下関市阿弥陀寺町に鎮座される「赤間(あかま)神宮」。御祭神は『安徳天皇』。
由緒「貞観元年(859)、大安寺の僧行教により、浄土宗寺院:阿弥陀寺として開闢。文治元年(1185)に壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の霊を弔うため、後鳥羽天皇の命により、建久2年(1191)赤間関に御影堂を建立。以後、勅願寺として崇敬を受け、江戸時代に真言宗に改宗。明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となり「天皇社」と改称。明治8年(1875)、赤間宮に改称し、官幣中社に列格。また、歴代天皇陵の治定の終了後の明治22年(1889)、安徳天皇陵は安徳天皇社の境内が「擬陵」として公式に治定。昭和15年(1940)、官幣大社に昇格し、赤間神宮に改称。」
水天門向かって左に「安徳天皇阿弥陀寺陵」。
「安徳天皇縁起絵:安徳天皇入水の図」(社務所の複製画)
水天門向かって右手に水天閣
まるで帝の住まいする殿上の如く、鮮やかな朱が映える絢爛たる装いの大安殿、奥に続く内拝殿・神殿。いずれの佇まいも、幼くして入水された安徳帝への心遣いでしょうか。どこに行くのかと尋ねられた幼帝に、水の下にも竜宮があると答えた二位の尼の言葉通りに・・
ふと・・・思うのです。清盛の孫である安徳帝は、天皇であったがゆえに死しても神として祀られる。かたや・・平家滅亡の一端を担った源氏の大将義経公は、兄頼朝に疎まれ奥州にて壮絶な死を遂げ、忘れ形見となった愛妾:静御前の生みし子は男子であった為、頼朝方の手によって即座に殺され闇に葬られる・・
このような場所でそんな事を思うのは、御祭神に対して失礼ですね。あなた様には何ら関係のない事なのに・・どうも判官びいきと言うのは厄介なものです(-_-;)
竜宮を模したとされる社殿の左手に建立された三基の「赤間神宮十三重御宝塔(水天供養塔)」。安徳天皇は御位のまま入水された事から水天皇・水天宮と称されており、先の大戦中に水没し殉職された方々の霊を水天皇(水天宮)に鎮めてもらう為、この塔が建てられた旨が案内に記されています。
続いて社殿左手にある「芳一堂」へ。いささか趣味の悪い赤い堂内には木造の芳一像が祀られています。で、断言しても良いです!小泉八雲の「耳なし芳一」を知っている人は、夜明け前&夕暮れ時の対面は避ける事を強くお勧めします(^^;)
芳一堂の左手は「平家一門之墓」。「平家塚」とも、また「七盛塚」とも呼ばれ、耳なし芳一の物語では、何物とも知れぬ鎧武者に手を引かれて連れてこられるのが「お屋形」と称したこの場所でした。
境内には壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門14名の供養塔が建立されています。「七盛塚」の由来は名前に「盛」の付く人が七名いたからと言われています。でも実際には6名でした・・残った一人は、彦島に墓がある清盛ではないかと言われているそうです。
境内の鳥居越しに見る関門海峡。穏やかに行き交う船、彼方に見えるのは豊前の国。源氏と平家・・この地に繰り広げられた戦いを知っているのは、悠久の時を刻む空と海だけ
昭和60年(1985)、源平八百年を期に石川県輪島市にある平時忠の子孫「時国家」に分霊が親授。その際に邸内社が建立され「能登安徳天皇社」の称号が授与されました。(2015年 能登の車泊旅より)
参拝日:2012年11月15日&2017年12月3日
おはようございます。
赤の生える建物ですね😌😌
おはようございます」
都の宮殿を思わせるような・・
幼い帝の住まいだからかもしれませんね