東大阪市東石切町に鎮座される「石切剣箭(いしきりつるぎや)神社」。御祭神は『饒速日尊(にぎはやひのみこと)、可美真手命(うましまでのみこと)』。「でんぼ(腫れ物・オデキ)」の神様として知られています。
「創建年代は、火災により社殿及び宝庫が悉く消失したため詳らかではないが、代々の社家「木積」家には、皇紀2年に生駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊を奉祀されたのを神社の起源とし、崇神天皇の御世に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。日本三代実録(巻十一)に「貞観7年(865)9月22日に河内国正六位の石切劔箭神社従五位下を授く」との記述がみられ、延喜式神名帳にも「石切劔箭命神社二座」とみられる。」Wikipediaより
鳥居をくぐった先に建つ絵馬殿は神門も兼ねており、左右の陣内にはそれぞれに弓と矢を持つ神像が鎮座されています。
神社の由緒によれば、『饒速日尊』は「霊剣・布都御魂(ふつのみたま)」を持ち、日の御子の証である「天羽々矢」を携えて天磐船に乗り高天原から船出をし・・とあります。こちらの神像はその姿を現した像でしょう。
延喜式神名帳にも記載されている河内郡の式内小社。その神域はとても広大です。が、当時は境内の隅々まで参拝させて頂くほどの熱心さがなく、画像はほんの僅か・・・今から思えば残念な事だと悔やまれます。
こちらでは、本殿前と神社入り口にある百度石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名だそうで、この日も本当にたくさんの方がお参りに見えられていました。
境内三の鳥居を潜って左手に鎮座される「水神社」。御祭神は『岡象女神(みずはのめのかみ)・天水分神(あめのみくまりのかみ)』。祈雨祈晴の神として、古くは雨乞いの神事などもこの地で行われていました。祠の周囲は、古来より亀の池と呼ばれ、甲羅に名前を書いて亀を池に放すと心願が成就すると伝えられ、かつてはその数・千匹にも及んだと言われています。
境内の一角に奉納された蛙が刻まれた大石。その向こうに、大きな石の蛙が奉納されています。蛙は「かえる」につながり、金運に繋がるとされています。
さらに奥の祠一帯を埋めているのは、小さな石の「銭亀」。「かえる」同様、金運に繋がるということで祀られているのでしょう。
同じく境内の一角には、石切り神社で行われる「献牛祭」に因んだ「牛像」が奉納されています。田植えを終えた農家が、飼い牛の労をねぎらった後、綺麗に飾った牛と共に神社に参拝をし五穀豊穣と家内安全を祈願します。
神社近くにあった献牛舎では「牛の山車」が保存されており、わずかな隙間から何ともユニークな牛さんの姿を見ることができました。
石切劔箭神社の紹介、最後は本殿前に聳えていた「ご神木:クスノキ」。幹周5. 7m、樹高推定15m、樹齢は約500年と言われています。
「石切劔箭神社」近くに鎮座される「石切
参拝日:2007年6月16日
起源ははっきりしなくても、手入れは行き届き、
人々も多く参拝している神社の様子にあらためて感激します。
日本の信仰の、そういうところが好きです😊
先日、仏教を深く信仰されている方に、
うっかり教義に反することを(知らずに)言ってしまい、
大反論が来ました。
もちろん私が物知らずで浅はかだったのです。
その方の教義では、神社は否定するべきものなのだとかで、
とても驚かされました。😳
なので、貴方の信仰は尊重するけど、
私は日本の神々をお見捨てする気はないので、
お互いに説得しないでおきましょうと申しました。
ありがたいことに、それで納得してもらえたようです😊
私と違うお考えの人もいるかと思いますが、
日本人特有の美点、というものや美意識は、こういう神社に参拝する気持ちがどこかしら関わっているのでは、と思うんです。
はっきり、こういうご利益が!とか
神社を大切にしないとバチが!!とかそういう、はっきりしたものは私は知らないし分からないですけど・・
神社や日本の神さまをないがしろにしたら・・
日本はなにか、大切な精神をなくしていく、
崩れていくように思います。
そして大切な精神が崩れていったら、
それは中国やロシアの侵略をたやすく許す、そういう土壌につながる、
私はそう思うんです。
うまく説明できないんですけど・・。
神さまが怒るぞとかそういう脅しじゃないんです。
たぶん、神さまは怒りません。
そうじゃなくて、日本が、崩れていってしまう。
春に花見を、夏には花火を。
秋には紅葉、冬には雪と神社仏閣への素朴な参拝。
そのなかで培われてきた、
大震災でも略奪が起こらない文化とか、
5分の遅延で謝る鉄道会社(まあ行き過ぎかもしれませんが)とか。
・・長くなってすみません😅
神社を見るとついつい、心が熱くなってしまうんです。
お体いかがですか。
毎日を穏やかにお過ごしになれるよう、願っています😊
と言っても、もうお昼ですが(^^;)
神を否定する仏教・・と言われて最初に浮かんだのは、某政治団体のバックボーンである〇〇学会。
でもあそこは他の仏教も否定しているし、多分違うでしょうね。
まかろんさんが書いて下さった事、私も心から同感です。
日本の成り立ちがたとえ「神話」という曖昧模糊なものだとしても
神を敬い信じる事で人々は地を耕し、海洋に糧を得、人と出会い結ばれ、子をなしてきたと思うのです。
大地が乾き糧を得る事が出来なくれば、人々は神に祈り
荒波に閉じ込められ糧を得る事が出来なくなれば、
海の神に「お鎮まり下さい」と祈り
人と人が出会えれば「神様のお導き」と喜ぶ。
そうしてその折々の目出度さを神様と一緒に寿ぐ。
もう私なんて単純ですから、それだけでああ、この国に生まれて良かったって思うのです。
生きていれば辛いことも沢山あるけれど、それでも縋れる神様がいる。
縋るのは、決してご利益を求めているのではなく、自分の心の支えとして「そこにある」事だけで安堵できるもの。
そうして、ああ、もう少し頑張ろうかなとまた前を向いて歩きだす。
上手に言えませんが、本当に単純に神様と言う存在が好きなんです(〃∇〃)
好きだから、神罰が下るようなことはしたくないと思うし、困らせたくもない。
そうして良い事が有れば、神様に報告する。
報告する事で、改めてその「良い事」に喜びを感じる。
こんな風に書いてますが、私の場合、神仏は同じ存在として気持ちの中にあるので、特に区別とか無いかもしれません。
もちろん、作法はそれぞれに合わせて可能な限り、わかる範囲で守っていますが(笑)
なんだかとりとめのない内容になってごめんなさい。
まかろんさんとお話していると、ついつい楽しくて長くなってしまいました。
今年も多分短いだろう秋晴れの一日、楽しく過ごされますように。