a letter from Nobidome Raum TEE-BLOG

東京演劇アンサンブルの制作者が、見る、聞く、感じたことを書いています。その他、旅公演や、東京公演情報、稽古場情報など。

『道路』公演終了

2011-02-21 12:07:46 | 東京公演
ご来場のみなさま、
まことにありがとうございました。
おかげさまで好評のうちに、昨日無事千秋楽を終えることができました。
少しですが、
感想を掲載したいと思います。



ええ、すごかったです。
暗幕を抜けて広がるその空間の広さにもそうですが、
対面型で中央に一本、それこそ道路と呼ぶにふさわしいコンクリートの道が一本出来上がっているのには息を呑みました。
そんな舞台を役者さん達が歩いて行く姿はまるでなにかのファションショーにでも紛れ込んだかのようでした。
美しかったです。

ただ、作品は少々難解でした。
たぶん何回か観ないと理解できないような、そんな感じでした。
道路を作り過ぎたことに対する皮肉が混じっていて、警鐘を鳴らしているのかなと、足りない頭で考えていました。
なぜか案内をしてくれた女の子が1番印象に残りました。
観劇前の注意事項を一生懸命言っている姿が可愛かったです。
舞台がすごい。えりお

(男性)




会場の「ブレヒトの芝居小屋」。
もろ「昭和」な雰囲気でたまらなくシブい!演劇濃度が半端じゃなく濃い、濃い、濃いっ!!!
ロビーに張られた数々の難解そうな(=縁が無い)過去公演のポスターに囲まれ、
僕は思わず、高田馬場のスタバで抹茶ラテを飲んだにもかかわらず、コーヒーを注文してしまった
(同行者は、なぜか豊富なお酒メニューの中の芋焼酎を飲もうかどうか迷っていた←で、飲まなかった)。。。
鉄骨むき出しの館内に入ると、歌舞伎の花道のように観客が挟むカタチの舞台・・・いい感じ。
スモークが焚かれて幻想的な上に、暖をとる為に会場隅に置かれたストーブがシブい!
この雰囲気をあじわうだけでも、十分に価値がある。。。
で、開幕。
この芝居は、原作者のアゴタ・クリストフの出身地ハンガリーの冷戦時代の状況
(←ある一定の生き方しか許されていなかった)を知っているか否かで、感じ方が変わってくるのかもしれない。
また、新機能連発のモバイルやテレビに「この機能は必要なのか?」という疑念を持たない人には、
「?」な芝居なのかもしれない
(←この感想は「モバイルの進化についていけないヒトの偏見やわ」と、同行者には言われました)。。。
あと基本的にメタファー満載の芝居なので・・・分かりづらい面は確かにある。
でも大丈夫!安心してください!
開演前に会場で売られていたパンフレットを読んだので、文学的素養貧弱なボクらでも、十分に楽しめましたぞ!
(←ロビーでコーヒーを飲んだことが、ここで役に立った!)
このパンフレット。
見た目は24ページの冊子なので薄いですが・・・内容は濃いです!
500円という価格は、かなり良心的!
内容は、劇団HPにある「あらすじ」がすべて、です。
ボクは、間寛平演じる「止まると死ぬのじゃ~」と言う爺さんを思い出してた。。。
あのギャグも深いっちゃ深いじゃん(笑)
でも、この芝居はぜひとも劇場で味わってもらいたい!
役者さんの熱演&会場の雰囲気&生演奏・・・寒い夜の観劇にピッタリです。。。

「難解な原作をわかりやすく」という演出意図があるからなのか、
ポップな感じの「道路標示」が芝居中に出てくるのだが・・・チョット軽いかな。
軽いボクが「軽い」と感じたんだから、軽いんだと思う(笑)
あと、芝居中に、あらゆる思想人の「至言」ぽい言葉が、
スクリーンに映し出されるのだが・・・これにはマイッタ。。。
これらの「至言」。
あまりの深さに、「コレ、どういう意味だ?」「芝居と、どう関連しているんだ?」と考えているうちに、
舞台上では芝居が再開されちゃっててさ・・・
芝居内容に関連した「至言」であろうことは想像できるんだけど・・・芝居を咀嚼するだけでも「頭フル回転」だったので、
あの至言は無くてもヨカッタのかな、と。
または思想人の言葉を拝借するのではなくて、演出家の方の言葉で勝負したほうがヨカッタのかな、と。

それにしても、洪美玉さん演じる「踊る女」の淫靡なことよ。。。
(女)





観させていただきました!
すごく考えさせられる舞台でした。
舞台の構造がおもしろくて、とても臨場感もあり、
また生演奏というのがかなり良かったなと思います。

まず、入った瞬間に“道路”が目に入り、おおおってなりました。
役者さんが自分の後ろを通ってゆく、という演出もなんかドキドキしました。
特にすぐ後ろで“歩け”と言われた時はすごくゾクゾクしました!
役者さんの芝居も、それぞれ味があっておもしろかったのですが、
75分くらいのわりと短い時間なのですが、途中なんとなく飽きてしまったというか、
パンフに『○○な女』というのが全部書いてあるので、ああ、あと何人もいるのか…みたいな気分にはなりました。
全体的に暗いので、確かに深く考えさせられるものではあったけれど、
なんというかメリハリがほしかったかなという気がします。
でも、最後暗転から明るくなった時に、真ん中に木がたっていたのはすごいと思いました!
あと、内容が今の自分にぴったりの内容で、ホント、良いもの観たなって思いました。
ありがとうございました!
(女)





さまざまな演出により、アゴタ・クリストフの戯曲が現代に発したモノが伝わってきた。
SFであり、一種の不条理劇であるとも言える。
初めに登場する高速道路の設計技師は、明らかに現代の人である。
高速道路上で事故に遭い、ガソリン缶を持ち、高速道路をさまよう。
しかし、そこは、彼のいた時代でも場所でもなかった。
まるで、パラレルワールドのような近未来の世界。文明も自然も人々の希望も目標も何もない世界だったのだ。
「道路(道)」とは、多くの場合、「人生」と読み替えることが可能であり、
今回の舞台でも、それを暗示する台詞やシークエンスが多く見受けられた。
しかし、「道路」は、社会主義の計画経済に対する象徴(効率化などの)でもあるのだが、
実のところ資本主義の象徴でもなかったのだろうか。
一方向にしか進むことが許されず、立ち止まることも許されない。
そして、立ち止まることは「死」を意味するということも、社会主義的(あるいは全体主義的)ではあるのだが、
それは、「発展」しか道筋がない資本主義社会にも通ずるものでもある。
「死」は他人の「糧」となるということに至っては、資本主義そのものではないのか。
すなわち、作者のアゴタ・クリストフ氏は、50年代にハンガリーから亡命し、西側に出たのだ。
したがって、西側での生活のほうが長く、
そこで出会った「資本主義」の姿に、大いに驚き、戸惑い、落胆もしたのではないだろうか。
資本主義の名の下に、破壊される自然や人々の暮らし、そして希望や感情。
それは、かつて、社会主義の自国で感じたものと、姿は変わっていても、同じではなかったのだろうか。
そいういったものが、「道路」の世界に込められているのではないのか、と思ったのだ。
また、冒頭に出てくる男は、ラストに実は交通事故で死んでいたことがわかる。
つまり、冒頭の彷徨自体の場所は、死ぬ前に見た幻覚かもしれないし、あるいは死の世界だったのかもしれない。
その世界で彼は「もう道路は作りません」「庭師になります」と神に告げる。
それは、取りも直さず、彼の口を通して、現代に生きる人々が考えなくてはならないことが発せられたのである。
つまり、今なら、希望も何もない世界になる前に、
経済の発展に隠れたむやみな開発などを押し止めることができるかもしれないということなのだ。
台詞回しの雰囲気は、ややクラシカルな印象があるものの、
舞台の設置方法や、さまざまな演出を加えることで、現代によりマッチさせていた。
特に、映像の使い方は空間と台詞に深みと奥行きを見せていた。
台詞やそのシークエンスに関係する文章が壁面に現れることで、それが実現されていたと思う。
また、生演奏の効果もあったし、
観客席の後ろを歩かせるということで、観客席を「道路」で囲み、舞台への臨場感はより増していた。
若い演出家の手によることの効果は十分にあったと言えるだろう。
(男)


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