光市室積、峨嵋(がび)山の北麓に門を構える、臨済宗:妙心寺派寺院「峨嵋山普賢寺」。海の守護神とされる『普賢菩薩』を本尊とします。
縁起「播州書写山円教寺の住職である性空上人は、長年、普賢菩薩を拝したいと願っておられた。ある夜夢のお告げにより、周防室積の地に錫を留めるに至り、当時の古老に種々の昔の話を聞かれた。そして漁師の手によって沖合の海中より出現の霊像を拝され、此れを普賢山上大多和羅山に庵を結び安置された。後年現在の場所に普賢寺御堂が建立され、本尊として安置されている。創建当時は天台宗であったが、後に臨済宗となり現在に至る。江戸時代全期及び明治初年の版籍奉還までは毛利公の祈願所とされ、お手普請寺として寺格は高かった。」
寛政十年(1798)の建立とされる入母屋造、三間一戸の仁王門。その左右より普賢菩薩を守護されるのは、身の丈3m程の吽形:那羅延金剛、阿形:密迹金剛像。お顔立ちが見知っている誰かに似ていて、思わず誰だったか?と、一思案😅。
仁王門から真っ直ぐ正面に「普賢菩薩堂」
参道緒中に建立された、撫で牛ならぬ「撫で象」は・・初見です😲 天神様には「牛」が定番。普賢菩薩様は像の背に乗られているので、これまで見た事が無かったことが不思議だったかも😊
後姿が何ともプリティーで、思わず撫でてしまった・・撫で象様のお尻 😅
参道途中に架かる石橋は、寛政元年(1789)8月、徳山の『石工・浜田屋平左衛門』による建造。
主要伽藍を取り囲むように作られた環濠は、木々の影を写し、しっとりと落ち着いた風情を見せる。
色鮮やかな鯉に混じって黒く蠢くのは・・意外に大きな亀の軍団😅
参道正面に「香炉」があり、後方に普賢菩薩像を安置する「普賢堂」。現在の普賢堂は天明8年(1788)に建て替えられ、大正6年(1917)と1992年に改修されたものです。
「普賢堂」唐破風向拝の天井には、干支が描かれた羅針盤。海運で栄えた室積らしい意匠ですが、何時の時代の奉納でしょうか?
「普賢堂」と、『性空上人・薬師如来像』が安置される「開山堂」とをつなぐ朱塗りの橋。
普賢寺「本堂」。
本堂右手の玉垣の内。左に芭蕉句碑【庭 掃(はき)て 雪をわするゝ 箒(ほうき)かな】。二基目に「平判官康頼の碑」。「宝篋印塔」「五重石塔」、右端には萩藩主毛利吉就が性空上人の事跡を偲んで貞享三年に建立した「室積性空上人の碑」。
治水年間、京都の鹿ケ谷事件に連座した平康頼は、僧俊寛と共に鹿児島の鬼ヶ島に流罪となり、途中瀬戸内海で時化に会い室積の浦に立ち寄った。その折に受戒し、名を性照と改め一首の歌をとどめた。(境内案内より
【 ついにかく そむきはてけむ 世の中を とくすてざりし ことぞくやしき 】
普賢寺方丈の南庭に、雪舟の築造と伝えられる「普賢寺庭園:雪舟庭園」
「峨嵋山を背景に前面を池に見立てて、東南部に枯滝(三尊石)を中心に両側に組み込んだ豪華・雄大な石組は、枯山水庭園の初期の特徴を表している」とのこと。時間に余裕があれば・・は、「今回はパス」の合言葉😅
参拝日:2013年4月18日
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tibineko一口メモ
「三間一戸」とは、正面からみて柱間が3間あり、そのうち1間分が通路になった型式。寺の山門に多く見られる。
記憶が正しければ、昭和44年から2年半、私はこの地で暮らしました。
普賢寺にも若手社員の仲間で、訪ねています。「雪舟の庭」が有名なので行きました。しか全てが記憶から消えていて、貴方の言葉を読みながら、とても不思議な心の旅をいたしました。
具体的に書けないことが多くて申し訳ありませんが、酔って泳いだ深夜の海が、虹ヶ浜でした。
月月火水木金金と仕事に追われた日々でしたが、この地には又、凝縮された青春がありました。
一連の記事は、忘れていた思い出に、眩しい光を当ててくれました。強烈な土地の思い出が、こんな気持にさせてくれるのかと教えられました。
感謝いたします。
「普賢寺」
しっとりと落ち着いた境内を歩いていると
時間の流がとても緩やかで
立ち去りがたい思いと相まって
鮮やかに 優しく残っています。
onecat様がご覧になった景色
45年を経て私たちも見たのですね
あたたかな縁を感じました😊
仁王門
迫力ありますね。
身長はどのくらいの高さのものなのでしょうか。
仁王様の身長は約3m。
画像で見るとそんなに高く感じませんが
実際に見ると、やっぱり大きいですね