもやっている劇団がいい。
啓蒙ではなく、問題提起してくれる作品がいい。
舞台にいる俳優だけでなく、そこに関わる人たちの息遣いが聞えてくる作品がいい。
そんな折に出会ったのが、
東京演劇アンサンブルの『奇蹟の人』だった。
ラストシーンで、
ヘレン・ケラーが言葉を獲得する瞬間に、
アニー・サリヴァンが庭のポンプから水を出すのだが、
舞台上では、ジャンジャン本当に水が出てくるのだ。
下手の端の一番前の席にいると、
もう水がジャンジャンかかっちゃうのだ。
ブレヒトの芝居小屋とは、
そういう劇場なのだ。
そして、終演後、この水に何やら毒が盛られていたのかもしれないが、
その場で制作部長さんを捕まえて、
卒業したら入れてください、
と思わず言ってしまった。
では、夏休みに稽古場にいらっしゃい、ということで通ったのが、
『沖縄』の稽古場だった。
敗戦50年の年に、ほとんどの劇団は、
戦争に関する作品の上演をしていたのだが、
東京演劇アンサンブルは、
「戦後の差別は沖縄だ。敗戦50年の年に沖縄にを取り上げる」
という言葉をタリさんから聞いたとき、
ものすごいところに足を踏み入れたな、
という気がした。
あれから20年以上経ってはいるが、
いまでも、大人のための演劇も、
子どものための演劇も、
どちらも作りたい思いは変わっていない。
そういう意味でも、
毎年のクリスマス公演は、
どちらも満たされるものだったとあらためて思う。
来年の今頃は、どんなことを想うだろうか。
ジョヴァンニも、カンパネルラもいないクリスマスに。
しかし、劇団は、
新たな根拠地を求めて動き始めている。
きっと新天地でも、
『銀河鉄道の夜』のような、
東京演劇アンサンブルらしさの漂う公演を生み出せるに違いない。
さて、年が明けて3月には『クラカチット』。
クラカチットとは原子爆弾のこと。
ブレヒトの芝居小屋を破壊する最後の公演。
どこの岸辺に着くかもしれず漕ぎ出す船乗りのように、
また、次の仕事も始めようと思う。
来年の12月27日は大掃除と運営委員会してるかな。
28日は総会かな?
29日は納会かなー?
タイトルは、1996年12月のレターに洋佑さんが書いた文章のパクリ。
年明け、次は、その洋佑さんになりまーす。