車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

三朝温泉・街歩き in 鳥取県三朝町

2017年05月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

三朝温泉といえばまず最初に思い出すのが、マンホールのデザインにも使われ「国登録有形文化財」にも指定された「三朝橋」

「三朝温泉街を東西に貫流する三徳川に架かる,橋長69mのRC造7連桁橋。4本の円柱と貫,肘木等から構成される橋脚に,桁高を抑えたT形桁を載せ,床版両端で板敷風に目地を切り,橋上には擬宝珠高欄,春日燈籠を設けるなど木橋を意識した丁寧なデザイン。」文化遺産オンラインより

橋を渡ればそこはそこはもう「湯の町:三朝」河原温泉への降り口に寄り添い恋を語らうのは映画「三朝小唄」の主人公たち。

「村娘のお久と、東京から来た青年:俊夫」。互いを想いあいながらも最後は離れ離れになってしまう悲しいラスト。このシーンはきっと二人が一番幸せだった瞬間なのかも。

対照的な顔出しカップルは多分、湯治に来たどっかの若ボンと、綺麗どころのお姐さん。隅にひっそり、縁結びのカジカ蛙も友情出演(笑)

観光センターの記念スタンプは、河原の露天風呂で湯あみする日本髪のお姐さん。

観光センター向かいにある「大綱引き資料館・陣所の館」は、庶民にはちょっと嬉しい(笑)入場無料の施設。

館内には、三朝温泉で毎年5月に開催される「花湯祭り:陣所の綱引き」に使用する藤葛の大綱、ご神木、他にも様々な祭りの小道具が展示されています。

「東が勝てば豊作、西が勝てば商売繁盛」。どちらが勝っても吉祥の占い神事は、2009年に国の無形民俗文化財に指定されました。

三朝トンネルの入り口壁画には、「陣所の綱引き」の様子が鮮やかに描かれています。

ラジウムがアルファ崩壊したラドンが含まれ、世界でも有数の放射能泉として知られる三朝温泉。大正5年(1916)に内務省がラドン含有量が世界2位であると発表した事でいちやく有名に。それと共に温泉街も大きく発展しました。三徳川の両岸に旅館が立ち並ぶ風景は情緒的で、不思議な懐かしさを感じさせてくれます。

国登録有形文化財に指定された「大橋旅館」は昭和7年(1932)の建築。入母屋破風の重厚な玄関は宮大工の手によるもので、客室も一室ごとに粋が凝らされているとか。たまたま通りかかった旅人の足を止めさせるには充分の佇まい。

雨の温泉街を歩き「かじか橋」まで。橋のたもとに建立されていた句碑ですが、誰が何と書いているか・・ こういうのを見てしまうと詳細を知りたいと思うのですが、手掛かりなし(-"-)。

ところで・・・「三朝温泉には、恋愛を成就させる不思議な「カエル」がいる」・・・何時からか、そんな噂が流れました。

うわさの「かじか蛙」。今では顔出しパネルに観光案内看板等々、温泉街のあらゆる場所に出没し、通り過ぎる人を見守っています。

大切な人への手紙、かじかのポストに投函したら、きっと想いが届くかもしれませんね(*^^*)

撮影日:2012年4月20日

 

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三朝(みささ)神社 in 鳥取県三朝町

2017年05月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

三朝町三朝に鎮座される「三朝(みささ)神社」。御祭神は『誉田別尊、大己貴命、素盞鳴尊、武内宿禰命、大山祇命』

創建「大正10年(1921)、三朝地区の氏神「湯村神社(大己貴命)」、外谷地区の氏神「外谷神社(素盞鳴尊)」、砂原地区の氏神「砂原神社(誉田別尊・武内宿禰命・大山祇命)」を合併し「三朝神社」となる。「湯村神社」は三朝温泉を発見した大久保左馬之祐が崇敬庇護した事から「大久保大明神」と呼ばれ、神仏分離令により「湯村神社」と改称。「外谷神社」は当初「牛頭天王」と称していたが神仏分離令により一時排社。明治10年(1877)に湯村神社の境内社として復した。「砂原神社」は当初妙美井山の山頂付近に鎮座し「妙見山正八幡宮」と称したが宝永2年(1705)に字宮ノ上に遷座。三社の合併により村社に列し、大正13年(1924)神饌幣帛料供進社に指定。」

拝殿は入母屋造平入に唐破風、銅板葺、平入で正面1間向拝付。奥に続く御本殿は一間社流造、銅板葺き。出雲のお社を思わせる太い注連縄。

雨の日にも拘らず拝殿内の扉が開けられているのは、参拝される方が多いからでしょうか?私たち以外に人影のない境内。聞こえてくるのは雨の音と、拝殿に吸い込まれていく柏手の音。

境内入り口近く、拝殿前左右より神域を守護されるのは「明治廿一(1888)子春」建立、出雲構えの狛犬さん一対。すっかり角が取れて妙に丸くなった体は、参拝される方に撫で回されたのか、それともラドンの湯気が石を磨いて丸くしたのか(*´꒳`*)

社殿左側に鎮座される唐破風向拝の社殿は「境内社:外谷神社」。

四月も後半なのに今日の雨は殊の外冷たく、指先まで凍え切ってしまいそうですが、参拝前に使わせて頂いた手水鉢には常にラジウム温泉が湧いており、その温かい事! 参拝後に再度、流れ落ちる温泉を手で受けてほ~っと一息。手水舎には「飲泉場:神の湯」の案内があり、飲む事もできるそうです。

生憎の雨で境内をゆっくり見て回るにはいささか足場が悪く・・「三朝の名木」も画像に残し忘れました。ああ、そういえばこの境内は、昭和四年(1929)に製作された映画「三朝小唄」のロケ地になった場所。雑学に詳し過ぎると笑われる私ですが(笑)流石にそれは初耳・・・・(^^;) 歌碑は野口雨情作詞「三朝小唄」の一節で【 泣いて別れりゃ空までくもる くもりゃ三朝が雨となる 】 

参拝日:2012年4月20日

 

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倭文(しとり)神社~Ⅱ~ in 鳥取県湯梨浜町

2017年05月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

「倭文(しとり)神社」の主祭神は近年まで「大国主命」の娘の『下照姫命』とされていました。農業や医療の技術に長け、大国主命と力を合わせて出雲の国づくりに励みました。そんなおり、天照大神は天稚彦という神を遣わし出雲の国譲りを要求しました。ところが天稚彦は下照姫命と恋に落ち、復命することはありませんでした。しかし幸せな日々は続かず、天稚彦は天照大神から遣わされたキジを射殺したことが原因で、天照大神により射殺されてしまいました。下照姫命は夫の死、国譲りによる出雲との別離などを乗り越え、一匹の海亀によりここ伯耆国宇野の海岸に導かれました。そのまま現社地に住を定め、当地で死去するまで安産の指導、農業開発、医療普及等に努めたとされています。氏子である宮内に住む人々は下照姫命の従者の祖先だとされており、さらに周辺にある亀石、宮戸弁天、出雲山といった場所は縁の深い地である、とされております。」公式HPより

境外参道に祀られる「安産石」。その昔、お産が命がけだった時代、何度も難産に苦しむ婦人が、神社に安産の願掛けをしました。やがて迎えた満願の日、婦人は『下照姫命』のお姿を夢に見た後、何時もの様に参拝しました。その帰途、婦人は岩の前で簡単に出産をし、それよりこれを「安産岩」と称するようになりました。昔はこの岩を削って飲むば安産と伝えられていたそうで、岩の一部は大きく抉られています(^^;)

境内を進むと巨大な岩があり、たまにこれを「安産岩」と紹介しているのを見聞きします。多分境内にある岩という事で勘違いされるのでしょう。

参道脇にある「国・史跡 伯耆一宮経塚」は、古来『下照姫命』の墓と考えられていましたが、大正4年の発掘で経塚である事が判明。仏像や銅経筒、銅鏡、瑠璃玉などが出土しました。

これらの出土品は一括して国宝に指定され、現在は東京国立博物館に寄託されています。その出土品の銘文からも、当社が平安時代後期には伯耆国一宮であった事が判明しています。

鳥居を出て暫く歩くと、古代の磐坐信仰を思わせる「夫婦岩」が結界の中に鎮座しています。大小の岩は、夫婦神である『天稚彦命』と『下照姫命』のお姿を映しているのかもしれません。

町指定天然記念物「宮内井戸の椿」

「この椿は井戸の側にある事から井戸の椿と称せられている。井戸は以前より区民の飲用水となっている他、伯耆一宮倭文神社参拝者にとっても身を清め、のどを潤す憩いの場所として古くから親しみを持たれ大切に保存されている。目通り周囲一・五五メートル、枝張りが密にしてよく繁茂し、南北十メートル、東西八・八メートルで樹齢はおよそ二百年とされる」

これは、たまたま車の中から撮ったもので、後に立ち寄らなかった事を後悔した場所。古来よりこの一帯を、伯耆一宮の七弁天と称し、付近の水辺七ヶ所に弁天さんが祭られていたと云いいます。この『宮戸弁天』もその一つとされ、今現在に祠が残っている唯一の神域となっています。もとは小島で、『下照姫命』がこの場所で魚釣りを楽しまれたと・・伝説は語り継いでいます。

『下照姫命』にちなんだ伝説といえば・・東郷湖畔にある「出雲山」。この地に留まられることになった『下照姫』は、故郷である出雲を懐かしんで度々この高台へと足を運ばれました。

それをみた村の人々は、『下照姫』の寂しい心をくんで、この山を出雲山と呼ぶようになりました。

参拝日:2012年4月19日&2016年10月21日

 

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倭文(しとり)神社~Ⅰ~ in 鳥取県湯梨浜町

2017年05月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

湯梨浜町宮内・御冠山の西側中腹に鎮座される式内社「伯耆国一宮・倭文(しとり)神社」

御祭神は『建葉槌命(たけはつちのみこと)』。別名「天羽雷命(あめのはづちのみこと)また、倭文(しず)神」とも呼ばれます。『下照姫命(したてるひめのみこと)、建御名方命、天稚彦命(あまのわかひこのみこと)、事代主命、少彦名命、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)』を配祀。

神社由緒に「創立年代は不詳であるが、社伝によれば『大国主命』の娘『下照姫命』が海路御着船され、従者と共に現社地に住居を定め安産指導、農業振興に尽力されたことから、当神社は安産の神様として県外からも信仰を集め、「一ノ宮さん」と呼ばれ親しまれている。戦国時代に荒廃したが、天文二三年(1554)尼子春久により社殿を造営。後、神領中絶したが、元亀元年(1570)羽衣石城主南条宗勝これを復旧。徳川時代は池田藩主の祈願所となり、明治以降は県社であったが、昭和14年に国幣小社となった。」

鳥居正面に隋神門

随神門の内より神域を守護されるのは、彩色の施された随神様。長い年月の流れが高い身分を示す束帯の色を静かに奪っていくように見えます。

由緒に天文23年(1554)の建築とある社殿。その一つである随神門には実に精緻で見応えのある彫刻が施されています。まずは屋根下の「双龍」、共に宝珠をめぐって睨み合っています。

こちらの一対は、『天照大御神』の神使「鶏」を表しているのではないかと思われます。とは言え、あくまでも「そうではないかと思う」程度なので、さらっと流してください(^^;)

随神門内側の木鼻から、身を乗り出すようにして興味深げに参拝者を見守る阿吽の「獅子」。可愛いのだか恐いのだか、判断に苦しむ顔ですが(笑)、個人的には結構気に入っています。

随神門外側の木鼻には、何でもかんでも愉快でたまらない・・と言った表情の「獏」の一対。「獏」と「像」、よく混同されがちですが、短い鼻で牙があり毛がカールしているのが獏の特徴。

でもどちらも同じように見えてしまうという方には・・耳の穴が見えているのが「獏」。と言うことで、これは間違いなく「獏」と断定しても大丈夫!・・多分(笑)

見返りの獅子と追いすがる獅子の一対は、随神門の内側の天井近くに彫刻されていたもの。

神社彫刻では、どうしても神獣にばかり目がいってしまいますが、花の彫刻も美しいものです。

随身門をくぐりまっすぐ参道の先に拝殿。二度の参拝となった「倭文神社」ですが、2012年当時は早朝過ぎて拝殿の扉は閉ざされたまま。この時は、撮影機材を抱えた「日本海テレビ」の関係者が拝殿の裏手に消えるのを、所在なく見送ったものです(笑)

2016年は、折悪しく鳥取地震のただ中でしたが、拝殿の内から参拝をさせていただきました。あの時は、慌しい中にも関わらず御朱印も書いていただき、本当に有難うございました。

拝殿玉垣前より神域を守護されるのは、文政2年(1819)生まれの出雲構え狛犬さん一対。細く引き締まった足を踏ん張り、天を衝くほどにまっすぐ伸びた尾の何とも見事な事。

文化15年(1818)再建のご本殿。2012年の参拝では、妻下や唐破風に施された彫刻に時を忘れて見入っていました。

妻下:笈形(おいがた)の彫刻は満開の牡丹。

破風の下を埋め尽くすほどの彫刻は、遠目からでもため息が漏れそうな繊細さ。

本殿唐破風の木鼻から、下界を見下ろしている「獅子」、阿吽の表情が違いすぎて笑えました。

位置的なものなのか、それとも本当に意図しているのか、阿形さんの顔って悪魔っぽい(笑)

本殿の屋根下にある木鼻は「像と鶏」。「鶏」に関しては鳳凰の説もあるのですが、どうでしょう?鳳凰ならもう少し頭の部分に装飾があっても良いと思うのですが・・単に簡素化しただけなのかも・・

最後の彫刻は本殿唐破風のこの部分、全体を埋め尽くした「龍」と一緒にいた謎の「神仙」。

「龍」の凝視なぞ物ともせず、「よく見つけたね」と言わんばかりに軽く手を上げてくれるその笑顔に釣られて、笑顔で答える御亭主殿。その感性・・とっても好きです(〃∇〃)

参拝日:2012年4月19日&2016年10月21日

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御神名一口メモ

『建葉槌命(たけはつちのみこと)』=「天羽雷命(あめのはづちのみこと)」「倭文(しず)神」とも呼ばれる。天照大神を天の岩戸から誘い出すために、文布(あや)を織ったとされる。文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物。機織りの祖神。倭文(しどり)氏の遠祖。

『味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)』古事記では『迦毛大御神(かものおおみかみ)』とも呼ばれる。「大国主神」と宗像三女神「多紀理毘売命」の子。鋤を神格化した農耕神。

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『石工・ 川六』 灘郷(なだごう)神社 in 鳥取県湯梨浜町

2017年05月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

東伯郡湯梨浜町泊、日本海を望む高台に鎮座される「灘郷(なだごう)神社」、御祭神は『素盞鳴尊、天宇受売(あまのうずめ)尊、誉田別尊、猿田彦神』。鳥居に刻まれた文字は「文化五年戊辰九月吉日」

由緒に「大正四年に「泊神社(素盞鳴尊)」「石脇神社(天宇受売尊)「小浜神社(誉田別尊)」「筒地神社(素盞鳴尊)の四神社を合併の上、「灘郷神社」と改称し、現在地に遷座。同年、「園神社(猿田彦神)」「水谷神社(素盞鳴尊)」を合併、大正九年、村社に列せられた。」神獣事始めより

境内より見上げる石段。その半ばあたりより神域を守護される出雲構えの狛犬さん一対。

ぐっと低く構えた阿形さん。石工さんの名前も建立年代も不明ですが中々に良い面構えをされています。

対となる吽形さんは、台座と岩肌に挟まれるように突っ伏しています。主のいない台座に刻まれた沢山のお名前は奉納された方達でしょうか?それにしてもお顔に損傷も無い様子、もとの台座にもどしてさしあげる事は出来ないのでしょうか。

石段参道の先、境内入り口より神域を守護されるのは今にも飛び掛からんばかりの姿勢でうずくまる一対。「文久二年 戌五月吉日」、「石工 川六作」の刻。

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両のたてがみの下から覗く前足、研ぎ澄ました爪でグッと岩をつかむ姿は、今まさに獲物を目がけて飛び掛からんとする姿。

そのくせ、妙な人懐こささえも漂わせて。見る位置、見る折々の気持ちによっていかようにも表情を変える。それは決して設計図通りに機械彫りされた狛犬には到底望むべくもない、石工が丹精込めて打ち出した生きた「狛犬」の姿。

ここが最後となる「石工 川六」の狛犬さん。いつかもう一度出会いたい・・だから、キュートな後ろ姿~💗に願いを込めて!!

境内正面に拝殿。左右に狛犬一対、さらにその左右に凝った彫刻が施された一対の灯籠。拝殿屋根の向こうには「泊港沖防波堤西灯台」の姿が。

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御本殿の縁には、辛うじてその姿をとどめる構え姿の狛犬さん。どれほどの年月をここで過ごされたのだろうか? 対となる狛犬さんはもうその面影さえも見当たらない。

拝殿両横の燈籠。笠の上に低く身構える狛犬さん。「明治四十一年三月吉日」の刻。他に石工名らしき文字もありましたが読み取れず。

 

多分・・精一杯威嚇しているのだろうと思うのですが、下から見上げる所為なのか、思わず頭をなでて「よしよし」としたくなる表情(^^;)

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「注連縄に紙垂」が刻まれた燈籠竿部分、「御神搭」の刻。

社殿左に鎮座される境内社「恵比寿社」。御祭神は『恵比須大神』。入母屋造平入に千鳥破風の社殿。その後方にも先と同じように「泊港沖防波堤西灯台」

大国主の御子神で大漁を御神徳とする恵比寿神。暗い夜の海に漁をする船の行く先を照らし、明るい家路を教える港の灯台。どちらも海に生業を求める者には欠かせない存在。それゆえにその白さが眩しくてとても温かい。

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「恵比寿社」雨避板の奥に鎮まられる御本殿。扉には向かって左に雲流。右に松に鷹の彫刻。

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脇障子には琴を抱え龍の背に乗る天女。対の脇障子には、雲間の中、鷹の背に乗る白髭の貴人。

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扉上部には駆ける獅子

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追う麒麟

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参拝を終えて見おろす泊漁港、穏やかな海の色は懐かしい故郷を思い出させて、ほんの少しだけ昔にかえったようなくすぐったさに、何故か照れてしまう・・・

参拝日:2012年4月18日

気高・青谷と『川六』の狛犬を訪ねて参拝した神社は、この「灘郷神社」でひとまず終了。時代と共に積みかさねてきた石工の技が生み出した『川六』の狛犬。時にはこれが同じ人物によって生み出されたものかと驚愕するほど様々に変化を遂げ、その度ごとに新たな感動を与えられました。この素晴らしい狛犬たちに出会えた鳥取の旅、叶うものであれば再訪をと願わずにはいられません。

 

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橋津藩倉・旧橋津警察署・東郷池 in 鳥取県湯梨浜町

2017年05月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

湯梨浜町橋津に現存する、県保護文化財指定の「藩倉(はんそう)」。往時の様子を今に伝える「古御蔵(こおくら)」「片山蔵」「三十間北蔵」の3棟。

私たちが見学したのは「古御蔵」

「片山蔵」の二棟。

「寛永九年(1633)国替えにより、池田光仲が岡山から鳥取へ入国し、三二万石鳥取池田家の藩政が始まりました。この辺りは鳥取藩の年貢米を収納する御蔵が設置されていた所です。鳥取藩政資料の中に寛永十二年橋津御蔵の記載があり、藩政の始まりとともに創設されたものでしょう。現存している御蔵は「古御蔵」「三十間北蔵」「片山蔵」の三棟ですが、文化五年橋津御蔵絵図(1808)には御蔵十四棟と計屋一棟が描かれ、建坪六一二坪を数えます。橋津御蔵は、鳥取藩の九つの灘蔵の中で最大の規模で、約五万俵の米を収納し、主として大阪へ廻米され、藩財政を大きく支えていました。」現地案内より

「片山蔵」の色違いの屋根は、後に補修されたものと思われますが、実際のところは不明。

「藩倉」のすぐ近くに建つ白亜の洋風建築は、明治22年に建てられた「旧橋津警察署」

のちに役場、農協として使用、昭和60年代に取り壊された後、公民館として復元されました。

湯梨浜町を代表する周囲約10kmの汽水湖「東郷湖」。長さ2kmほどの橋津川を通じて日本海につながっています。偶然通りかかった湖畔道路から見た「東郷湖のシジミ漁」。それままるで一幅の墨絵のような・・深く心に残る光景。

船から引き上げているのは蜆をすくう為の漁具で「鋤簾(じょれん)」

東郷湖風物詩の一つ「四ツ手網」。「一辺約9mの網の四隅に竹を張り湖岸の小屋から上げ下げできる。目の細かい網を使い、エビや小ブナ、ゾウゴなどを獲った。最盛期には松崎の湖岸沿いに二十四伍の四ツ手網が並んでいたといわれる。」現地案内より

訪問日:2012年4月19日

 

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湊(みなと)神社 in 鳥取県湯梨浜町

2017年05月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

湯梨浜町橋津に鎮座される「湊(みなと)神社」。御祭神は、水戸(みなとの)神である『速秋津彦命(はやあきつひこのみこと)・速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)』『北野神菅原道實、少童神』を合祭。

社記に「創立年代詳らかならず。伝え云う伊勢別宮瀧ケ原宮別神霊なりと」。「伯耆國河村郡東郷庄絵図」には「大湊宮」と記される古社。天明4年(1784)の大火で本殿を除く社殿が焼失、天明6年に現在地に遷座されました。

参道石段をひたすら登り・・・

随神門の内より御幣と共に神域を守護されるのは、鮮やかに彩色された「矢大神、右大神」。

随身さまと共に、後ろ足を踏ん張って神域を守護されるのは笏谷石の狛犬さん一対。相変わらずと言うか、凛々しい(笑)お顔。

境内へ続く石段・・・ここで深くタメ息・・もとへ、深呼吸(笑)

石段参道脇に控えて神域を守護されるのは、建立年代不明の出雲構え狛犬さん一対。長い年月が体から様々な固さを取り払い、丸く柔らかい体で参拝者を出迎えてくれます。

〆鳥居の奥に境内

鳥居の内、左右よりより神域を守護されるのは明治2年(1869)生まれの出雲構え狛犬さん一対。阿形さんからお顔を奪ったのは年月?それとも何かの災害?

足の後ろに置かれていた阿形さんのお顔。まだこんなにちゃんと繋がるのに・・・泣きたくなるような優しいお顔。

木漏れ日の中に鎮まる拝殿。

参拝日:2012年4月19日

 

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鹿野往来~Ⅱ~ in 鳥取市鹿野町

2017年05月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市鹿野町鹿野に門を構える「浄土宗寺院:明照山 幸盛寺(こうせいじ)」。山中 幸盛(やまなか ゆきもり)』の菩提寺として知られており、戦国ファンにはちょっとした名所。

戦国時代から安土桃山時代にかけて尼子氏に仕えた『山中 幸盛』。と言ってピンとこない人も、三日月の前立てに、鹿の角の脇立てをつけた冑を身につけた『山中鹿介(しかのすけ)』なら、ああと頷く方もおられるのでは。「尼子三傑」の一人で「山陰の麒麟児」の異名を持ち、最期まで主家に忠誠を誓って散った武士(もののふ)。彼の姿は多くの時代小説や映画・舞台などにも登場します。

境内を進むと墓地の一画、一段高くに「山中幸盛」の墓が建立されています。毛利氏に滅ぼされた後も尼子家に終生変わらぬ忠誠を誓った武将。幾多の戦いを経て尼子家再興を願うも、最期の上月城の戦いで捕えられ、備中国合(阿井)の渡において毛利氏家臣により謀殺。天正六年(1578)数え三十四歳。 のち、鹿野城主となった「亀井茲矩(これのり)」は、舅にあたる山中幸盛の菩提を弔うため、旧地から寺を移し、山寺号も明照山幸盛寺と改めました。

墓所の前には尼子家再興を誓って「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った言葉が刻まれています。

頼山陽は後の世に彼を評し【嶽々(がくがく)たる驍名(ぎょうめい)、誰が鹿と呼ぶ、虎狼(ころう)の世界に麒麟(きりん)を見る勇名をはせた幸盛は鹿という名を持つが、誰が鹿と呼べようか。戦国乱世の中にありて虎狼をも凌駕する麒麟である。)】と述べています。

「幸盛寺」の建立と同時に植えられたという「大銀杏」。樹高34m 幹周り6m、樹齢400年以上。鹿介(しかのすけ)の墓を、鹿野の歴史を見守ってきた大樹です。

浄土宗開祖「法然上人」九歳の折の「勢至丸さま」

水谷川の角地に境内を構える「真言宗醍醐派寺院:三光院」。境内角地に奉られる地蔵堂。

書物や寺院などで拝観する「弘法大師座像」。右手は掌を反転して五鈷杵を執り、左手は掌を上にして数珠を執られています。

前方に結跏趺坐の姿勢をとるのは、賽の河原にいるという鬼でしょうか? その後ろには幼い子らが幾人も・・・あるいは泣きじゃくり、あるいは地蔵様の手に縋り、あるいはただ静かに座って小さな手を合わせ・・何とも切ない光景がそこに繰り広げられています。

地蔵堂の近くに建立されていた菩薩像

三光院の近くに鎮座されていた「出雲大社教(いずもおやしろきょう)鹿野分院」、〆柱の奥に切妻造の拝殿。

右手に親子神牛さんの奉納。かなり時代を経たもののようで、撫でるのが憚られます。というか、そもそも出雲大社教に神牛が存在するものなのか不明。

よくは分かりませんが、子牛を顎の下に置いて寝そべる親牛の表情があまりにも優しくて切なくて・・

「浄土真宗本願寺派寺院:西向山浄徳寺」『伊吹入道正弐西』が開祖とされ、宝暦11年(1761)にこの地に移転。参道の先に竜宮門があり、更に奥に本堂の大屋根が見えていますが、入り口での拝礼で・・m(_ _)m

赤い瓦屋根の下、白漆喰の壁に「拍子木」を象った町紋の鏝絵

「鹿野往来交流館」の天井に下げられていた祭り提灯。

400年の伝統を誇る県指定無形民俗文化財「城山神社の獅子舞」。獅子は二人立ち。獅子頭は神楽獅子で赤の着物に赤の蚊帳。猩々は赤の着物に赤い髪で幣のついた棒を持つ。猩々に導かれ獅子がゆっくりと舞い始める・・・長い伝統が受け継いできた祭りの姿・・ああ、一度でいいからこの目で見たいね。

町の入口で見かけた酒処の看板、「しかの祭り 街道筋」の文字と共に「御神輿と獅子舞」が描かれている。

訪問日:2012年4月17日

 

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鹿野往来~Ⅰ~ in 鳥取市鹿野町

2017年05月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取から吉岡・末用を経て鹿野に入り、青谷までの伯耆街道をつなぐルート「鹿野往来」。江戸時代初期に『亀井茲矩』が城を築いたことで城下町が形成され、商工業が盛んな町として賑わいを見せました。鹿野往来はこの城下町の道幅や水路が400年前の形でほぼ残されており、往時の歴史を今に伝えています。

商家造りの古い建物が並ぶ通り。

二段になった熊手が並ぶ一画。厳重な板塀や石垣、緑の植え込みでさえも絶対に真似のできない雅さと優雅さを生み出している・・雅とは絶対的に対照的な存在の筈の熊手の垣根。

富の象徴とも言われた蔵から、数寄を凝らした玄関に続く漆喰と黒板の長い塀。見越しの松は旅人の目を引くに十分の高さで屋敷に趣を添える。

「能勢家:明治期の建築と言われ通りに面して土間、店の間、奥の間。土間から店の間にかけて張りを見上げると「横角」と「縦角」が十文字に組んであり、「横角」に2階の柱をのせている。柱の結合は、釘を使わない「木組み」で建てられており、地震や積雪などの災害に強い建物である。この技術は京都の宮大工から伝わったといわれ県東部には類をみない鹿野らしい造りとなっている。」現地案内より

知って見なければ誰も気が付かないような場所・・思わずしげしげと見入ってしまう刳り貫き細工の燕。

路地の入口に建てられた石柱は足元灯の役目も果たしており、各町内ごとに定められた町紋が刻まれています。

町の中を縦横無尽に流れる水路は、鹿野城主亀井茲矩により造られたもの。多くは安全上の面も踏まえて側溝蓋などでふさがれていますが、往時の面影を残す水路もきちんと残されています。

上町・下町を中心に水路に数か所残された穴開きの丸い「牛つなぎ石」。年貢米などの運搬のため、近郷から集まってきた牛はこの場所に繋がれてしばしの休息をとります。

花筏にしつらえた側溝蓋。流れる水の音はその折々の季節を映し出し、俄か旅人の目と耳を癒し、ともすればそのまま夢の世界に引き込まれそう(^^;)。

歩き疲れたら、商家の前に置かれた床几で一休み。人通りが少ないせいか、街は静か、足元を流れる水の音だけがゆったりと時を刻みます。

要所要所に置かれた鹿野往来の案内碑。

往来歩きの醍醐味は「あてもなく」「気ままに」、足の向くまま~気の向くままにそぞろ歩く事。

そうして思いがけない景色に出会えた時の嬉しさはまた格別。

鹿野往来ではちょっと珍しい下見板張りの建物は「旧山陰銀行」。今はすべての入り口も窓も閉ざされており、往時を物語る事さえ忘れて「ソコ」に建っているだけ。

折角の建物、人々の暮らしの中で一緒に時を過ごしていけたら素敵だね。

明日は鹿野往来に残された社寺を巡る往来歩き

訪問日:2012年4月17日

 

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『石工・ 川六』 鷲峰(じゅうぼう)神社 in 鳥取市鹿野町

2017年05月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市鹿野町鷲峯に鎮座される「鷲峰(じゅうぼう)神社」。御祭神は『大己貴命・素戔嗚尊・稲田姫命』。合祀『倉稲魂命・大山祇神』
狭い山道だけども、神社の近くまでは車で行ける筈・・・対向車が来ませんように!!(^^;)

とりあえず随身門の手前まで行けたのは、足元に不安のある私にはとてもあり難い (^▽^)。

隋神門から真っ直ぐ、石段参道の先に拝殿

鳥取県神祇史年表に「孝元五年(前209)、『八千矛神(大己貴命)』が、天羽車大鷲に乗って山に降り立たれたので、この山を鷲峯(じゅうほう)と名付け、八千矛神を祀った。古代には山麓に遥拝所を設けていたが、約1200年前に御冠嶽に御社を建て鎮座された。文保元年(1317)年に中尾崎に社をうつした。この社を「古宮」という。元亀三年(1572)、毛利氏によって社殿が再興されるも慶長九年(1604)、亀井茲矩により焼き払われ消失。その子政矩によって慶長十七年(1612)今の地に再興された。古くから「志加奴神社鷲峰大明神」と称えられたが、明治二年(1869)「志加奴神社」の称号を廃し「鷲峰神社」と改称。」

これまでの神社紹介の順序から言えばまずは社殿関連なのですが、この神社は別格!理由は川六さんの狛犬なのですが、これがまた今まで見てきた狛犬さんからは想像もできない「愛らしさ~💗💗💗」

人懐こそうな顔で参拝者を見つめる阿形さん。ちょっと照れたように視線を逸らす吽形さん。「萬延元年(1860)九月」「北河原住 川六作」の刻。

綺麗に編まれた首輪には、チリリンと涼しい音が聞こえてきそうな鈴が三つ。首輪の下に蓑、胸にはきれいに並べられた柏の葉。お行儀よく揃えられた両足が育ちの良さを感じさせる・・そんな佇まい。

ぽっちゃりと丸っこいお尻、柔らかそうな背中のライン。垂れ下がった大きな耳。確かに、間違いなくこの子たちは育ちの良いお犬様。

丹精込めて編み込まれた尾を上品に立てて・・他に言う事はこれしかない!!「なんてキュート過ぎる後ろ姿~💗」

川六さんの狛犬に興味を持っていろいろと調べて・・何が何でも絶対に外せない狛犬さんとして旅の予定に組み込み、どうぞ天候に恵まれますようにと神頼みしての参拝。物凄くベタな言い方ですが「神様!!有難うございました!」

入母屋造り平入り、唐破風、千鳥破風の重厚な拝殿。拝所には2つの扇形拝み石。

唐破風下に常緑の松の枝間に両翼を広げた鷲。向拝には身をくねらせながら振り返る龍。

木鼻の獏。玉が使われている所為か、悪戯っぽい目がとても可愛い。

ご亭主殿の嬉しそうなこと。あまりにも喜びすぎて私と狛犬さんとのツーショット写真をすっかり忘れた事に気が付いたのは山を下りてから(-_-;)

拝殿内に奉納されていた御神輿

拝殿から見た境内

一帯の景色に溶け込んだ綺麗な手水舎

ちなみに鷲峰神社が鎮座される「鷲峰山」は、高さ比べで勝ったため、大山の神様に天辺を掬い取られてしまったアノ山・・(ーー゛);

参拝日:2012年4月17日

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犬と猫の派閥があれば、間違いなく猫派の私ですが、このお犬様はもう絶対に別格!!(笑)このままミニチュアにして狛犬ファンに提供したら、間違いなく大ヒット商品になります。いかにも「犬」という狛犬は、他の神社でも何体か見かけましたが、他に追従を許さない愛くるしさ。出来る事ならもう一度会いに行きたかった。

 

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