長崎探訪3日目、長崎歴史文化博物館で催されていた「長崎の黄檗」という企画展を見に行きました。
「黄檗」といえば日本史で出てきた「黄檗宗」という名前ぐらいしか知りませんでしたが、吉井勇を調べる中で、黄檗宗の僧侶の名前やお寺が出てくるのでかなり気になっていました。そんな折、長崎探訪と称して長崎の寺町を歩いていたら、黄檗企画展のポスターを行く先々の唐寺で目にしたのです。これは天祐とばかりに見に行くことにしたのでした。
話はそれますが、天祐といえば諫早の「天祐寺」に何故か黄檗宗の僧侶の書が遺っていて、そこでも「黄檗」が気になっていました。(天祐寺は曹洞宗、黄檗宗は臨済宗なのに…)
天祐時の山門
この額は、黄檗宗の僧侶であり医師でもあった独立(どくりゅう)の揮毫です。
天祐寺横の愛宕社には肥前鳥居がありますが
その額束
この額束は「黄檗宗の三筆の一人『即非』の揮毫」と説明版にかいてあります。
アップ
この愛宕社の石段は、私の普段の上山歩きのコースなので鳥居も「即非」の名前もよく目にしていました。
その「即非」ですが、吉井勇の短歌に
赤寺の沙門即非の額にさす夕日はかなし支那人ひとりゆく
(歌集「夜の心」の「長崎紀行」)
これやこの朱塗りの壁の唐づくり沙門即非の額のある寺
(「歌集「旅塵」の「支那寺」)
即非の額が出迎えてくれる崇福寺の第一峰門
額の「第一峰」が即非の揮毫
さらに興福寺入り口には
巨大な垂れ幕に
「熱烈歓迎 隠元和尚」
そして、そこに置いてあったパンフレット
「11月27日まで」と、これは急がなければ!
パンフを開くと
俄然興味がわいてきました。
吉井勇を深く知る上で、これは黄檗は必須とばかりに長崎探訪の3回目は、五足の靴の足跡巡りから離れて、歴史文化館行きを決めたのです。
さて本題の「長崎の黄檗」展ですが、3階の展示フロアーは撮影禁止でしたので写真は撮れませんでした。黄檗宗の僧侶は、はるばる中国から選ばれて渡来しただけあって多才です。宗教の見識は勿論なのでしょうが、書、絵画、詩などでも優れた才能を発揮していて、遺された作品を鑑賞するとそのことがよく伝わってきました。
2階の常設フロアーはストロボなしの撮影は可能でしたので、そこの展示物の一部を紹介します。
黄檗の三筆
左が即非です。
坊さんは坊主頭でなくていいの?
即非の言葉が残っていました。
「我無煩悩不除髪」
「私には煩悩が無いので髪は剃らないよ」だそうです。
木庵の書画(これは撮影可でした)
別のパネル
左上、冒頭の天祐寺山門の額を揮毫した「独立」の書が紹介されています。
アップ
長崎には黄檗宗のお寺、いわゆる「唐寺」が残っています。
興福寺、福済寺、聖福寺、崇福寺ですが、吉井勇たちが「五足の靴」の時にそれらの寺を訪れたかどうかは、歌集「酒ほがい」(「羇旅雑詠」其🉂 「海の悲み」(明治四十年八月 九州の旅にて)の中に歌が出てないので分かりません。
吉井は明治40年の「五足の靴」の後、何度も長崎を訪れています。
2度目の来崎である大正9年には、随筆「筑紫雑記」に書いているように「ほとんど毎日のように茂吉君(斎藤茂吉)と連れ合って、崇福寺、福済寺、浦上と大浦の天主堂を見て歩いた」とあり、その後出された歌集に唐寺を詠んだ歌が多く出てきます。そういったことから「五足の靴」の足跡を辿る長崎探訪ですが、長崎の寺社巡りをしています。
「黄檗」といえば日本史で出てきた「黄檗宗」という名前ぐらいしか知りませんでしたが、吉井勇を調べる中で、黄檗宗の僧侶の名前やお寺が出てくるのでかなり気になっていました。そんな折、長崎探訪と称して長崎の寺町を歩いていたら、黄檗企画展のポスターを行く先々の唐寺で目にしたのです。これは天祐とばかりに見に行くことにしたのでした。
話はそれますが、天祐といえば諫早の「天祐寺」に何故か黄檗宗の僧侶の書が遺っていて、そこでも「黄檗」が気になっていました。(天祐寺は曹洞宗、黄檗宗は臨済宗なのに…)
天祐時の山門
この額は、黄檗宗の僧侶であり医師でもあった独立(どくりゅう)の揮毫です。
天祐寺横の愛宕社には肥前鳥居がありますが
その額束
この額束は「黄檗宗の三筆の一人『即非』の揮毫」と説明版にかいてあります。
アップ
この愛宕社の石段は、私の普段の上山歩きのコースなので鳥居も「即非」の名前もよく目にしていました。
その「即非」ですが、吉井勇の短歌に
赤寺の沙門即非の額にさす夕日はかなし支那人ひとりゆく
(歌集「夜の心」の「長崎紀行」)
これやこの朱塗りの壁の唐づくり沙門即非の額のある寺
(「歌集「旅塵」の「支那寺」)
即非の額が出迎えてくれる崇福寺の第一峰門
額の「第一峰」が即非の揮毫
さらに興福寺入り口には
巨大な垂れ幕に
「熱烈歓迎 隠元和尚」
そして、そこに置いてあったパンフレット
「11月27日まで」と、これは急がなければ!
パンフを開くと
俄然興味がわいてきました。
吉井勇を深く知る上で、これは黄檗は必須とばかりに長崎探訪の3回目は、五足の靴の足跡巡りから離れて、歴史文化館行きを決めたのです。
さて本題の「長崎の黄檗」展ですが、3階の展示フロアーは撮影禁止でしたので写真は撮れませんでした。黄檗宗の僧侶は、はるばる中国から選ばれて渡来しただけあって多才です。宗教の見識は勿論なのでしょうが、書、絵画、詩などでも優れた才能を発揮していて、遺された作品を鑑賞するとそのことがよく伝わってきました。
2階の常設フロアーはストロボなしの撮影は可能でしたので、そこの展示物の一部を紹介します。
黄檗の三筆
左が即非です。
坊さんは坊主頭でなくていいの?
即非の言葉が残っていました。
「我無煩悩不除髪」
「私には煩悩が無いので髪は剃らないよ」だそうです。
木庵の書画(これは撮影可でした)
別のパネル
左上、冒頭の天祐寺山門の額を揮毫した「独立」の書が紹介されています。
アップ
長崎には黄檗宗のお寺、いわゆる「唐寺」が残っています。
興福寺、福済寺、聖福寺、崇福寺ですが、吉井勇たちが「五足の靴」の時にそれらの寺を訪れたかどうかは、歌集「酒ほがい」(「羇旅雑詠」其🉂 「海の悲み」(明治四十年八月 九州の旅にて)の中に歌が出てないので分かりません。
吉井は明治40年の「五足の靴」の後、何度も長崎を訪れています。
2度目の来崎である大正9年には、随筆「筑紫雑記」に書いているように「ほとんど毎日のように茂吉君(斎藤茂吉)と連れ合って、崇福寺、福済寺、浦上と大浦の天主堂を見て歩いた」とあり、その後出された歌集に唐寺を詠んだ歌が多く出てきます。そういったことから「五足の靴」の足跡を辿る長崎探訪ですが、長崎の寺社巡りをしています。
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