TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

屋久島7 ~ 合宿後

2017年09月03日 | SUWV
サバイバルは終わった。

4/5 大川の滝 -(ロード)- 栗生 -(バス)- 宮之浦港 ~ 鹿児島 =(かいもん6号)= …

 
 鹿児島についてしたいことがあった。それは実家への電話だ。ずうっと気になっていることがあった。それは3/26小杉谷で1泊したとき、夢枕にじぃちゃんが立った。夢の中で私に話しかけるのだ、自分はこの世を去るがおまえはしっかり生きなさいみたいなことを。夢だったが妙にリアルだった。次の朝、他のメンバーに、夢の詳細を詳しく説明するのが面倒だったので、「昨日じいちゃんが死んだ夢をみた」と軽い感じで話をしていた。「ふ~ん」で流されていたが、自分としては胸に引っ掛かるものがあった。しかし山の中だったのでどうすることもできなく、そのままにしていた。

 はたして4/5、フェリーが鹿児島について公衆電話から島原の実家に電話したら、案の定、祖父はあの晩亡くなっていた。そのことを他のメンバーに話をしたら、一様にそんなことがあるのかとひどく驚いていた。私には何か確証みたいなものがあったので、特に驚きもしなかった。恐くもなかった。むしろ「やっぱりそうだったのか、じいちゃん、ありがとう」みたいな感謝の気持ちが湧いていた。
 私は、今もそうだが、霊やオカルト的なものは信じない。ただ偶然に、祖父が死んだその日に、祖父が死んだ夢を見ただけだと思っている。ただ、その夢がリアルで現実離れしていただけだったと思っている。

 偶然はもう一つあった。この時の春合宿に限って、出発前に実家へ、合宿でしばらく不在にする旨の葉書を出していた。春合宿で○月○日から2週間ほど鹿児島県にある屋久島に行ってきますと。後にも先にも、山に行くと手紙や葉書を書いたのはこの1回きりだ。これも虫の知らせだったのだろうか、何となく葉書を書かずにはいられなかったのだ。

 葉書を出していてよかった。祖父が死に、母は佐賀の私の下宿に何度も何度も電話をしたそうだ。島原の実家では、本家の息子が消息不明のまま葬式も終わり、親戚に対して面目ないと母は嘆いていたという。その頃に私が出していた葉書が届き、母はその葉書を手に、親戚の面々に見せてまわったという。これもたまたまの出来事だったと思うが、そういうこともあるのだと今でも不思議に思っている。



 さて、合宿日記には以下のことが記されている。



4/5

○ 屋久島を発つフェリー、たまたま屋久島高校から本土に赴任される先生と一緒だったが、その見送りが感動的だった。

○ 昨年の春合宿(南九州サイクリングパート)の打ち上げで行った西鹿児島駅前の「郷土料理さつま」に今回も行った。去年は佐賀から来たということでいろいろとサービスしてもらったが、女将さんが去年来たことを覚えていてくださって、今年もいっぱいサービスしてもらった。


4/6

○ 今、急行「かいもん6号」の中。もうすぐ鳥栖である。汽車の中では偶然にも国経大(国際経済大学 西九州ワンダーフォーゲル連盟で交流があった)の屋久島パート(山辺、梅川、浜田、森)と一緒になる。彼等はOLDとたくさんのつまみを用意して盛大にやっていたので、我等も負けてはならじと樽酒(差し入れでもらい、屋久島山中、サバイバルと持ってまわったことになる)と焼酎を持って彼等のところへ。 ほぼ徹夜で飲み、お互いの合宿の出来事などを語り合った。




 無事に佐賀に帰り着きこれで合宿は解散だが、その後反省会を開いて春合宿の総括を行っている。それを元に部会で報告。そして部全体として春合宿の打ち上げコンパを開き、それぞれのパートの苦労話を肴にお互いの健闘を称えあった。




反省を記したページ それぞれの担当から(装備、医療、会計、食糧、SL、PL)





同じく反省 登山の部、サバイバルの部、合宿全般




 ワンゲルは、よく酒を飲みバカばっかりやっているサークルのように思われていたが、こと山やその活動については真剣に向き合っていたことをこの「合宿ノート」は記録していた。
 合宿前には部会やミーティングを重ね、合宿の方針やそれぞれのパートの目的を共有していたこと。並行してトレーニングを積み、プレ合宿を行うなど体力面でも十分の準備を行っていたこと。合宿後には自分たちの活動を振り返り、あの時の判断はあれでよかったのか痛烈に反省を行っていたことがきちんと記されていた。
 たまたま1つの合宿を紹介したが、どのパートのどの合宿もみな同じである。私たちはまじめ過ぎるほどまじめに山に、自然に、ワンゲルに向き合い同じ時間を共有してきたのだった。





- 完 -



 



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