車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

小川酒造(おがわしゅぞう) in 倉吉市河原町

2017年07月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

二日目の倉吉町歩きは倉吉市河原町「小川酒造」から。

小川酒造は酒造業を営んでいた旧家。明治期に建てられた主屋は町家に特徴的な低い軒を持ち、東側半分を占める店舗部分と西側の住居部分で構成され、いずれも登録有形文化財の指定。

店舗部分の東側には大正期に増築された洋館の応接間が続きますが、外からではこれが一杯。それでも僅かに見えるコリント式のオーダーなどは、流石にとため息をつかせる美しさ。

「小川酒造」の塀沿いに細い路地を抜けると、さらさらと心地良い水音が聞こえてきます。赤煉瓦のある一画が、多分、鳥取県指定名勝「還翆園」。

鉢屋川沿いに旧仕込蔵と連続して建つ土蔵造2階建の「小川酒造の槽場(ふなば)」

かつては鉢屋川を利用した水車が設けられていたそうで、煉瓦積みの壁体が残されています。これらの遺構は水力利用の様子を今日に伝える建物として他の建物と共に登録有形文化財となっています。

訪問日:2012年4月20日

 

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打吹(うつぶき)賀茂神社 in 鳥取県倉吉市葵町

2017年07月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

倉吉市葵町、打吹公園に隣接する保存林の中に鎮座される「打吹(うつぶき)賀茂神社」。御祭神は『賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)』

由緒・縁起に「往古、山城国上賀茂神社から分霊を勧請。寛政年代まで倉吉町の総氏神とされ、「賀茂皇太神宮」「賀茂大明神」と称した。明治維新の折「賀茂神社」と改称、郷社となり倉吉町東半分の氏神となった。」

石段参道の先に一の鳥居。その先より神域を守護されるのは昭和36年(1961)12月生まれの出雲丹後系狛犬さん一対。

境内参道の手前に「御神水・夕顔の井戸」。古来よりこの地には「打吹天女伝説」があり、この井戸で天女が水浴びをしたと言われています。多少の設定の違いはありますが、やがて羽衣を手にした天女は、この井戸の傍らに咲いていた夕顔の蔦をつたって天に帰った為と云い、以来この井戸を「夕顔の井戸」と称するようになりました。

生茂る保存林に囲まれた参道の石段・・・町歩きの後にこの急な石段は流石にきつい・・

境内の入口に随神門。真っ直ぐ正面に、やっと(^^;)拝殿が見えてきました。

随身門の内より神域を守護される随身様。どれほどの時をこの地で過ごされたのでしょうか・・

参道正面に唐破風の拝殿

拝殿後方に妻入りの本殿

扉脇に施された彫刻は、「強きものだけが生き残れる」の例えとして知られる「獅子の子落とし」。

本殿唐破風には高く顔を上げ、身をくねらせる龍。

社殿の傍に「雷神降臨のもみの木」「2007年8月19日、この地に落雷があったが、被害は樅の古木二本のみで他に被害はなく、まさに「賀茂別雷神(雷を分ける神)」の御名の通り、災難除けに霊験あり。」現地駒札より

社殿近くに還座される境内社:東仲町「天満宮」・魚町「天満宮」

西仲町還座される境内社「天満宮」

朱の鳥居の内に鎮座される「稲荷舎」。

手作りと思われる沢山の「打吹流しびな」絵馬。4月の上旬、神事がとり行われたあと、ひな人形の絵馬を玉川に流し、子供の成長と玉川の浄化を願います。

境内を取り巻く保存林は豊かな自然に恵まれており「ほたる生育地」としても有名だそうです。夜の静かな闇にゆれる蛍の灯・・それはもしかしたら天に帰っていった天女の溜息かも知れません。

参拝日:2012年4月19日

 

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打吹玉川の町並み散策~Ⅲ~ in 鳥取県倉吉市

2017年07月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

気が付けば何度も行ったり来たりの玉川沿い、それでも見飽きないのが何ともすごい(笑)

心地よい水音を感じながら歩いていくと、何ともモダンな寺院に行き当たりました。これでもれっきとした浄土宗のお寺だそうで、豪商『淀屋清兵衛』歴代の墓もあるそうです。

「大蓮寺」の画像は寺紋に向かい合う一対の白蛇しか無いのですが(笑)、かわりに入口近くにあった「弁天堂」。目的は、池の中で陽気に尾びれを上げている石州瓦の鯱(しゃちほこ)さん。

多分何処かの屋根においでだったんでしょうが、どのような経緯で地上の池に降ろされたのか・・・でもその顔を見てると満更でもなさそう(笑)

そうそう、「弁天堂」の向かいのお宅の褄壁に素敵な鏝絵を発見!!。ルネッサンス風の美しいデザインは、明治大正時代の洋風建築に、たまに見かける事があります。

洋風建築と言えば、昭和六年に建てられた「旧日本産業貯蓄銀行倉吉支店」。倉吉初の鉄筋コンクリート造の建物は、草木染のお店「ぎゃらりぃ和」として活用されています。

破風中央の「星」のマークは銀行章? それを包み込むように蔦の束。

明るく開放的なこの一角は、2003年に火災で焼失した建物の跡地に作られた「くら用心」。現在は地域の防災センターとして機能しており、この庭を抜けると再び玉川に出る事ができます。

町歩きの締めくくりは「倉吉ふるさと工芸館」

「絵をそのまま織り込んだ様な複雑な模様が美しい倉吉絣。約200年前『稲嶋大助』が花鳥山水の絵絣を織り、普及させたものです。明治時代、諸外国の万国博覧会で受賞するなど名声を博しました。現在、倉吉絣保存会が倉吉絣の伝統を受け継ぎ、倉吉ふるさと工芸館にて、自作の着尺、暖簾から鞄、財布、テーブルセンターまで展示販売しており、機織りの実演も見学できます。」公式サイトより

町歩きの時々に見かけた「打吹天女伝説」。湯梨浜の羽衣石でも羽衣伝説があり、そこでも最後に子供たちが鉦や太鼓を打ち鳴らした山として「打吹山」が出てきます。大方の設定は似たようなもので、ここでは羽衣を隠すのは倉吉に住む若い樵。近くの湧き水で水浴びをしていた天女の羽衣を見つけ、天女の頼みを無視して家に持ちります。仕方なくきこりの妻になった天女は、やがて二人の子供の母に。ある時、母親から、父親が何か隠していないかと聞かれた子供たちは、屋根裏から箱を見つけ出して母に渡します。母親は箱の中の羽衣をまとうと、もう子供たちの事もすっかり忘れて、井戸の傍の夕顔のつるを伝って空に舞い上がりました。

子供たちは泣きながら母の後を追いかけ、山の上で母の好きだった鼓を打ち、笛を吹き鳴らして母を呼び求めました。けれど優しかった筈の母は一度も振り返る事なく彼方に消え去ってしまいました。子供たちが打ち鳴らす音は何時までも鳴りやむことがなく、その時から人々はこの山を『打吹山』と呼ぶようになったと云います。

泣き叫ぶ我が子の存在も眼中に無く、一切の情愛を持たない天女。実は天女には親子という観念が無いのかもしれません。羽衣を無くした時点で天女は人間と同じになり、夫婦として、人の親として存在します。が、ひとたび天女に戻ってしまうと、人間界のすべては霧の如く消え去ってしまうのです。天女にとって人間界で過ごした時間は、おそらく瞬きの一瞬よりも短い時間だったのでしょう。三保の松原、峰山の天女、余呉の天女・・幾つかの伝説の地を巡って出てきた私なりの答えです。

訪問日:2012年4月19日

 

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打吹玉川の町並み散策~Ⅱ~ in 鳥取県倉吉市

2017年07月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

玉川沿いに並ぶ白壁土蔵群と連続して玉川に架かる石橋の情景、倉吉の代表的な景観として観光案内やその手の番組にも頻繁に登場します。

この日も多くの観光客が絶好の撮影ポイントを求めて、石橋を行ったり来たり。もちろん私たちも行ったり来たり(笑)

元「高田酒造」の酒蔵だった建物内部を改装した、創作工房「アートハウス夢扉」。登録文化財の建物は、地元芸術作家の創作工房として活用されています。

「高田酒造」の建物は、天保14年(1843)の建築で、県指定保護文化財。倉吉の商家を特徴づけている格子や低めに押さえられた軒など、貴重な町家の姿を伝えます。御亭主殿、ここでも地酒の銘柄に釘付け(^^;)

宝暦10年(1760)の建築で、倉吉市に現存する最古の町屋建物「旧牧田家住宅・倉吉淀屋」。こちらでは貴重な町屋の内部が一般公開されており、係りの方の詳しい説明と共に、洗練された町屋の内部が見学できます。

代々呉服屋を営んでいた「豊田家住宅(久米郡倉吉驛)」。現在の主屋は明治33年(1900)築で、昭和5年(1930)に増築された離れとともに、登録有形文化財の登録。正面軒は出桁造とし、壁面は鼠漆喰塗とする等当時の町屋の様式がよく残されています。

明治10年創業の老舗「桑田醤油」、歴史を感じさせる商家造りは県指定保護文化財。

寛延~文政年間の建築とされる「山陰民具」。明治年間に幾つかの改修が行われたものの、茅葺町家建築の歴史を伝える貴重な建物として、登録有形文化財の指定。

「○○家」と書かれた案内が無くても、思わず足を止めて見入ってしまう建物。一足ごとに、角を一つ曲がるごとにそんな素敵な佇まいが幾つも続きます。角地にある建物は、かって医院だったのでしょうか? それとも現役?壁に「婦人科」と書かれた看板が見えます。

「犬矢来」の中で仲良く並ぶ「双体道祖神」、傍らにはこれもやはり「双体道祖神」が三体揃って並んでいます。多分、どこか別の土地から運ばれてきたのでしょう。「犬矢来」に収まる姿が、まるで菰に包まれているようでとても暖かい。

少々歩きつかれました。このあたりで、美しい町並みを見ながら美味しいコーヒーでも頂く事にしましょう。白壁土蔵群にある「赤瓦五号館 久楽」。1階の民芸品ショップには楽しいお土産が一杯で、あれもこれもと目移りしそう。

まだまだ続く打吹玉川の町歩き、続きは明日の町並み散策~Ⅲ~で

 訪問日:2012年4月19日

 

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打吹玉川の町並み散策~Ⅰ~ in 鳥取県倉吉市

2017年07月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

年間50万人以上の観光客が訪れる「重要伝統的建造物群保存地区・倉吉市打吹玉川」。黒板塀に白い土蔵造りの建物が並ぶ町並みは、パンフレット等でもすっかりお馴染み。

江戸初期から大正時代まで商業都市として栄えた打吹地区。本町通りや玉川沿いには、江戸時代末期から昭和前期までの伝統的建造物約100棟が現存し往時の面影を偲ばせています。

有名な建物やお店が目当てでない町歩きは、ある意味とっても自由で気まま。そうして一足ごとに出会う各々の佇まいに魅了されます。紫の暖簾に染め抜かれた「餅一筋 清水庵」。餅一途に商ってきた餅屋ならではの名物「餅しゃぶ」が有名だそうです。

魚町通りの「倉吉大店会」。明治41年(1908)に第三国立銀行倉吉支店として建設された擬洋風建築の建物は、複数の金融機関を経て、現在はカフェ、事務所として使用されています。

歴史のある町並みには歴史のある寺社も多く存在し、慶長十年(1605)に開創された曹洞宗の名刹「大岳院」もその一つ。

もと駿河沼津城主 中村彦左衛門一栄公の菩提寺で慶久寺と称していましたが、一栄公の移封とともに伯耆八橋に移転。 一栄公の没後、嫡子の倉吉城主 中村伊豆守が一栄公を開基とし、その法名から「萬祥山大岳院」と名づけ、父の実兄で慶久寺十世 孝山智順禅師をむかえて開創しました。

境内には、江戸幕府によって伯耆国に配流され、元和8年(1622)にその地で没した安房国(千葉県)館山城最後の城主『里見安房守忠義』と主君への忠義に殉じた8人の家臣が葬られています。家臣につけられた戒名には、共通して「賢」の字が入る事から八賢士と称され、この「八賢士」を『南総里見八犬伝』に登場する「八犬士」のモデルに求める説もあるそうです。

また同じ境内には、『明治天皇』の高祖母にあたられる『大江磐代』の母君『お林の方』の墓所もあります。

参詣を済ませたら再び町歩き。こちらの建物は江戸時代の嘉永年間から酒造りを続ける「元帥酒造」。石州瓦の赤と白壁のコントラストが美しく町並みに溶け込んで、思わずウットリ。

御幣の巻かれた杉玉。心惹かれるラベルの名前・・ご亭主殿、町歩きは始まったばかり!帰りに寄りましょうね!

まだまだ続く打吹玉川の町歩き、続きは明日の町並み散策~Ⅱ~で

訪問日:2012年4月19日

 

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上井(あげい)神社 in 鳥取県倉吉市上井

2017年07月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

JR倉吉駅を下に見下ろす高台、倉吉市上井に鎮座される「上井(あげい)神社」。御際神は、天地開闢の際に出現した初めての神とされる『国常立尊(くにとこたちのみこと)』

由緒に「当神社は寛文(1661)の頃「床大明神」と称し、貞享二年(1685)に「常大明神」、さらに寛永(1624)の頃には「常宮大明神、常磐大明神」等の社名があったと伝えられている。明治維新の頃「上井神社」と改称され、明治44年に神饌幣帛料供進神社に指定。」境内由緒より

急な石段を上がった先より神域を守護されるのは、明治41年(1908)生まれの出雲丹後系狛犬さん一対。阿形さんのあご先が少し欠けているのが少々気がかり・・・

拝殿前左右より守護されるのは、2010年奉納の護国タイプの狛犬さん一対。

境内社「荒神稲荷社」

境内社「若宮八幡社」

 

参拝日:2012年4月19日

 

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天の真名井(あめのまない) in 鳥取県米子市淀江

2017年07月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

神々のふるさと山陰を代表する名水として広く知られる「天の真名井(あめのまない)」。米子市淀江町高井谷、古来より、人々の生活を潤す清らかな湧水は、大山の神々からの贈り物として大切に守られてきました。

「天の真名井」とは、古事記・日本書紀において高天原の「神聖な井戸」を意味し、神聖な水に付けられる最高位の敬称。高井谷の氏神でもある下津守神社の棟札にも、「天乃眞名井乃清久潔幾与(あまのまないのきよくいさぎよき)元水於降玉布(もとつみずをくだしたまう)」と古くから記されている。」現地案内より

日量2500トンの湧水を誇り、蕩々と湧く水は周辺の生活や農業、ニジマスの養殖になど住民とも密接した湧水として活用されています。

「天の真名井」の近くには苔むしたカヤ葺きの水車小屋。一年中休まず回る水車が運ぶのは霊峰大山からの恵みの水。

マンホールのデザインにも使われた水車。清らかな水の恵みと共に優しく歴史を物語っています。

水車小屋の壁に貼られていた紙は、昭和7~10年頃の小学校唱歌「五一じいさん」の歌詞。【ざぶざぶ落ちる 水の音 とんとんひびく きねの音】 鳥取県では、童謡・唱歌のイメージにあった県内80か所の風景を、童謡・唱歌百景として選定。「真名井の水車小屋」、唱歌「五一じいさん」にふさわしい場所なんですね (*´꒳`*ノノ゙

「天の真名井」の近く、樫の木の根元に注連縄が掛けられた自然石。思いがけずに「双体道祖神」に巡り合いました。「元冶元年(1864)」の作。

苔に縁取られた岩の中央にうっすらと浮き上がる神祇像。衣冠束帯姿の男神。長い髪を大垂髪(おすべらかし)に結った小袿姿の女神。

穏やかで、何処までも優しく穏やかな景色の中。耳をすませば聞こえてくるのは流れ行く水のせせらぎ・・・そこかしこにおわす悠久の神の息吹

訪問日:2012年4月21日

       

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歴史的建造物を訪ねて in 鳥取県米子市

2017年07月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

「国登録有形文化財 旧日野橋」

「日野川に初めて本格的な木造橋が架けられたのは明治21年(1888)の事だが、大正12年(1923)の洪水で流失。その為、約2年の工期をかけ昭和4年(1929)に全長365.8m、幅5.8mの現在の旧日野橋が完成。2本の円柱をつないだコンクリート橋脚5基に6連の三角形組合せの骨組みを曲弦材(きょくげんざい)でつなぎ、垂直の間柱(まばしら)をいれた「曲弦トラス」構造に、各連のつなぎ目に半円アーチをくりぬいた曲線型の橋門梁を渡し、親柱には四角い切石積みの花崗岩を使用。道路のトラス橋としては県内で最大、最古の橋で、大山を背景とする姿は、米子を代表とする景観として地域の人々に親しまれている。」公式HPより

1998年5月、日野橋左岸側に設置された、明治21年架橋の「初代日野橋(木橋)親柱」と、大山を背景に日野川をまたぐ旧日野橋。

米子市車尾南、米子市制60周年記念事業の一環として昭和62年(1987)11月に水道記念館としてリニューアルオープンした「国登録有形文化財:米子市水道記念館」。大正15年(1926)に竣工し、水道創設当時から昭和45年(1965)までの間、車尾中央ポンプ場上屋及び監視室として上水道の安定供給を支えてきた施設。

外観は白壁に赤瓦、一部にアーチの窓があるロマネスク風のモダンな建築・・なのですが、画像に残せたのは距離を保てた一部のみ(^^;)

「水道記念館の横に池を挟んで建つ「創設記念碑」は『伊藤正文氏』の設計で大正14年に建設。花崗岩を貼り合わせた高さ7メートルの鉄筋コンクリート造。四面にアーチの装飾を施した矩形の土台に円筒をのせ、相輪状の円盤を先端に重ね、さらに円筒には6片の石材が花弁状に取り巻く。土台のアーチ部分の扁額には、時の内閣総理大臣若槻礼次郎をはじめ、水道事業に携わった人々が名を連ねる。」公式HPより

開口部の上部には「天助人(天は自(みづか)ら助くる者を助く)」の扁額。

米子市中町、鉄筋コンクリート造り3階建て、赤レンガ色タイル張りの建物は「市指定有形文化財 米子市役所旧館」

「旧米子町役場が火事で焼失した為、昭和5年(1930)に庁舎設計の第一人者の『佐藤功一氏』の設計で建設。建物は近世ルネッサンス様式の鉄筋コンクリート3階建。正面は左右対称の構成で中央に車寄せ、上部にバルコニー。外壁は1階が人造石に目地をいれ、2、3階が赤レンガ色の硬質スクラッチタイル張りでどっしりした外観。昭和57年(1982)まで市役所として使われ、市役所新築移転は米子市立山陰歴史館として利用されている。」公式HPより

米子市の中心部を流れる旧加茂川沿い、江戸時代の情緒を残した白壁の土蔵群が続きます。

川面にゆらゆらと影を落とすお蔵を見ながらの川下りなんて、まさに粋なお大尽の遊び。まるっと庶民の私たちには多分一生縁のない世界(笑)

ところで・・・この川には、なんと!河童が住んでいたという江戸時代からの伝説があるのです。と言うことで(笑)白壁土蔵群を背景に、伝説を元にした河童のオブジェが設置。

ゲゲゲの鬼太郎の作者『水木茂』監修の「河童の三平」。

柱をよじ登る河童の父子。ちなみに父子像に紛れ込んだ赤い服の怪しい人物、一応・・河童の仲間ではありません(-"-)

旧加茂川沿いを更に行くと、国重要文化財に指定された「回船問屋 後藤家住宅」。江戸時代初期に石見国から移住し、代々、藩の米や鉄の回漕の特権を与えられた回船問屋。明治の初期には、北側道路に面した敷地に数多くの蔵や付属建物が建ち並んでいたと言います。

川向うから見ると、その広大さが更に実感できます。

ここから立町の方に歩いていくと、レトロな看板の駄菓子屋さん「岡本一銭屋」

子供の喜ぶ駄菓子が売られており、店の前にはちょっと年かさの子供たち?もたむろしています(笑)

米子市の中心駅「米子駅」の東側にある「だんだん広場」。ここには山陰で初めての鉄道路線を記念した、記念碑やモニュメントなどがあります。

じっと見ていると脳裏に浮かぶあのシーン、耳によみがえるあのフレーズ・・・・【今 万感の思いを込めて 汽車が行く・・】

訪問日:2012年4月21日

 

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新印(しい)神社 in 鳥取県米子市下新印

2017年07月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

米子市下新印に鎮座される「新印(しい)神社」。御祭神は『高皇産靈神(たかみむすびのかみ)・神皇産靈神(かんみむすひのかみ)』。合祀『天津彦火瓊瓊芸神・木花開耶姫神・彦火々出見神・天忍日神(あめのおしひのかみ)・少彦名神・栲幡千々姫神(たくはたちぢひめのかみ)・三穂津姫神(みほつひめのかみ)、天道根神(あめのみちねのかみ)・天神玉神(あめのかみたまのかみ)』。

「往古は今の上新印に鎮座し「王子権現」と称した。日野川洪水の際本社末社共悉く流失、後に下新印村荒神宮の社地に社殿を新築。「霊像権現」とし、明治元年に現社号に改称。同時に、当社の摂社「梅宮大明神」の御祭神九座を合祀。」

境内より神域を守護されるのは出雲丹後系狛犬さん一対。「平成七年六月建之」の刻。彩色の加減もありますが相当な強面(笑)それにしても口中の赤が妙にリアルで怖い(^^;)

社名は不明ですが、境内社の前で神域を守護される小さな狛犬さん一対。

阿形さんはすっかりお顔が剥落していますが、それでもきちんと神域を守護されています。

三対の「御崎稲荷」が奉納されている事から、「境内社:稲荷社」と思われます。

文政四年巳九月吉日奉納文字がある境内社

拝殿左に大きく枝を広げて聳える「ご神木:スダジイ」。幹周り4m。高さ12m。

御神木の前より神域を守護されるのは出雲構えの狛犬さん一対。吽形さんの尾っは付け根からすっぽりと剥落しています

参拝日:2011年5月20日

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御神名一口メモ

『三穂津姫神(みほつひめのかみ)』、「高皇産霊尊」の娘で「大国主神」の后。

『天道根神(あめのみちねのかみ)』、饒速日命に随行した三十二神の一柱。神武天皇のときに「紀伊国造(きのくにのみやつこ)」となった。紀氏・川瀬氏らの祖先神。

『天神玉神(あめのかみたまのかみ)』、饒速日命に随行した三十二神の一柱。三嶋縣主・新田部直の祖とされている。新撰姓氏録では恩智神主の祖と伝えている。

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貴布禰(きふね)神社 in 鳥取県米子市車尾

2017年07月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

米子市車尾(くずも)に鎮座される「貴布禰(きふね)神社」。御祭神は『闇龗(くらおかみ)神、高龗(たかおかみ)神、船玉神』。合祀『誉田別命・宇賀魂・天照皇大御神・道真公・大歳神・大己貴命』

「創立年代は不詳、正慶年中、『後醍醐天皇』が今尾村の深田某の宅へ御行幸の途中、当神社内にて御鞍を敷き御座とした事から、此所を鞍敷と称し、社号を「鞍敷神社」と改称。宝永7年(1710)、雨乞い・雨止み・農耕開拓守護神として霊験あらたかな貴船神社の御分霊を慕い、「貴布禰神社」と改め、明治元年の神社改正の際に境内地にあった摂社を合祀。」

鳥居をくぐり参道正面に奉納石灯籠に護られた「隋神門」

随身門の内より神域を守護されるのは、綺麗に彩色された矢大臣・右大臣

参道正面に、明治31年(1898)建立の拝殿。

 

拝殿前参道の左右、まだ新しい覆屋の下より神域を守護されるのは市指定有形文化財「貴布禰神社石造唐獅子」。鳥取県最古の天明四年(1784)建立の年号を持つ狛犬さん一対。

「神社御改帳」にも「石唐獅子」として記載があり、『石工:戸上武助』の名が残されています。

たてがみや足の毛の流れに独特の形状が残る狛犬さん。実際に生で拝見できて光栄です。

拝殿前より神域を守護されるのは2000年生まれの機械彫り狛犬さん一対。ユーモラスな大口に免じて(笑)

拝殿虹梁の龍

拝殿木鼻の獅子。

「伊勢神宮遥拝所」

米子市指定文化財「朝比奈三郎、曽我五郎の草摺りを抜く図」。海池(かいけ)村出身の画僧『とう然』自筆の絵馬だそうですが、もちろん現物は見られません。案内板の写真から。

何気なく見過ごしてしまいかけた古い手水鉢、よく見ると縁がとぐろを巻いた龍の意匠。石の感じから相当の年代物に見えますが、特に説明は無し。

参拝日:2012年4月21日

 

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