お寺というのはまさしく古来からシェアハウスだったのであって、戒律という約束ごとに承諾してそこで認められればメンバーとして受け入れられた。日本ではそれはほとんどできない。戒律はないし、メンバーになるのにカネがかかるし、お寺は家庭になって心理的カベを作っているから。
— 慈永祐士 (@jiei_yushi) 2018年2月22日
ほんとうはそういうことを、まさにコンビニ以上の数がある多くの寺院でやれば相当な社会貢献になる見込みもあるように思うが、そういうところからしてまず期待ができない。そういう寺院は日本にも確かにあることはあるが、両手で数えるほど名前が挙げられるかどうか。https://t.co/dNPphpfFQP
— 慈永祐士 (@jiei_yushi) 2018年2月22日
というのは、まあ理念的で理想的である。
これに対して:
「ホームレスや社会的弱者をお寺に迎え入れる」みたいな運動があるが、そういう中の一部で起こってるのが寺の金品を持ってドロンしたり、果ては寺族さんが性的被害に、みたいな話。ある知人の坊さんは家族を近くのアパートに移した上で、寺でホームレスと暮らしていた。難しいもんだなあと。
— OGAWA Kandai (@grossherzigkeit) 2018年2月22日
たとえば、貧に窮している精神障害のある40歳の友人が「ご縁があったら尼僧になりたい」と言っているのですが、彼女を受け入れる余地は実際問題仏教界にあるのでしょうか?具体的に教えて頂けたら助かります。
— ハル@ブルーリボンの祈り会 (@haruidelette) 2018年2月22日
面白い論点だが、たしか僧侶になる際の資格に”心身ともに健康”云々というのがあったはず。
坊さんが人を出家させるというのはその人の師匠になるということで、人生の責任を負うことにもなるので、まともな坊さんほど、見も知らぬような人を出家させません。安易に人を出家させる坊さんとは、そういう資格・搾取ビジネスをやってる人です。無論例外は多々ありますが。https://t.co/NNkIxLRXNk
— OGAWA Kandai (@grossherzigkeit) 2018年2月22日
なにしろ寺院は、基本的には儲からない、規模もさほど大きくない団体の一種だし、悟りへ向けて努力する―というのが理念なわけで、生活保護は別種の課題なのだ。
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