道の駅:願成寺温泉で迎えた朝、昨日の激しい雨も収まって何とか無事に津和野まで引き返せそうです(^^;)
道の駅の敷地内には「静御前」のブロンズ像があるのですが、実はここ阿東徳佐地区は、静御前が大内満盛の庇護を受け「宝清山八幡宮」近くの「笊笥庵」に居住していたと伝えられており、静御前の墓と伝えられる宝篋印塔も文化財として保護されています。その伝説にちなんで作られた「静御前追慕の舞」・・・ひらりと打ち振る静御前の扇子が指し示すのは、遠く奥州平泉・・愛しい義経殿の墓。
ここまで来てその伝説の場所を訪ねないのはどうかと思いつつ、見残してしまった津和野の町歩きも捨て置けずで、後ろ髪惹かれながら津和野の町へと引きかえし、山陰の小京都二日目です。
道の駅「津和野温泉なごみの里」でくつろいだ後、朝一で参拝した神社はこの後の紹介に譲って、まずは明治の啓蒙思想家として名高い『西周(にしあまね)』が21歳まで過ごした生家を訪ねます。
文政十二年(1829)、津和野藩の御典医の家に生まれ、藩校で蘭学を学び、後、文久2年(1862)に幕命でオランダに留学。帰国後は開成所(東京大学の前身)の教授を拝命。明治の新政府では、兵部省(陸軍省)、文部省、宮内省の官僚を歴任。明治天皇の侍講(じこう)として、博物学、心理学、英国史などの講義を行い、陸軍省時代には軍政の整備と軍の精神の確立につとめ・・・と、ざっと書き出しただけでも凄い人物です。
「哲学」「心理学」「概念」「芸術」「理性」「科学」などの言葉を考案した周が21歳まで過ごした生家。業績と名前しか知らなかった人物が生まれ育って実際に過ごした家の前に立っている・・それだけで彼の存在が身近に感じられるから不思議です。
この後「太鼓谷稲成」に参拝(後ほど紹介)し、その足で向かったのは、「乙女峠マリア聖堂」。
乙女の名が気になって調べた所、昔この地に津和野藩城主の姫が埋葬された事にちなんで「乙女山」と呼ばれたのが由来。では元は何と呼ばれていた山だったのかと更に調べてみましたが、それ以上の事は不明(-_-;)
私の足には予想以上にきつい坂道を登って30分、やっと平坦な場所に到達、その先に聖堂が見えてきました。赤や黄に彩られた敷地内には私たち以外に人影もなく、痛む足をさすりながら一休み。
差し伸べられる木々を背景に、ひっそりとそこに在る建物は「聖母マリアと36人の殉教者に捧げる聖堂」として、昭和23年(1948)に建立。36人の殉教者やその背景については、ネット上にいくつも紹介されています。
キリスト教が厳禁だった明治元年に長崎から送られてきた153人の隠れキリシタンたち。津和野藩の改宗のすすめに応じなかった37人が殉教の道を選びました。
改修を拒み責めを受ける信徒の前に、日本で唯一、聖母マリアが降臨され信徒を励ましたと伝えられる殉教の地。「マリア聖堂」の名は、「聖母マリア」に献堂された事からだと案内に書かれています。
館内には改宗のすすめに応じず殉教者の道を選んだ信者の様子を描いたステンドグラスが並べられ、敷地内には、キリシタン禁止令の中での、布教の様子を刻んだレリーフが建立されています。
黄色の絨毯に覆われた一画には、俗に「キリシタン灯籠」と呼ばれる「織部灯篭」が建立されています。「織部灯篭」は、「織部焼」で有名な『茶人:古田織部』が考案した石灯篭の総称ですが、その形が十字架に似ていることから、隠れキリシタンの偶像として拝まれていたと言います。
私は、特定の宗教を持っていませんが、だからと言って他国の神や仏の存在を否定しようとは思いません。 けれど・・本当に飢えた五歳の幼子が、自らの意思で与えられた食べ物を拒み、殺される事を望んだのだろうか。子の親はそれを素晴らしいと本当に心から褒め称えたのだろうか・・よしやそれが真実であるなら、神の名で心を縛り、命を差し出させても是とする「この神」の教えは・・やっぱり私にはわかりません。
「八百万の神々」の国で生きる私には、決して他を認めない唯一神の教えは・・多分一生理解できないだろうと思います
訪問日:2012年11月11日
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