車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

若桜線・八東駅~丹比駅 in 鳥取県八頭町

2017年06月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

八頭町才代字中ソガメ、始発駅郡家駅から六番目「八東(はっとう)駅」。ここでは駅舎の事務室部分が山岡電機八東工場になっています。

すっかりお馴染みになった切妻造の屋根

お日様が差し込む駅舎の待合室。壁に作り付けの長いベンチ。柱の上で時を刻む掛け時計。本当に静かでゆったりとした時間が流れている

遠い昔の記憶の中、それとも昔見た映画のワンシーンだったか・・僅かに見覚えのある木の改札口、ガラス戸の引き戸、漆喰の白い壁・・

駅舎をでた線路南側の乗り場が1番線ホーム、線路北側の乗り場が2番線ホームになっており、一番線ホーム側には清掃の行き届いた木造の待合所が設けられています。

全面ガラス張りの待合所。待合室と同じような作り付けのベンチ。反対側には大きな庇屋根がありベンチも備え付けられている。多分この駅は乗降客が多いのでしょう。

待合所の後ろ側はかって線路が引き込まれていたと思われる形状になっており、白く塗られた「有蓋緩急車」が保存展示されています。上手に再利用できれば、八東駅の隠れた名所になるかもしれませんね。

待合所から見下ろす駅舎。左端が改札口、右手のサッシドアは「(株)山岡電機」の入り口。こうしてみると随分と高い位置にホームがある事に改めて気づきます。

八頭町南字小判、始発駅郡家駅から七番目「丹比(たんぴ)駅」。日本の駅で唯一、読みが「ぴ」で終わる駅名として一部マニアには有名です。

これまで見てきた駅舎と同じ様に、ここもまた甘酸っぱく懐かしい空気に包まれています。それほど頻繁に電車を利用してきた訳でもないのに、この既視感は何処から来るのでしょう。

ホームに座って電車を待つ。胸の中を去来するのはこれから向かう場所への期待・・それとも不安なのだろうか?そう・・私は故郷を捨ててたった一人で都会に出てきて・・いまこうしてあの日の事を思い出しているのです。

駅の名前が違っているだけで目に映る光景はあの時ととても良く似ている。あの日私は何を考えていたのだろう? 痛いほど唇を噛んで、絶対に泣くもんかと心に言い聞かせていた。あんなにも辛かった筈の過去をこんな風に懐かしむ事が出来る・・それは何と幸せな事か。隣に座る人の顔を見ながら深く息を吸い込み、せぇ~ので一緒に立ち上がる。

残すは町を超えてつながる若桜線:終着駅「若桜駅」。駅ごとに蘇*って来た様々な思い出、それは決してキラキラとしたものだけでは無かったけれど、それでも私にとっては懐かしい思い出に繋がる大切な一コマ。

訪問日:2012年4月15日

 

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若桜線・隼駅~安部駅 in 鳥取県八頭町

2017年06月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

八頭町見槻中字立縄、始発駅郡家駅から四番目「隼(はやぶさ)駅」。入り口の壁一面に貼られた「隼」のポスターが存在感を示しています。

「2008年8月、東京都千代田区隼町のライダーが「自分が住んでいる住所と同名の駅が鳥取県にある」と気づいたのを切っ掛けに来町。8月8日を「88(ハヤ)ぶさの日」と命名。バイク専門誌が「隼”のオーナーは隼駅に集合!記念写真を撮ろう」と呼び掛けたところ、大阪、神戸、岡山から7台のバイクが来町し「来年もこの日に(8月8日)に集まろう」と約束しあった。このライダーの企画こそ隼駅を全国に発信する絶好のチャンスと、地元有志が2009年8月に「隼駅を守る会」を結成し「隼駅まつり」の開催にこぎつけた。初のまつりには北海道から沖縄まで全国から100台が終結。当初懸念された暴走行為等も無く、祭りの開催は成功をおさめた。回を重ねるごとに台数も増え2013年の5回目には700台ものバイクが全国から参加。いつしかライダーたちにとって同駅への訪問が”聖地巡礼”として定着。今では年間2500台の隼ライダーが訪れるまでになった。」「若桜鉄道:隼駅を守る会」広報誌より

厄介な病気を発症した私の所為でタンデムが難しくなり、結局バイクを手放してしまった御亭主殿ですが、バイクへの愛着は今も変わっていません。乗っていたバイクはシャドー一辺倒でしたが、バイク乗りのカッコよさはメーカーや車種が何であろうと関係ない・・と、熱く語っておりました(笑)

窓口で切符を買い、少し大きな荷物は「手小荷物貨物取扱所」で専用の切符を買って持ち込む。事務手続きが人の手によって賄われていた時代、それは煩雑ではあっても懐かしく心温まる光景であったと思う。今、駅事務室は往時の面影を残したまま、売店「把委駆(バイク)」として鉄道グッズの販売、スズキ公認の隼グッズ、さらに「聖地巡礼之証」が販売されています。

駅舎からホームに。「隼駅をまもる」方々の心配りだろうか。塵一つ、ゴミ一つないホームに立って、来ないと知っている電車を待ってみる。

駅舎の向こう、ホーム脇の引き込み線には、ライダーハウスに使用するため2010年11月に北陸鉄道から譲受された電気機関車(ED301)

更に2011年7月にはJR四国高知運転所所属だったオロ126が搬入され上記の機関車と連結。同車は夜行列車「ムーンライト松山」「ムーンライト高知」に使用されていたことから「ムーンライトはやぶさ」と命名。車内はED301同様、ライダーハウスとして使用。

車内の様子・・元々カーペット敷きにし5区画のセパレーションを取り付ける改造を受けていたため、特に手を加えられることなく活用されています。

八頭町日下部字徳尾、始発駅郡家駅から五番目「安部(あべ)駅」。駅の本屋が理髪店と一体化しており、玄関側から見るとどっちが主なのか悩ましいところ(笑)。当駅は理髪店のオーナーが駅長を兼務しているそうで、理髪店がお休みの時は無人駅になります。

無人の改札を抜けて・・

「よう来なったねぇ」。いきなりさわやかな笑顔に出迎えられて面くらう私たち。ピンクのエプロンが可愛らしい若奥さん風の女性と、横のベンチには親御さんかな?

とりあえず挨拶を返して駅の待合ベンチに・・おやここにも先客が。

お邪魔をしても何なので線路を渡って向こう側に。待合のベンチに仲良く座っているのは「フーテンの寅さん」こと、寅二郎と町の誰かをかたどった人形。さっき改札口で出迎えてくれた三人連れに、寅さん+一名、みんな同じ「案山子人形」なのです。

昨日紹介した因幡船岡駅にもいましたよね。お父さんと小さな兄弟。紹介はしていませんが、実は隼駅にもちゃんといました。等身大の人形に、普通に生活臭のある衣服を着せて「そこ」に存在させる。踏切で偶然見かけた光景ですが、トラックの荷台に乗せられた案山子人形。中々シュールで、目を引きます。聞けば頼まれてた人形が出来上がったので運ぶところだとか・・

おや、そうこうしているうちに構内に電車が入ってきました。若桜鉄道を走る気動車は「WT3000形3001 さくら1号」「WT3300形3003 さくら3号」。形式称号の「WT」は、列車が走る沿線にちなんで「W=若桜・T=鳥取」を意味しています。

前も後ろも同じなのですが、折角両方を写せたので(笑)。どこかに車を置いて、何の目的も無くのんびりと各駅停車の電車の旅・・悪くないね~。

ホームの向こう側に並ぶ桜。記憶の片隅にこんな光景のホームに降り立った自分の姿があったような気がする。懐かしく美しい・・・多分日本の至る所で見られた光景だったのかもしれない。

個人のお名前とメッセージが刻まれたプレート付の枕木。公式HPに「若桜鉄道は多くのファンの応援で支えられています。枕木オーナー制度は一口5,000円で3年間一本の枕木に名前入りのプレートを貼ってもらえます。3年間は構内入構料無料となり、3年後には記念にプレートが返送してもらえます。」

各駅ごとに凝らされた工夫。そこに至るプロセスも何もかもを含めて、何かを大切に思う人たちの想いがこの鉄道路線を支えている。改めて心の底から枕木オーナーの方々に感謝します。

訪問日:2012年4月15日

 

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若桜線・因幡船岡駅 in 鳥取県八頭町

2017年06月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

八頭町郡家駅から、若桜町若桜駅に至る19.2 kmの路線若桜(わかさ)鉄道:若桜線」

全線単線、駅数は起終点駅含む9駅。全列車が各駅に停車する普通列車で1日15往復(土日は14往復)。1 ~3両編成で運転されており半数程度の列車が郡家駅からJR西日本の因美線に直通し、鳥取駅まで運転されます。

昭和5年(1930)、若桜線 郡家~若桜駅が開業。開業当時は、沿線周辺で伐採されるスギ丸太の貨物輸送に盛んに利用されてきましたが、戦後になり林業は斜陽化。更に並行するバス路線が増発を続けたため次第に赤字となり、昭和62年(1987)の国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道が承継。JR若桜線は廃止となり若桜鉄道に転換されました。

2008年、駅舎、転車台など23の鉄道構造物が一括して国の登録有形文化財に登録。歴史的な建築物が身近に見られる・・・今回の鳥取の旅ではマンホール収集も兼ねてそれらの駅舎を訪ねる事にしました。郷愁をそそる木造の駅舎・・今回は少し趣向を変えて・・私の中の物語を綴ってみようと思います。

八頭町船岡字上向田、始発駅郡家駅から三番目「因幡船岡(いなばふなおか)駅」。人気のない駅舎の入り口から流れてくる風は、柔らかな草の匂いを含んでもうすっかり春の暖かさ。

ガラス戸で囲まれた明るい待合室。目を閉じれば、遥かな昔・・母や姉と一緒に母の実家に行った日の事を思い出す。木のベンチに座り、電車が来るのを待っていた私の横で、母は少しだけ・・いつもより嬉しそうに見えた。

時刻表を確認し、電車の入ってこないホームに出て彼方に延びる線路を目で追う。彼方に見えるあの山はどの辺りなのだろう・・見知らぬ土地の風景はどこか余所余所しく、耳を澄ませても聞こえるものは何もない。

ホームの片隅には、仕事帰りの父さんの猫車に乗せてもらって、とってもご機嫌な幼い兄弟。御亭主殿、ちょっと羨ましそう(*´꒳`*ノノ゙

木造の駅舎と、人気のないホームと、一本だけの線路。

線路の行先を追いかけて振り返れば、さっき見えてた山は少しだけ小さくなって、ふいに心細さに襲われ慌てて引き返す。

駅舎を出た私たちに満開の桜が微笑みかける・・・「良い旅を・・・」と

2009年、鉄道施設が若桜町および八頭町に譲渡され、両町が当線の第三種鉄道事業者として施設を保有管理。若桜鉄道が第二種鉄道事業者となる上下分離方式にによる運営に変更されました。明日は次の停車駅「隼駅」~そこから終点若桜駅までを順次紹介していきます。

訪問日:2012年4月15日

 

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賀茂(かも)神社 in 鳥取県八頭町宮谷

2017年06月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取県八頭町宮谷に鎮座される「賀茂(かも)神社」。御祭神は『瓊瓊杵命・木花咲耶姫命・彦火火出見命・豊玉姫命・別雷神』。合祀神『素兎神(白兎)・須佐之男尊・天児屋根尊・天穂日尊・猿田彦尊・誉田別尊・市杵島姫尊・弥都波能売尊(みずはのめのみこと)・倉稲魂尊』

県内一の大鳥居を潜り、参道二の鳥居。

由緒創建等不詳。奈良時代の大飢饉の折、託宣によって京都の上賀茂神社から『別雷命』を勧請。元は現社地よりさらに山の手に上賀茂社を構えていたと伝えられる。素兎神は大正3年2月に福本白兎神社より合祀。後に福本地区氏子の願いにより、再び元の地に還座される。

本殿縁側にちらりと見えた神殿狛犬。多分反対側にもおいでと思いますが、祭事の準備中にそれ以上社殿に近づくのが憚られ、画像に残せたのはこの一枚のみ。

神橋を渡って参道左右に脇社。正面に三の鳥居。

その左右より神域を守護されるのは「明治43年(1910)4月吉日」建立の出雲丹後系狛犬さん一対。小首をかしげて何やら熱心に話しかける阿形さん。真面目な顔で聞き入る吽形さん。

良い具合に苔むし始めた姿からは、何とも優しいオーラ―が感じられて思わず笑顔が・・。

社殿に続く拝殿。今日は御祭禮という事で扉が開かれており、直接ご参拝をすることが出来ました。

京都の上・下賀茂神社は「双葉葵」ですが、こちらはちょっと珍しい「丸に右離れ葵紋」。もしかしら私には初見かもしれません。

遥拝所

賀茂神社祭礼幡

参拝日:2012年4月15日

古来よりこの地に伝えられる「天照大神降臨伝説」と「白兎伝説」

≪むかし、天照大神が山に降臨された時、山頂に仮の宿を営もうとされました。その時、一匹の兎が道しるべをし、中山よりはるか山の尾続きにある二つの大石の元に誘いました。ここに仮の宿を営み、しばらくとどまられましたが、道しるべの白兎は消えていました。その白兎は「月読尊」で、後に「道祖白兎六明神」と奉られ、村の氏神として崇敬されました。≫八頭町内の「土師百井・池田・福本・門尾」の地には3つの「白兎神社」があり、古より『大兎(だいと)明神』を祀っていたと云われます。3つの宮で最も大きかった福本の「白兔神社」は、大正時代の神社合祀で「賀茂神社」に祀られ、残された社殿は、下門尾にある「青龍寺」の本堂に移建されました。

 

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伯耆地方の「道祖神」 in 鳥取県大山町

2017年06月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

「国信神社」に祀られていた「双体道祖神」は四体。この画像で見ると実際には十体近くあったのではと思われます。笏や宝珠を持って立つ「神祇像」、雛人形のように仲良く並んで座る「神祇座像」と呼ばれるものがあり、特にこの地方では「塞の神(さえのかみ)」と呼ばれます。

「本来はサエノカミと呼ばれて村の入り口に置かれて、外から来る悪霊や疫病を遮る為に祀られていた。現在は神社の境内に集められ、祀られている。賽の神、幸の神、歳の神、妻の神、斎の神などいろいろな字が当てられて現在では結婚・幸福・交通安全などの御利益があるとお祈りされている。十二月十五日に藁苞に団子を練り入れて神石に塗り「サイノカミさん十五日オセラチャ参る、参らんか」という文句を唱えていたが、今では有志の人々によって藁で作った草履と馬の飾り付けが行なわれている。」原文写し

年代がかなり古い所為か表面の磨耗が進み、互いの表情は読み取れません。きちんと正座し前を向く衣冠束帯姿の男神。横向きに向かい合う女神は男神に何かを差し出しているようにも見えますが・・・・男女ともに正面を向く像が多い中では珍しい「神祇座像」。

家型に刳り貫かれた中に、両手を前に重ねて並んで座る平安装束の「神祇座像」。女神の頭の部分が被り物でもしているのか、かなり特徴的。屋根部分には線刻で模様のようなものが刻まれています。

丸く刳り貫かれた中に、ゆったりとした平安装束の男神と、宝珠のようなものを胸に抱いた女神。線刻ですが高貴な身分である様子が伺える「神祇像」

女神は「宝珠」を胸に抱き、男神は手に「笏(しゃく)」を持つ「神祇座像」。右に文字が刻まれていたのに見落としました。

撮影日:2012年4月21日・鳥取県大山町「国信神社」境内にて

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「壹宮神社」に祀られていた「双体道祖神」は八体でいずれも平安装束の男女。現地案内には「地域にあった7基ほどのサイノカミを集めている。サイノカミの前に青竹を2本建てその間に注連縄を張って祀っている。」

注連縄が架けられた「双体道祖神」。丸く刳り抜かれた中に線刻で、平安装束の男女が並んで立つ神祇像。

「妻木村中 慶応二寅」の刻が読み取れた神祇像。衣冠束帯で笏を持ち腰に剣を挿す男神と、裳裾に打掛を羽織り宝珠を持つ女神。二人の頭上には注連飾りのようなものがあります。

注連縄が架けられた「双体道祖神」。丸く刳り抜かれた中に線刻で衣冠束帯姿で笏を持つ男神。宝珠を持つ女神。

二人の頭上には神殿の屋根部が線刻で描かれています。

駒形に刳り貫かれた中に、仲良く並ぶ素朴な「双体道祖神」。衣冠に笏を持つ男神。綺麗に結い上げた髪の女神は前で両手を合わせた姿勢。面白いのは二人とも素足が見えている事。

かなりの摩耗で分り難いのですが、互いに向かい合っているように見える「神祇像」。大山町で見た道祖神の中では最も小さいものです。

丸く刳り貫かれた中に線刻で、衣冠束帯姿の男神と十二単姿の女神の「神祇座像」

長い年月の所為か土地柄の所為か、苔むした表面に刻まれた二人の姿はかなり不鮮明。明度や彩度を変えて試してみましたが、二人の姿が辛うじて見える程度。

自然石に線刻された衣冠束帯姿の男神と内掛け姿の女神。このまま磨耗させるのは惜しいけれど、時の流れは止められません。

唐破風屋根の下に、衣冠束帯に笏を持つ男神と宝珠を持つ女神の神祇像。表情は読み取れませんが風化の悪戯が二人の顔を向かい合わせているようで微笑ましい。

撮影日:2016年10月22日・鳥取県大山町「壹宮神社」境内にて

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私の中では「双体道祖神」と言えば長野県やそれより東のイメージが強く、まれに他所で見かける事が有るとしても、取って付けたような場所に一体か二体。ああ、何処からか連れてこられたのかな?程度の認識でした。ところが大山町では2012年と2016年に参拝した二つの神社でまとまった道祖神に出会え、改めて調べた所、鳥取の伯耆地方にのみ双体像が集中的に分布しており、その数は300体を越えると・・・この事実をもっと早く知っていれば、大山町神社巡りの選定に「道祖神」の有無を考慮したのに・・残念です。

参考までに「双体道祖神」トップは長野県で「2600体」。二位に群馬県の「2300体」、三位は神奈川県「1300体」。四位が新潟県「400体」、五位が鳥取県「360体」・・・後は山梨県、静岡県が「300体」と続き、岐阜県「70体」、愛知県・島根県・埼玉県で「50体」と推定されています。

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壹宮(いちのみや)神社 in 鳥取県大山町上万

2017年06月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

大山町上万に鎮座される「壹宮(いちのみや)神社」。御祭神は『天忍穂耳命(あめのおしほほみのみこと)、下照姫命、瓊々杵命、表筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命、底筒男命、大己貴命、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、罔象女命(みつはのめのみこと)、菅原道真公、天照大御神、稚日女命(わかひるめのみこと)、少名彦命、素盞鳴尊』。

創立年月は不詳「古来より「一宮大明神」と号した。社伝に、一ノ宮と称する由来は「天照大御神の命により天忍穂耳命が天降らんとした時、皇孫・瓊々杵命が御誕生された事により、古く一ノ宮と称した。」と古老の口碑に伝える。明治元年に、大明神の号を廃し、現在の社号「壹宮神社と改称。大正5年に「津守神社(表筒男命、中筒男命、底筒男命)」「上萬神社(大己貴命、倉稲魂命、罔象女命、菅原道真)」「富岡神社(天照大御神、稚日女命、少名彦命)」「野田神社(素盞鳴命)」「清原神社(素盞鳴命)」「庄田神社(大己貴命)」を合併。

一の鳥居から隋神門、拝殿まで真っ直ぐに続く参道。

拝殿手前、参道脇から神域を守護されるのは、新しく奉納された出雲構えの狛犬さん。機会彫りですがそのユーモラスな表情や、阿形の後ろ足に隠れる子狛の可愛さ。たまにはこれも有という事で。

境内の一角に鎮座される「境内社:庄田社」。社殿の手前に置かれた石製の鳥居額は合祀される以前のものと思われます。

境内入り口近くに「塞ノ神・道祖神」。こちらには六体もの「道祖神」が奉納されています。路傍の神である「道祖神」は決して特殊なものではなく、日本全国に見られるものです。が、男女の姿を写した「双体道祖神」は何故か「信州を代表するもの」と思い込んでいました。前回と今回で、これだけまとまった「双体道祖神」を見ると、思い込みを改めねばと思います。明日は「国信・壹宮」、二つの神社でお目にかかれた「双体道祖神」の紹介です。

撮影日:2016年10月21日

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『稚日女命(わかひるめのみこと)』、高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織っていた神。「素盞鳴尊」の乱暴な行いに驚き、機から落ちて亡くなった。それを知った天照大神は天岩戸に隠れてしまった。

 

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国信(くにのぶ)神社 in 鳥取県大山町國信

2017年06月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

大山町國信に鎮座される「国信(くにのぶ)神社」。御祭神は『誉田別命、帯長足姫命、田心姫命、湍津瘁姫命、市杵嶋姫命、武内宿禰命、素盞鳴命、稚産霊命(わくむすびのみこと)倉稲魂命、保食命、稲脊脛命(いなせはぎのみこと)

創立は不詳「旧記に拠れば『欽明天皇』の時霊験を受け、宇佐八幡より勧請。古くは「国山八幡」、江戸時代には「正八幡宮」、明治4年から「国信神社」と命名。寛永年間(1630~)池田藩主より社領の寄進があり、汗入郡総大社として重んぜられたとある。大正5年に「末吉神社(武内宿禰命、素盞鳴命、倉稲魂)」「末長神社」(素盞鳴命)」を合併。」

夫婦綯えの注連縄が掛けられた、寛政五年建立の二の鳥居、正面に随神門。

参道半ばより神域を守護されるのは、出雲構えの先代狛犬さん一対。もはや阿吽の別さえ難しくなっていますが、それでもきちんと狛犬のお役目を果しておいでです。

隋神門真っ直ぐに拝殿

その先にて神域を守護されるのは出雲丹後系狛犬さん一対。文化九年(1812) 壬申六月吉日」「石工 惣重作」の刻。やんちゃざかりの子狛を押さえつけようとしている瞬間? それを見守る吽形さん。何だかとても微笑ましい。

この向きで見ると・・・かなり威圧的な形相。牙が・・(-_-;)

参道両脇に整然と並ぶ石灯籠、真っ直ぐ正面に入母屋造平入の拝殿。向拝は入母屋妻入。

拝殿左手の境内社。切妻造妻入、唐破風向拝。

向拝下の「龍」。その下に、松の木の根元に人らしき姿と巨大な夫婦岩。左端に「當村 林原福三郎」の刻。作者なのか奉納者なのか不明。

社殿には、社名や祭神ではなく「龍の彫刻、あるいは鏝絵」の額

「龍の額」を守るように木鼻の獅子、注連縄の下で窮屈そう(笑)

境内社「国信荒神神社」。小規模ですが、鳥居と玉垣の中に鎮座され大切に祀られています。御神域を守護する小さな狛犬さんはまだ新しく、おそらく社殿と同じ時期に奉納されたのでしょう。

「境内社:秋葉神社」

境内社「塞ノ神(道祖神)」。注連縄には塞ノ神祭りで奉納された沢山の「藁馬」

画像の大石は「雄鳩石」。昔、宇佐八幡より御分霊を遷宮の祭、この大石に一羽の白鳩が止まったと伝えられます。

手水鉢に刻まれていた社紋(御神文)は「丸に並び矢」

参拝日:2012年4月21日

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『稲脊脛命(いなせはぎのみこと)』、出雲国譲りの際、大己貴神が御子である事代主命の意見を聞くための使者として熊野諸手船(くまのもろたぶね)に乗せて遣わした神。

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逢坂(おうさか)八幡神社 in 鳥取県大山町松河原

2017年06月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

大山町松河原に鎮座される「逢坂(おうさか)八幡宮」。御祭神は『誉田別尊、息長帯姫尊、田心姫尊(たぎりひめのみこと)、湍津姫尊(たぎつひめのみこと)、市杵島姫尊(いちきしまひめのみこと)、天照皇大神、素盞鳴尊、稲田姫尊、天穂日尊(あめのほひのみこと)、活津彦根尊(いくつひこねのみこと)、天津彦根尊(あまのひほこのみこと)、熊野久須日尊(くまのくすびのみこと)、天之忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)、大山祇尊、木花咲耶姫尊、倉稲魂命、武内宿禰命』

由緒「貞観七年(865)に豊前国宇佐八幡宮より勧請、「大阪郷宇佐八幡宮」と称し、その後「大阪八幡宮」と号す。慶長三年(1598)四月、社殿の火災ありて旧記多くは焼失せり。慶応四年(1868)神社取り調べの時、社号を逢坂神社と改められる。合殿武内宿禰命は本社創立の際より相殿に奉祀す。慶応四年、倉稲魂命を合祭す。明治五年二月、郷社に列せられる。大正六年「松河原神社」「岡神社」「河内神社」を合併。大正九年十二月社号を「逢坂八幡神社」と改称す。」公式HPより

神橋を渡った先、随神門には神紋「三つ巴」と「日章旗」。

随神門の内より神域を守護されるのは、美しく彩色された随神様と、木製の神殿狛犬さん。

石段参道の先、隋神門前より神域を守護されるのは、すらりと美しい出雲丹後系狛犬さん一対。

台座に「文化12年(1815)三月吉日」の刻。軽やかな毛の流れも、がっしりとした四肢もほぼ傷一つ、迫力のある綺麗な姿。

美しい曲線を見せる妻入りの拝殿、目貫の注連縄の上には見事な龍の彫刻。

彫刻の下の注連縄が・・・これもおそらく初見ではないかと思われる珍しい綯い方。

拝殿長押の上には「唐獅子と牡丹」

「蓮の上で戯れる唐子」

拝殿木鼻の獅子、嵌め込まれた玉眼が表情を豊かにしています。

妻入り部分の彫刻、線彫りの為鮮明では有りませんが、酒造りをする二人の女性??何かの逸話を元にした彫刻かもしれませんが不明。

奉納絵馬額は、五月例大祭の「浦安の舞」

境内社「武内神社・摂津神社」

境内社「足鶲(あしびたき)ノ神」

境内社「荒神神社」

境内社「白狐稲荷神社」

境内社「旺磐(おういわ)ノ神」

「塞ノ神(道祖神)」

参拝日:2012年4月21日

 

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塩津(しおづ)神社 in 鳥取県大山町塩津

2017年06月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

大山町塩津に鎮座される「塩津(しおづ)神社」。御祭神は『天照大神、素盞嗚命』『倉稲魂神』を合祀。

旧鳥居柱が転用された社号標には「宝暦拾三癸未九月吉祥日」の刻。

自然石の面白みを充分に生かした石灯籠には「大正三年三月建」の刻。

一間社流造り唐破風の御本殿。創建は不詳、古来より塩津村の産土神であり、「逢坂別社妙剣大明神」と称された。明治5年(1872)の神社号改正により「塩津神社」に改称。

赤い瓦の隋神門

随神門より神域を守護されるのは、凝灰角礫岩を使った構え狛犬さん一対。台座には「安政六(1859)未 九月吉日」の刻。撫でるとザラザラと崩れてしまうのではないか・・そんな不安を感じさせます。

随神門の内より神域を守護される色鮮やかな随神さん。

更に色鮮やかに彩色された、木製の神殿狛犬さん一対。

拝殿注連縄は、右綯いと左綯いの2本を1つにまとめた「夫婦綯(めおとない)」と呼ばれる特殊な形。

拝殿に続く一間社流造りの本殿。唐破風懸魚には「菊花」。向拝には互いを睨みあう双龍

これほど立体的な龍の彫刻、そうそうお目にかかれるものではありません。

貫の獏、獅子、向拝の龍頭が同じ高さに迫り出しているのが良く分かります。

「夫婦綯い」の注連縄に護られた「境内社:中尾荒神社

同じく「境内社:塩津荒神社

注連縄が架けられた磐は「塞ノ神(道祖神)」。この一帯には「塞ノ神さん」のお祭りもあるそうですが、どんなお祭りなのか興味深い。

人型らしきものと文字が彫り込まれた碑・・・読めない(-"-)

参拝日:2012年4月21日

 

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名和(なわ)神社 in 鳥取県大山町 

2017年06月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

山陰有数の桜の名所として知られる大山町名和に鎮座される「名和(なわ)神社」。旧社格は別格官幣社。建武中興十五社の一つで、御祭神は『名和長年公』。合祀『名和一族以下四十二名』

由緒「承応・明暦の頃(1652~1658)『名和長年』の威徳を慕う地元の人々によって、名和邸跡とされる場所に小祠を建立。延宝5年(1677)、名和邸跡の東方日吉坂の「山王権現」の社地に新たに社殿を造営して遷座し、「氏殿権現」と称した。明治7年(1873)「氏殿神社」となり、明治11年(1878)「名和神社」と改名。翌:明治12年、別格官幣社の中での名和神社の順序を湊川神社の次にすると定める。」

鎌倉時代末、隠岐国から脱出した『後醍醐天皇』を迎えて倒幕に力を尽くし「三木一草(さんぼくいっそう)」の一人として建武政権下で寵遇を受けた忠臣『名和長年』。鳥取県大山町には後醍醐天皇の御着船所、御上陸跡、御腰掛の岩等々・・いくつもの史跡が残されています。

一の鳥居から〆鳥居、正面に楼門。桜の名所として知られる名和神社境内。春には見事な枝垂れ桜が見られた事でしょう。

「楼門」、その先に「拝殿」

五尺の大太鼓が収蔵された「太鼓倉」

発起「鳥取縣教育會」。奉納「鳥取縣各學校職員生徒児童」。昨今の赤い教育者たちが見たら、間違いなく卒倒しそうな文言(^^;)

鳥居の刻「伯爵東郷平八郎・書」

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一口メモ

「三木一草(さんぼくいっそう)」、後醍醐天皇の建武政権下で重用された4人の寵臣『結城親光・名和長年・楠木正成・千種忠顕』の総称。「ゆう」「ほう(名和は伯耆守)」「くすの」「ちくさ」と4人の姓や官職の読みにちなんだ呼称。建武の乱の戦いで、延元元年/建武3年(1336)前半に相次いで没した。

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