車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

水間寺(みずまでら)~其の一 in 大阪府貝塚市

2022年12月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

貝塚市水間にある天台宗別格本山寺院「龍谷山 観音院 水間寺(みずまでら)」『聖観世音菩薩』を本尊とし、「水間観音」の通称で知られます。

「新西国三十三箇所第4番札所」「和泉西国三十三箇所札所」「第26番神仏霊場巡拝の道」「第53番(大阪第12番)南海沿線七福神(弁財天)」。境内一帯は周辺とともに大阪みどりの百選に選定されています。

「寺伝によれば、天平年間(729~749)に聖武天皇の勅願により行基が開創したものという。行基は、病床の聖武天皇の夢に現れた観音菩薩を求め、白鳥に南西の方向に導かれたが、その白鳥は和泉国で羽根だけを残し何処へともなく消え去った。彷徨いながら北東の方向へ進んで行くと、観音菩薩の化身である16人の童子が現れた。童子に案内されるままに進み、2つの川が合流する「水間」の地に着き、誘われて滝に向かうと竜神が現れ、聖観音像を授けられたと伝わる。」公式HPより

降臨の瀧は本堂の裏を流れる秬谷川にあったと伝えられており、岸辺に「聖観音菩薩出現の滝」の絵図が設置されています。

中世より武家による手厚い保護を受けていましたが、羽柴秀吉による紀州征伐の際に根来寺に与したため、天正13年(1585)に堀秀政の軍勢に攻められて焼失。一時衰退したものの、岸和田藩主岡部氏 の帰依を受け、元禄年間(1688~1704)に堂宇を再建。その後、天明4年(1784)の火災で再び焼失するも、文化8年(1811)に岸和田藩主岡部長慎により本堂が再建。文政10年(1827)には他の堂宇も再建されましたた。

本堂に奉納された沢山の絵馬の中から木彫りの蓮を納めた一枚

寺院の大小を問わず、参拝者の前に座しておられる『賓頭盧尊者』。一般的に「なで仏」と呼ばれ、参拝者はおびんずる様の体をさすり、我が身の病や痛みの平癒を願います。

本堂左手前に建つ三重塔、開基当時は多宝塔で多宝如来を安置したといいます。さらに古い記録によれば、『孝謙天皇』が舎利塔を安置したとも伝えられ、本堂同様、天正の兵乱に焼失。萬治年間に改めて三層の塔を建て、釈迦仏の像を安置しました。天保5年(1834)の再建で、明治以前に建てられた三重塔としては大阪府内唯一の建造物。本堂と共に貝塚市指定有形文化財とされています。

三重塔の第一層部分、軒下のかえる股には、極彩色の十二支の彫刻があり、それも見どころの一つとなっています。

本堂の後方に鎮座される「三所権現」。御祭神は『熊野権現、蔵王権現』

「本堂」の正面に相対して建つのは、白漆喰の壁が独特の存在感を放「経堂」。大般若波羅密多経600巻と大蔵経等、それに『傅(ふ)大師』とその二子の尊像が安置されています。

大切な経典を護るのは、屋根の上でしなやかに体をくねらす龍。飛翔するその瞬間のために、全ての力を内に溜めてその時を待っています。

鐘楼の屋根からその様子をうかがうのは、留め蓋の獅子たち。

迫力のある表情に、ご亭主殿、大満足(笑)

見所一杯の「水間寺」、この続きは明日のブログで。

参拝日:2015年10月9日

 

コメント (2)
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