車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

山陰の小京都:2019年~其の一 in 島根県津和野町

2018年09月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

感動は消えやらずそれから7年を経ての再訪・・でも改めて画像をみると、ほぼ同じような場所を訪ねている・・まぁ好みと言うものはそう簡単に変わるものではないという証ですが・・今回はJR山口線津和野駅の北側にある「津和野駅転車台」からスタート。津和野駅は快速「SLやまぐち号」の終着駅と言う事で、ここには「SLやまぐち号」の為の現役の転車台が残されているのです。

津和野の紹介ページに必ずと言ってよい程登場する「SLやまぐち号」。山間の緑の中を走る黒い機関車は、鉄オタならずとも心ときめかせる風情がありますが、実は機を逃して一度も乗った事がありません(^^;) だからという訳ではありませんが2012年に津和野駅に展示されているSL列車を見た時は、子供みたいに喜んだものです。

2019年の再訪でもやっぱり「D51」君に会わずにはいられなかったらしく(笑)、七年ぶりの再会。白泉部分が無くなってより男らしくなったかな?

山口線現役時代最後のSL列車「D51型194号機」。運転席に入ることもできるとあって、ご亭主殿、ちょっと楽しそう(^-^)

この後、太鼓谷稲成神社と鷲原八幡宮に参拝。二度目の津和野町歩き・一日目のスタートは、津和野町中座ロにある「高砂酒蔵資料館」

江戸時代から続く築200年以上の蔵を利用した館内には江戸から昭和30年ごろまでの酒造りに関する道具、酒器などが展示されており、自由に見学する事ができます。

津和野町町田イ、前回訪問した『西周』生家と津和野川をへだてた向かいに、『森鴎外(林太郎)』が明治5年(1872)11歳で上京するまで過ごした旧宅が残されています。

「旧居は森家の上京後人手に渡り、一時は他所に移築されていたましたが、昭和29年(1954)鴎外33回忌にあたり、津和野町がこれを買い戻し、現在地に復元しました。この旧居も建築以来130年、老朽化が著しいため、昭和59年(1984)秋に解体、全面的に修理され、昭和44年(1969)に国の史跡に指定されています。」しまね観光ナビより

文久2年(1862)1月19日にこの家で生まれ、11歳まで過ごした生家に彼が戻ってくることは一度もありませんでした。ですが遺書に記された「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」に籠められた故郷への想いは決して消え失せてはいなかったのだと思います。

生家と隣接する「森鴎外記念館」では彼の遺品や直筆原稿などを見ることができます。膨大な資料の中で今でも鮮明に思い出すのは・・「乃木及同夫人死体検案始末」と題された一枚の資料。鮮血の中に伏した二人の姿は・・衝撃的で切なく痛ましく・・悲しい程に潔くて涙が止められませんでした。

かって津和野藩主の庭園の一部だった「嘉楽園」。明治維新の御殿解体後は荒廃していましたが、その後、一部が復元され、町民の散策の場として親しまれています。

園の中心に、明治24年に建立された旧津和野城主『亀井茲監』頌徳碑。像は、ドイツへ留学していた亀井玆監(これみ)の養子、玆明の設計によりドイツで鋳造。題字は『三条実美』、碑文は『西周作』

ちなみにですが、銅像としては日本における初期の頃のものとして有名で、我が国でもっとも古いかもしれないといわれていると・・これは日本遺産津和野今昔からの受け売り。

小高く作られた基壇の上に建立された「忠魂之碑」。揮毫は『陸軍中将:木越安綱男爵』

贈従四位大國隆正翁之碑」。津和野藩の国学者。平田篤胤に国学を学び、後に脱藩して京都で国学を講じ、亀井茲監の許しを得て藩に復帰。養老館で教授を務めた人物。

「山邊丈夫(やまべたけお)君頌徳碑」。元津和野藩士で東洋紡の創始者。
嫡子亀井茲明のイギリス留学に随行し、経済学や保険学、機械工学を学んで帰国。渋沢栄一等の援助により、東洋紡の前身大阪紡績を設立。

道路側に見えるのは、前々回に紹介した旧藩邸の遺構「物見櫓」一棟。

まだまだ続く二度目の津和野町歩き、続きは明日のブログで

訪問日:2019年4月18日

 


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