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空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

授業への力の入れ方

2018-07-23 14:04:10 | ノート


 これに対して



 そう書いて、こう答えられる:



 まあその、いずれも個々に自分なりの表現をしましたよねと流すのがよいかなとか。
 ともあれ。

 高校水準の授業内容なら、基本的におおむね全面的に役に立つ(いや、まあ、その、仕事の水準等々にもよるが)。それでも必要性・重要性…の濃淡は出る。また、長期的な見地(私にとっては将来の学術研究)はさておき、直近の課題(高校時代の私なら、受験にとおること、かな)もあるわけである。

 そこで、長期的な問題はともかく、直近の課題に対応するために、合理的な時間配分をする理性が求められる。
 また、ふつう授業はどうしてもマスでする関係上、我々にあわせてはくれない・我々に合わせると授業自体が成り立たなくなるという問題もある。
 そこで「授業はできるだけサボり」ということになる。「役に立つ授業には全力を傾ける」というのは、合理的には見えるが、マス授業に全力を傾けることが合理的である時点で、高度な水準に達していないらしいと推測可能でさえある。その水準では「役に立つか立たないかを自分が判断できると思っているのが間違い」というべきだろう。



 これに対しては「別に、テストで90点以上、とればいいだろ?」という答えになる。センターテストで8-9割が当然という水準なら、多少の内申点の低さなんぞはカバーできる、という。

 以上、生存者バイアスは入りながらも、並みの高校に通学していた偏差値上層エリート的立場かと。

 私はたぶん、素で上の中~上の下あたりだったので、気楽に生きてた。

 これが、「努力しても上の下」とかだと、「もっと(自分にとって・自分が成功するために)合理的な制度を!」とか思いたくなるだろう。そこで「(自分のさしあたりの目的に)役に立たない授業」をできるだけ合法的に・合目的的にサボる―内申点に影響がないように手を抜く―そして手を抜いたことをとがめられない(なにしろ、とがめられるようなことがあれば、内申点にマイナスだから)ような理屈を求める。

 ありがちよねー。

 ともかく、我々は共通の生を生きるからには一定の共通理解をそれなりに形成する必要があり、そのためにマス授業も効率のうえで要求されるだろうが、他方一般的に個性的であるからにはマス授業に適応できない個体が発生するのも当然のことであり。学校のテスト程度はさらっと超えられる様にしときなさいねーと思ってみる。

 なお、就職したらしたで、「もっと制度がよければオレはもっと」とか思うようになったりするわけである。
 それぞれ、どっかの立場でおんなじよーなことを思うものだなあとか。

 話を授業に戻すが



 きちんと録音を聞いてノートを纏めなおし先生が何でこういったか、などということをリバースエンジニアリングし…とすると、これはこれで伸びます。もちろん、講義時間の2倍程度は聞きなおし・纏めなおしに当然、必要としますが。
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