渓谷の岩壁に刻まれた夥しい数の羅漢に
神仏にすがってでも二度と川が暴れませんようにと願う領主の切なる思いが感じられた。
五百もの羅漢を刻むのに8年の歳月を要したという。
なんたる執念。
本明川の源流近くの富川渓谷は、今でこそ観光地であるが、その昔は聖なる祈りの場所ではなかったろうか。不定期に氾濫し、暴れ川となって多くの被害を引き起こす川の源流に、五百もの羅漢を奉納し祈願すれば、川の気まぐれもきっと鎮まってくれるものと。


岩をよく見ると





「諫早家第7代領主茂晴公は、災害による犠牲者の冥福を祈り、また今後の災害を除くため、ここ水源の地富川峡谷の岩壁に五百羅漢を刻むことを発願」とあります。
1701年(元禄14年) 着工
1709年(宝永6年) 完成
実に8年もの歳月をかけての一大事業
彫りやすいところばかりではありません。
絶壁高く刻んであるところもあります。






余談だが、領主茂晴公の母は大陸より仏像を取り寄せ多良岳金泉寺に奉納し、領民の安寧を祈願している。
【高野山真言宗 金泉寺のホームページより】
「元禄12年(1699年)9月本明川の大洪水で死者487人を出し、民家・田畑が壊滅し、翌13年には大干ばつで作物は稔らず、諫早領民は二重の災害に遭遇した。領主茂晴はその対策に大変苦しんだ。茂晴の母堂お糸の方も同様に心痛され、元禄15年支那の商船が長崎に着いたとき千手観音を注文された。翌16年金色に輝く観音様は諫早家に届いた。自宅に安置するのは勿体無いと思われ死者の冥福を祈り、領民の安泰を願って金泉寺に一宇を建立し千手大士の聖像を祀られ女人参拝の縁にしようと発願された。千手観音は明時代(1368~1644)末の作と伝えられている。」
金泉寺の千手観音



神仏にすがってでも二度と川が暴れませんようにと願う領主の切なる思いが感じられた。
五百もの羅漢を刻むのに8年の歳月を要したという。
なんたる執念。
本明川の源流近くの富川渓谷は、今でこそ観光地であるが、その昔は聖なる祈りの場所ではなかったろうか。不定期に氾濫し、暴れ川となって多くの被害を引き起こす川の源流に、五百もの羅漢を奉納し祈願すれば、川の気まぐれもきっと鎮まってくれるものと。


岩をよく見ると





「諫早家第7代領主茂晴公は、災害による犠牲者の冥福を祈り、また今後の災害を除くため、ここ水源の地富川峡谷の岩壁に五百羅漢を刻むことを発願」とあります。
1701年(元禄14年) 着工
1709年(宝永6年) 完成
実に8年もの歳月をかけての一大事業
彫りやすいところばかりではありません。
絶壁高く刻んであるところもあります。






余談だが、領主茂晴公の母は大陸より仏像を取り寄せ多良岳金泉寺に奉納し、領民の安寧を祈願している。
【高野山真言宗 金泉寺のホームページより】
「元禄12年(1699年)9月本明川の大洪水で死者487人を出し、民家・田畑が壊滅し、翌13年には大干ばつで作物は稔らず、諫早領民は二重の災害に遭遇した。領主茂晴はその対策に大変苦しんだ。茂晴の母堂お糸の方も同様に心痛され、元禄15年支那の商船が長崎に着いたとき千手観音を注文された。翌16年金色に輝く観音様は諫早家に届いた。自宅に安置するのは勿体無いと思われ死者の冥福を祈り、領民の安泰を願って金泉寺に一宇を建立し千手大士の聖像を祀られ女人参拝の縁にしようと発願された。千手観音は明時代(1368~1644)末の作と伝えられている。」
金泉寺の千手観音



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