足守川上流域の山間から平地に出た谷口の扇状地に位置する足守地区。古代より備中国の中枢の一部に位置し、江戸時代には足守藩の陣屋町として栄え、『緒方洪庵』や『木下利玄』などの文化人を輩出してきました。現在も大名庭園の近水園や歴史的建造物群が残り、その町並は岡山県指定の保存地区として多くの観光客を集めています。
町並み保存地区は陣屋町のうちの町人町にあたり、藤田総本家、旧瀬原邸、難波邸など旧藩時代からの商家が、広い道の両側に格子窓の軒を連ねて、当時の面影を伝えています。足守プラザに車を置いた私達の町歩きのスタートは、この地で醤油製造業をはじめたという「藤田千年治邸」から。
木造2階建、入母屋、本瓦葺、平入、2階は黒漆喰仕上げ、虫籠窓、1階は真壁造、漆喰仕上げ、格子戸。現在の建物は江戸時代末期に建てられ、明治時代に改修したものだそうです。
内部には多くの資料と共に当時の醤油工場の様子が再現され、またかつての商家の様子を伝える展示も行われています。
商家の間から土間を通って中庭に出ると、巨大な釜場が飛び込んで来ます。多分ここで醤油の原料となる大豆を煮たんだろうな・・周囲にずらっと並べられた石は、さっき見た搾り機の重石に使ったものだろうか・・・
目を閉じると有りもしないお醤油の香りを感じ、それが展示された道具たちから連想される錯覚だと気づくのに、ほんの少し時間を要しました。当時の商品を彩っていたラベルの数々・・使い終われば捨てられてしまうものだからこそ、こうして残されているのを見ると、ただ無条件に嬉しくなります。
折りしも今日は3月3日。足守町並み保存地区一帯では、毎年2月の上旬から3月の下旬までの期間で行なわれる「陣屋町足守町並み雛めぐり」の最中。情緒あふれる町並みのいたるところに時代も形式も様々なお雛さまが並びます。もちろん、ここ藤田邸も例外では有りません。
御殿の中にお内裏様と三人官女が並んでいるお雛様、まだ子供だった頃、何処かの立派なおうちに飾られていたのを覚えています。そういえば、私の大事な大事なお雛様・・・姉の初節句に祖母が贈ってくれたという八段飾りのお雛様。あれが我が家から姿を消したのは何時の事だったのでしょうか。
明治31年ごろのお雛様は、雅な宮廷の装束を召されて仲良く並んで座っています。深蘇芳 (ふかきすおう) の袍(ほう)をお召しになられた男雛。女雛のお召し物にも同じ深蘇芳 の色が随所に使われており、しっとりとした気品を醸しています。
通い帳が並ぶ帳場の中にいるのは店の番頭さんではなく、朱い幕の上に顎を乗せた獅子頭。華やかなお雛様たちをしっかりと引き立てています。
続いて訪ねたのは、格子窓に二階の虫籠窓、なまこ壁の佇まいがかつての商家の雰囲気を偲ばせる「備中足守まちなみ館」。
もちろんここでも華やいだお雛様たちに出迎えられて、気分はすっかり少女😄・・・なのに目を引くお雛様は、おそらくは母や、もっと昔の祖母の世代のものばかり。
館内にはお雛様以外にも興味深い写真などが展示されています。特に目をひいたのが「明治24年利玄公宗家継承○○○会」と表記された古い写真。白樺派の著名歌人として知られる木下利玄は、最後の足守藩主木下利恭の甥であり、利恭の後の宗家を継いだ人物です。おそらくそれに関する記念写真では無いかと思われますが、詳細は不明です。
「備中足守まちなみ館」のすぐ隣に建つ『緒方洪庵』ゆかりの寺「乗典寺」。洪庵の両親や先祖の墓が後の墓地にあるという事で、ゆきずりの縁ですが手を合わせてきました。
足守藩は、慶長六年(1601)に、太閤秀吉の正室:北政所(通称ねね)の兄であった播磨姫路城主木下家定が領地を備中に移され、二万五千石を領したことに始まります。
明治以降、急速に失われた貴重な城下町の風景が今もなお色濃く残された町並みを、お雛様と一緒に巡ってみるのもまた一興。明日は町並に残された貴重な武家屋敷を中心に紹介したいと思います。
訪問日:2010年3月3日
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます