吉井勇が若き日に、新詩社の仲間五人と九州を旅した「五足の靴」の足跡を辿っています。
紀行文「五足の靴」には長崎の記述がすっぽりと抜けているので、消えた足跡を辿るのは簡単ではありません。
そこで手掛かりになるのは吉井勇の歌や当時のことを述懐した随筆です。
「大江の宿」と題した「五足の靴」時代の回想随筆には次のように書いてあります。
「明治四十年の八月、与謝野寛先生に率ゐられて、北原白秋、木下杢太郎、平野万里、それに私の五人連で、九州を旅した時の思ひ出をうたったものである。この時の旅は、一路汽車で下関から門司へ渡り、福岡で九州路における第一夜を明かしたのであって、それから私達の一行は平戸へ往き、そこにあった阿蘭陀塀とか阿蘭陀井戸とかいふやうな、紅毛遺蹟を見物した後長崎へ往った。そこでは浦上の天主堂や諏訪神社などを見てから、石畳の多い古びた街を歩き廻ったが、その頃はまだ何処の商店の看板にも、日本字と並んで露西亜の文字が用ひてあった。長崎に一晩泊まった後、私たちは茂木の港から船に乗って、天草島の島はづれにある富岡といふところへ渡ったが(略)」
長い引用になりましたが、「浦上の天主堂や諏訪神社など」とはっきりと書いてあります。問題は「諏訪神社など」の「など」です。これに関しては鶴田文史氏の「西海の南蛮文化探訪『五足の靴』幻の長崎編・要の島原編」を参考にさせてもらい、鶴田氏が発掘された「『五足の靴』長崎ロード」を基に吉井と縁の所も加えながら長崎の街を歩くことにしました。
今回は浦上天主堂です。
鶴田氏の「『五足の靴』長崎ロード」では、稲佐の後の訪問地です。稲佐から約3.5㎞、その後の行程を考えると普通に歩いて行ったとは考えにくいので、別の交通手段を利用したと思われます。
浦上天主堂
今は「カトリック浦上教会」と言うそうで、今の建物は1952年に再建されたものです。
吉井達が訪ねた時(1907年)の教会は
1895年より建設に取り掛かり19年の歳月を要したそうですから、上の写真の教会の建造中だったかも知れません。
1945年、原爆で倒壊
今も原爆の悲惨さを伝えるために残されている鐘楼の一部
原爆で破壊された浦上天主堂ですが、鐘楼にあった2つの鐘のうち1つが奇跡的に瓦礫の中から見つかったことはよく知られています。朝ドラ「エール」でもこのことをモチーフにした件がありました。
戦争中は鳴らすことができなかった鐘を、敗戦後、瓦礫の中に見つけて掘り出し、なんとか丸太3本で組んだ櫓に吊るして、クリスマスイブに鳴らしたという話です。
その鐘の音は、藤山一郎が歌った「長崎の鐘」(サトウハチロウ作詞)の歌詞のように、絶望に打ちひがれる人たちの心を「なぐさめ はげまし」たことでしょう。
「長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る」
慰め、励まし勇気を与え続けた鐘の音は、今では、何事もなかったかのように澄んだ音色で長崎の街に響き渡っています。
さて、吉井勇も浦上天主堂を切支丹遺跡探訪として訪れています。もし鐘の音を聞いたのであれば、それは現代のように平和の響きとというより、辛い禁教の時代を経てやっと訪れた「信仰の自由」の証の音に聞こえたことでしょう。
「五足の靴」より40年後、吉井は長崎の教会の鐘の音を歌にしています。
長崎の南蛮寺の鐘の音に心さそはれい往きしもわれ
(歌集「旅塵」長崎曾遊)
なお、歌集には次の一文も添えられています。
「明治四十三年与謝野寛先生等と長崎に遊びてより、既に四十年に近き歳月を経たり。その頃を思へば懐舊の情に堪へず。」
(注:「明治四十三年」は「明治四十年」の間違いと思われます)
紀行文「五足の靴」には長崎の記述がすっぽりと抜けているので、消えた足跡を辿るのは簡単ではありません。
そこで手掛かりになるのは吉井勇の歌や当時のことを述懐した随筆です。
「大江の宿」と題した「五足の靴」時代の回想随筆には次のように書いてあります。
「明治四十年の八月、与謝野寛先生に率ゐられて、北原白秋、木下杢太郎、平野万里、それに私の五人連で、九州を旅した時の思ひ出をうたったものである。この時の旅は、一路汽車で下関から門司へ渡り、福岡で九州路における第一夜を明かしたのであって、それから私達の一行は平戸へ往き、そこにあった阿蘭陀塀とか阿蘭陀井戸とかいふやうな、紅毛遺蹟を見物した後長崎へ往った。そこでは浦上の天主堂や諏訪神社などを見てから、石畳の多い古びた街を歩き廻ったが、その頃はまだ何処の商店の看板にも、日本字と並んで露西亜の文字が用ひてあった。長崎に一晩泊まった後、私たちは茂木の港から船に乗って、天草島の島はづれにある富岡といふところへ渡ったが(略)」
長い引用になりましたが、「浦上の天主堂や諏訪神社など」とはっきりと書いてあります。問題は「諏訪神社など」の「など」です。これに関しては鶴田文史氏の「西海の南蛮文化探訪『五足の靴』幻の長崎編・要の島原編」を参考にさせてもらい、鶴田氏が発掘された「『五足の靴』長崎ロード」を基に吉井と縁の所も加えながら長崎の街を歩くことにしました。
今回は浦上天主堂です。
鶴田氏の「『五足の靴』長崎ロード」では、稲佐の後の訪問地です。稲佐から約3.5㎞、その後の行程を考えると普通に歩いて行ったとは考えにくいので、別の交通手段を利用したと思われます。
浦上天主堂
今は「カトリック浦上教会」と言うそうで、今の建物は1952年に再建されたものです。
吉井達が訪ねた時(1907年)の教会は
1895年より建設に取り掛かり19年の歳月を要したそうですから、上の写真の教会の建造中だったかも知れません。
1945年、原爆で倒壊
今も原爆の悲惨さを伝えるために残されている鐘楼の一部
原爆で破壊された浦上天主堂ですが、鐘楼にあった2つの鐘のうち1つが奇跡的に瓦礫の中から見つかったことはよく知られています。朝ドラ「エール」でもこのことをモチーフにした件がありました。
戦争中は鳴らすことができなかった鐘を、敗戦後、瓦礫の中に見つけて掘り出し、なんとか丸太3本で組んだ櫓に吊るして、クリスマスイブに鳴らしたという話です。
その鐘の音は、藤山一郎が歌った「長崎の鐘」(サトウハチロウ作詞)の歌詞のように、絶望に打ちひがれる人たちの心を「なぐさめ はげまし」たことでしょう。
「長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る」
慰め、励まし勇気を与え続けた鐘の音は、今では、何事もなかったかのように澄んだ音色で長崎の街に響き渡っています。
さて、吉井勇も浦上天主堂を切支丹遺跡探訪として訪れています。もし鐘の音を聞いたのであれば、それは現代のように平和の響きとというより、辛い禁教の時代を経てやっと訪れた「信仰の自由」の証の音に聞こえたことでしょう。
「五足の靴」より40年後、吉井は長崎の教会の鐘の音を歌にしています。
長崎の南蛮寺の鐘の音に心さそはれい往きしもわれ
(歌集「旅塵」長崎曾遊)
なお、歌集には次の一文も添えられています。
「明治四十三年与謝野寛先生等と長崎に遊びてより、既に四十年に近き歳月を経たり。その頃を思へば懐舊の情に堪へず。」
(注:「明治四十三年」は「明治四十年」の間違いと思われます)
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