大垣市郭町に築城された「大垣城」、別名を「巨鹿(きょろく)城」とも、また「麋(び)城」とも称し、天文四年(1535)、『宮川安定(みやがわやすさだ)』によって築城。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、西軍『石田三成』の本拠地となり、大垣市のキャラクターにもなった「おあむ物語」や「七騎多門」など、多くの歴史ドラマが生まれました。
外堀に水門川の流れを利用して築城された四層四階建ての天守は、廃城令の後国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)7月の空襲によって焼失。昭和34年(1959)に郷土博物館として鉄筋コンクリ造りで再建されましたが、その姿は当時のものとはかけ離れていたため、2010年の改修工事で国宝当時の外観に復元されました。
大垣公園内には、大垣城を背景に「美濃大垣藩・初代藩主『戸田氏鉄(うじかね)公』騎馬像」が凛々しい姿で訪れる人たちを出迎えてくれます。
東門は、かつての柳口門を移築したもので、現在は大垣城の正門として使われています。
四層四階建ての天守は博物館として一般開放されており、入館料は100円と格安。館内には、関ヶ原の合戦をモノローグでリアルタイムに追ったムービーや動画コンテンツ、火縄銃や槍などを実際に触ることができる展示コーナーもあります。
天守前に建つ城址碑には、明治の廃城令の後、残された天守閣と丑寅隅櫓が国宝に指定された事、しかし戦火に寄り焼失した事などが、細かく記されています。
城址碑とは反対側の、ささやかな小山状の一画に『香淳皇后』の歌碑を見つけました。昭和33年(1957)、民生委員制度の発足40周年にあたるこの年に、民生委員に賜った御歌とあります。思いがけない発見に嬉しくて思わずガッツポーズ😄
【 さちうすき 人の杖とも柱とも なりていたわる 人ぞたふとき 】
「戊辰の役顕彰碑:明治維新に当り大垣藩主戸田氏共公は家老小原鉄心の意を採り戊辰の役にその進路を誤らしめなかった。本年戊辰の年を期に大垣城跡に記念碑を建立しその偉業を顕彰する」鳥羽伏見の戦いでは幕軍として戦った大垣藩ですが、その後直ちに勤皇に転じ、藩兵千二百人を出兵させて戦功をあげた旨が記されています。
城址には他にも沢山の碑が建立されていましたが、資料も少なく何の碑なのかも不明😓 特にこの碑などは文字列が漢詩か歌碑っぽく、できれば説明が欲しかったのですが・・きりが無いので全部省略。興味ある方は是非現地で確認してください。
ここは「水之手門跡」。石段の先にあるのが冒頭にも登場した『おあむ』ゆかりの松です。
「関ヶ原合戦時、三成に属して大垣城に籠っていた山田玄暦と娘・おあむの一家が、西堀端の松からたらい舟に乗って無事脱出できた。」その時の松が「おあむの松」として残されたとかで、この松は二代目だそうです。
※『おあむ物語(おあんものがたり)』とは、『石田三成』の家臣である『山田去暦』の娘が『雨森儀右衛門』の妻となって土佐に下り、晩年に関ケ原の戦いにおける大垣城籠城の体験を追憶した話を筆録した記録です。
訪問日:2018年10月10日
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