松本市丸の内、五重六階の美しい姿をお堀に映して建つのは、別名深志城とも称される「松本城」。
永正年間(1504~1520)に、信濃守護家・小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして「深志城」が築城されたのが始まりとされています。その後、甲斐の武田氏による信濃侵攻、そして武田氏の滅亡、天正壬午の乱等の変遷を経て、徳川家康の麾下となった『小笠原貞慶』が旧領を回復し、城の名も松本城と改めます。さらに大坂の陣以後は、徳川幕府の下、『松平家』や『水野家』などの松本藩の居城となり、水野家の後は、『松平康長』にはじまる『戸田・松平家』代々の居城となりました。
大天守を中央に、画面左に辰巳附櫓、その手前に月見櫓。右手に乾小天守。文禄(1593~1594)年間に建てられた五重六階の天守としては、日本最古と言われており「姫路城・彦根城・犬山城」と共に、四つの国宝城郭の一つであり、城跡は国の史跡となっています。
明治4年(1871)、この美しい城に最大の危機が訪れます。明治維新の後、松本藩は筑摩県になり、二の丸御殿に筑摩県の県庁が置かれ、同時に城内の門や塀の破却が始まりました。翌明治5年、天守が競売にかけられ、一時は解体の危機に見舞われた松本城ですが、当時、地元の有力者であった『市川量造』らの尽力によって買いもどされ、最初の難を逃れます。
次の難は明治30年代頃より天守が大きく傾きはじめた事です。この事を憂いた松本中学(旧制)校長『小林有也』らにより、天主保存会が設立。明治36年(1903)から大正2年(1913)まで10年の歳月をかけた「明治の大修理」が行われました。
昭和5年(1930)本丸と二の丸の一部が国史跡に指定。昭和11年(1936)に天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の5棟が国宝保存法により当時の国宝に指定、昭和27年(1952)3月29日には文化財保護法によりあらためて国宝に指定されます。
内堀に架けられた登城口
一の門を潜り本丸へ、いよいよ松本城と対面 😊
国宝天守閣を持つ姫路城・彦根城・犬山城に続いて最後の松本城訪問。この時の気持ちは兎に角「嬉しい・感激・感動」。ありきたりですが、本当にそんな感じです。足にかなり問題を抱えている私には、模擬でない天守の登城は無理。その事が悔しく情けなかった事は否めませんが、それでも手に触れられる場所に立ったという気持ちは格別でした。
秋の催し、松本城に伝わる話をテーマにした「人形飾り物展」もあったのですが、内容は今ひとつ記憶にありません。とにかく、唯々美しい天守を見続けていたと記憶しています。
今思うと馬鹿みたいですが、目をそらすと目の前の幸せが消えてしまいそうで、とにかく見ていたかった・・・いつまで?? 何時まででも😊
見知らぬ誰かにお願いした二人一緒の記念写真は、何度見ても懐かしく本当に素敵な一時だったと思うし、このまま時間が止まれば良いのにと思ったりもしました。
とはいえ、我が家でも無い公共の場所に何時までも居られる筈も無く 😓 後ろ髪惹かれながら埋橋へ。天守に続く朱塗りの橋の上は、観光客にとって絶好の撮影スポットなのか、誰もがカメラを向ける為に立ち止まります。
そうして何度も何度も、堀に映る天守を見、青空を背にする天守を見て、未練を断ち切ります。
幾たびかの存続の危機を迎えながらも、その都度に市民の情熱によって乗り越えてきた「松本城」。四百余年の風雪に耐え、戦国時代そのままの姿を今に伝え、国の宝と認められた松本城の大天守。
観光地で良く目にする「城もどき(模擬天守)」が、どんなに逆立ちしても追いつけない確かな本物。それは決して簡単に成し遂げられた事ではなく、それだからこそ価値があり、人々を曳き付けてやまないのです。
訪問日:2010年10月16日