「五足の靴」の足跡を辿って長崎の街を歩いています。
今回は「五人連れ」が宿泊した上野屋旅館周辺と丸山を訪ねました。
眼鏡橋
長崎に多き石橋また今日もわたりてゆきぬ支那寺を見に(歌集「旅塵」)
この石橋をかけたのは支那寺興福寺の2代住持黙子如定と伝えられています。その黙子の像が橋の横に建てられていました。
次に向かったのが上野屋旅館跡です。
上野屋旅館は当時は長崎を代表する大きな旅館だったそうですが、原爆で倒壊して今はありません。現在は旅館の跡地に長崎家庭裁判所が建っています。
上野屋旅館跡
上野屋旅館跡地の近くに「五足の靴」の記念碑が建てられています。
「五足の靴碑」
石碑
説明板
五人連れは旅館で一服した後、長崎の夜の巷にくり出したようです。
その足どりについては、鶴田文史氏が発掘された「『五足の靴』長崎ロード」(「西海の南蛮文化探訪『五足の靴』幻の長崎編・要の島原編」)を参考にさせてもらいました。
夕刻の出島を通り
支那街を抜けて
この説明板の中に「吉井勇」の名を見つけることができました。
唐人屋敷跡を見て
そして丸山へ
上の写真は丸山町交番ですが、このあたりに花街の二重門があったそうです。
説明板
五人連れが接待を受けたであろう丸山花月
「花月」
奥に進むと
残念ながら予約客しかこの先には入れません。
丸山公園に当時の写真がありました。
「五足の靴」のときの歌ではありませんが、
長崎の丸山の夜の辻をば四つ竹鳴らしゆくは誰が子ぞ
ぎやまんの大酒杯を手に取れば寛濶ごころおさへかねつも
忘るなと口疾に云ひて丸山のたはれめが挿す玳瑁の櫛
かりそめにかき抱けどもしみじみとかなしきかなや夜の女は
―以上歌集「夜の心」長崎紀行より―
翌日「五人連れ」は11時に茂木港を出港していますので、長崎滞在は一日だけでした。さぞかし密度の濃い長崎だったと思いますが、後日次のように嘆いています。
「長崎、長崎、あの慕かしい土地を何故一日で離れたらう。顧みて云ひ知らず残り惜しい」
(「五足の靴」(一七)熊本)
明治40年の「五足の靴」での長崎訪問が強烈な印象を吉井勇に与えたのでしょう。その後、十数回も長崎を訪れ、たくさんの歌を詠んでいます。
今回は「五人連れ」が宿泊した上野屋旅館周辺と丸山を訪ねました。
眼鏡橋
長崎に多き石橋また今日もわたりてゆきぬ支那寺を見に(歌集「旅塵」)
この石橋をかけたのは支那寺興福寺の2代住持黙子如定と伝えられています。その黙子の像が橋の横に建てられていました。
次に向かったのが上野屋旅館跡です。
上野屋旅館は当時は長崎を代表する大きな旅館だったそうですが、原爆で倒壊して今はありません。現在は旅館の跡地に長崎家庭裁判所が建っています。
上野屋旅館跡
上野屋旅館跡地の近くに「五足の靴」の記念碑が建てられています。
「五足の靴碑」
石碑
説明板
五人連れは旅館で一服した後、長崎の夜の巷にくり出したようです。
その足どりについては、鶴田文史氏が発掘された「『五足の靴』長崎ロード」(「西海の南蛮文化探訪『五足の靴』幻の長崎編・要の島原編」)を参考にさせてもらいました。
夕刻の出島を通り
支那街を抜けて
この説明板の中に「吉井勇」の名を見つけることができました。
唐人屋敷跡を見て
そして丸山へ
上の写真は丸山町交番ですが、このあたりに花街の二重門があったそうです。
説明板
五人連れが接待を受けたであろう丸山花月
「花月」
奥に進むと
残念ながら予約客しかこの先には入れません。
丸山公園に当時の写真がありました。
「五足の靴」のときの歌ではありませんが、
長崎の丸山の夜の辻をば四つ竹鳴らしゆくは誰が子ぞ
ぎやまんの大酒杯を手に取れば寛濶ごころおさへかねつも
忘るなと口疾に云ひて丸山のたはれめが挿す玳瑁の櫛
かりそめにかき抱けどもしみじみとかなしきかなや夜の女は
―以上歌集「夜の心」長崎紀行より―
翌日「五人連れ」は11時に茂木港を出港していますので、長崎滞在は一日だけでした。さぞかし密度の濃い長崎だったと思いますが、後日次のように嘆いています。
「長崎、長崎、あの慕かしい土地を何故一日で離れたらう。顧みて云ひ知らず残り惜しい」
(「五足の靴」(一七)熊本)
明治40年の「五足の靴」での長崎訪問が強烈な印象を吉井勇に与えたのでしょう。その後、十数回も長崎を訪れ、たくさんの歌を詠んでいます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます