車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

玉前(たまさき)神社~其の二 in 千葉県一宮町

2019年06月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

昨日に続いて「玉前神社」の紹介。まずは境内にある「御神水」。24時間いつでも取水可能と言う、とても有難い配慮がなされています。 容器を持ち合わせていなかったので一口だけ頂きましたが、鉄分の多い水らしく、まろやかとは言い難い味でした。

「御神水」の奥の「天乃真名井」には、一羽の白鳥と化した『日本武尊と弟橘姫命』の伝説が残されています。かなしくも美しい伝説ゆえに「白鳥の井」とも呼ばれ、またどんな旱にも枯れることはなかったと云われています。

境内の右手にある「斎館」は、神職などが神事に関わる折に潔斎の為に篭るための建物。

懸魚には軽やかに羽根を広げた「鳳凰」。手前の木に花が咲いたらきっととても素晴らしい眺めになるでしょう。

社殿下には、安政年間(1855~60)に秩父「三峯神社」より分祀された「三峯神社」が鎮座。

社の奥に建てられた遷宮記念碑には、御由緒と、詩人『野口雨情』の詩。【朝(あした)にゃあさ霧 夕べにゃさ霧 秩父三峯きりの中】

「三峯神社」の手前に鎮座されるのは「稲荷社」。小さなお狐様が沢山奉納されています。

境内には驚くほど多くの碑が建立されており、その一つ一つに、丁寧に説明が添えられています。 神楽殿の左手、「御神木・いすの木」の前に錆付いた錨と共に建立されていた「獲錨記念碑」【明治の末、九十九里浜の海に沈んでいて度々漁網に被害をおよぼしていた錨が漁師の網に掛かり引き揚げられた。漁師達は玉前神社のお陰と大いに喜び、網主十一名が東郷平八郎海軍大将に篆額(てんがく)をいただき、その錨とともに碑を建てました。】

「平廣常公顕彰碑」説明には【町内の高藤山城が居城と伝えられている上総権介平朝臣廣常は、三代に亘り上総国を支配した武将である。源頼朝が鎌倉幕府を興す際の功労者の一人であったが、謀反の企てがあると頼朝が疑心を懐き、かつまた、生来の傲慢さも不興をかって寿永2年(1183)12月に謀殺された。しかし、実のところは同年7月には廣常は当社に鎧一領とこの石碑に記された書状を添えて、頼朝の心願と東国太平を祈願していたのだった。石碑は廣常の玉前神社への篤い信仰を顕彰したもので、表に当社への祈願文を、裏には廣常の行跡が記されている。】

『陸軍大将:熾仁親王』宸筆の額と、顕彰文が刻まれた「西南戦争紀念碑」【明治10年、西郷隆盛が挙兵した「鹿児島の乱」に対し、徴兵制の政府軍の一員として参戦した長柄・埴生両軍(現在の長生郡)の16名の戦没塀を顕彰した碑で、明治11年に建立されました。】

こちらは「征清紀念碑」【明治27年に始まった日清戦争で戦死した22名の戦没者を顕彰した碑で、明治28年に建立されました。参謀総長陸軍大将彰仁親王の筆は認められますが、碑文は摩減が激しくて判読できない】と結ばれています。

「敬神碑」とはそのまま「神をうやまう」。神は人の敬いによって威を増すと言われています。 神を敬えない人間がいくら神頼みをしても、そこに神の力が及ぶ事は決してありません。

「報賽碑(ほうさいひ)」は、祈願が成就した事への感謝を表すために建立された碑。

国歌:君が代に歌われる「さざれ石」。平和に慣れきってしまった日本人の中には、その美しい言葉を解せない愚者たちもいるようです😩。 小さな石が寄り集まり、悠久の年月を経て苔むす巌となるまで、私たちの世が続きますように・・

参拝を終え、歴史を感じさせる奉納者の名が刻まれた玉垣を見ながら駐車場に向かいました。 そこは参集殿と神楽殿の間の東参道に当たる場所。見上げた先には黒漆の美しい社殿が鎮座されています。

何度見ても美しい・・・もう一度この神社に参拝する機会があるとは到底思えないけれど・・・・ もしも叶うなら、一の鳥居から真っ直ぐに登ると言うご来光を、二人で仰ぎたいね🙏🙏

参拝日:2019年3月8日


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