車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 愛知県刈谷市

2016年08月21日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛知県

刈谷市(かりやし)は愛知県のほぼ中央に位置し、西三河平野西部にある衣浦湾へ注ぐ逢妻川の下流に面しています。江戸時代には土井氏二万三千石の刈谷城の城下町として栄え、明治維新以降には、時代の先駆けとなる多くの人材を輩出。また豊田自動織機の誘致が工業都市としての発展につながり、現在はトヨタ関連企業(デンソー、アイシン精機、豊田自動織機、トヨタ車体、トヨタ紡織等)が軒並み本社を構える自動車工業都市として活気に満ちあふれています。「市の花:杜若」「市の木:クスノキ」」を制定。

また、伊勢湾岸道にある「刈谷ハイウェイオアシス」は、TDL、USAに次ぐ集客を誇ると言われ、連日多くの人でにぎわっています。

キャッチフレーズは「人が輝く 安心快適な産業文化都市」

明治22年(1889)、町村制の施行により碧海郡刈谷町・逢妻村・小山村・重原村・元刈谷村・一ツ木村・境村・下重原村・高棚村が発足。

1890年、高棚村から榎前村が分立。 

1891年、碧海郡境村から東境村が分立。高棚村から下重原村が分立し、半高村、重原村となる。

1906年、碧海郡境村、東境村、一ツ木村、逢見村が合併し富士松村が成立。 高棚村、小垣江村、野田村、半高村、榎前村の一部合併し、依佐美村となる。

1906年、碧海郡刈谷町、逢妻村、小山村、重原村、元刈谷村が合併、改めて刈谷町が発足。

1950年、刈谷町が市制を施行、刈谷市が発足。

1955年、碧海郡依佐美村の大部分と富士松村を編入。

マンホールには、市の花で天然記念物の「小堤西池のカキツバタ」が描かれています。(カラーマンホールは、ハイウェイオアシス内、市内中心部に設置)

カラー小サイズ

雨水

展示マンホール

昭和26年(1951)10月26日制定の市章は「「雁」と「8」をモチーフにしたデザインで、「まさに雁が羽ばたき、飛び出さんとする形」をとったものです。また「8すなわち八は古来、末広がりといわれ、将来ますます発展する」という意味。8の上の部分がひらいているのは躍動をイメージさせます。「雁八」は「かりや」で「刈谷」の象徴となっています。」公式HPより

雨水

防火水槽

「小堤西池のカキツバタ」が描かれたデザイン消火栓。右上のシンボルマークは「K」を未来に向かって羽ばたく鳥と重ねて図案化したものです。

デザイン仕切弁

デザイン空気弁

仕切弁

泥吐弁

市章付き側溝蓋

2013年に刈谷城築城480年の記念キャラクターとして誕生したマスコットキャラクター『かつなりくん』。城づくりとヤリ集めが趣味の元気で負けず嫌い!鬼日向と呼ばれた刈谷藩初代藩主水野勝成公と市の花カキツバタがモチーフの天文2年(1533年)生まれの男の子です。丁度お披露目のときに居合わせたので、年齢も考えず(笑)子供たちに混じって記念の一枚。一般的に実物とイラストって見た目がかなり・・ですが、、珍しくイラスト通りの可愛いキャラでした。

刈谷ハイウェイオアシスのマスコットキャラクター『カーリー』。車をイメージした帽子と、刈谷市の花「カキツバタ」のお洋服がとってもチャーミングです。

市役所近く、アイリス通りの鉄柵のレリーフ「小堤西池のカキツバタ」

「刈谷城」

刈谷市御幸町の「明治用水頭首工」

市指定無形民俗文化財 野田八幡宮の「雨乞傘踊り」

撮影日:2011年9月19日(マスコットキャラクターのみ2013年11月6日)

 

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博物館明治村2丁目~Ⅹ~ in 愛知県犬山市

2016年08月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

2丁目エリアの最初は、明治18年(1885)に日下部村に建築された擬洋風庁舎建築「東山梨郡役所」。建物は地元の職人の手になるもので、木造桟瓦葺の外形に伝統技法を駆使して様々な洋風の意匠を施しています。ベランダの柱は凸面のひだをとった胡麻殻じゃくりの丸柱として、洋風の束ね柱を模し、壁面の出隅には黒漆喰を用いて隅石積の形を塗り出しています。

当時の山梨県令であった『藤村紫朗』は、地元に多くの洋風建築を建てさせたといいます。この役所もその一つで、山梨県には県令の藤村紫朗の意向で、当時としてはハイカラな、いわゆる擬洋風建築がたくさん造られました。山梨県の宝「藤村式洋風建築」。実際に山梨まで行って見てきましたが、素晴らしい建築物でした。 

長野県大桑村須原の中山道沿いに建てられた「清水医院」。江戸風情を残す宿場町で異彩を放った西洋医院の建設年は明らかになっていませんが、移築解体時には紙張り天井の下張りから明治36年(1903)11月1日付けの新聞が発見されたため、それ以降の年と考えられています。

千早赤阪府に明治30年(1897)頃に建てられた「千早赤阪小学校講堂」。1階を雨天体操場、2階を講堂として使用していた校舎で、当初は大阪市北区大工町の堀川尋常小学校にあったものを、同校の校舎が新築されるに際し、昭和4年(1929)に南河内郡の赤阪尋常小学校に移築しました。外周にはアーチが連続する幅一間(約1.8m)の廊下をめぐらしていて、明治時代の洋風校舎としての趣を持っています。

石川県金沢市仙石町に明治23年(1890)に建築された「第四高等学校物理化学教室」。棟札によると工事監督は山口半六、設計監理は久留正道。いずれも文部省技師として、多くの学校建築に携わった人物です。

「木造桟瓦葺きの平家建てで、階段教室のある中央部のみ軒高約7mの切妻屋根として、ひと回り大きく造られています。外壁は南京下見(なんきんしたみ)と呼ばれる洋風の張り方。縦長の窓は上げ下げ窓で、上部の欄間(らんま)は回転窓です。」公式HPより

会津若松市大町に明治40年(1907)に建てられた「旧安田銀行若松支店」。黒漆喰塗りの土蔵造りで、寄棟屋根に赤味がかった塩焼き瓦が葺かれています。

「室内は吹き抜けになっており、営業室の上にはギャラリーがあります。伝統的な土蔵造りの意匠をベースにしつつ、玄関ポーチや石積みの腰壁、営業室のカウンター、ギャラリーを支える円柱などには、洋風意匠が巧みに取り入れられています。」公式HPより

札幌市大通に明治31年(1898)に建築された「札幌電話交換局」。明治23年(1890)に東京-横浜間で始まった電話交換業務が北海道で行われるようになったのは、同33年(1900)のこと。これにあわせて、高価な交換機を火災から守るために地元産のを石材を用いて建てられました。

「札幌軟石」を用いて作られた、花の文様の胴蛇腹。

京都市中京区御幸通二条に明治3年(1870)に再建された再建された「中井酒造」。木造2階建ての桟瓦葺き。京都独特の低い軒にゆるい勾配のむくり屋根をもち、漆喰塗りの壁には虫籠(むしこ)窓が開けられています。

二丁目のラストは、京都市下京区七条通りの西本願寺前に明治45年(1912)に建てられた「京都七条巡査派出所」「敷地は西本願寺から無償で提供され、建築費は町内の寄附でまかなわれたといいます。建物は、木造の平屋建て。腰壁の上を赤レンガのタイル張りとし、モルタル洗い出しの白色の帯と、窓欄間(らんま)の額縁がアクセントになっています。屋根は下部を折ってなだらかな勾配とし、軽快な持ち送りで軒を受けています。隅切りを設けた玄関には、蒲鉾(かまぼこ)形の庇も。内部には詰所と宿直室の2室があります。」公式HPより

気が付けばあれほど賑やかだった園内には殆どすれ違う人の姿も無く、漂う空気までもが一日の終わりをささやき始めています。見残した場所、見ただけで終わった場所・・数え上げればきりのない「あれもこれも」を胸にしまい込んで、二度目の明治村に別れを告げます。

ラストは一丁目エリアにあった「第八高等学校正門」。高等学校令により名古屋に開校され、明治42年(1909)に建築。赤煉瓦と白御影石を積み、扉、柵に鉄材を軽やかに使ったデザインとなっています。

ゲートの横に設けられた記念撮影用のステージ。後ろの柵には「あなたを明治村は心から歓迎します」「博物館明治村」の金文字プレート。

訪問日:2011年6月4日

 

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博物館明治村1丁目~Ⅸ~ in 愛知県犬山市

2016年08月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

残された時間はどんどん少なくなってゆくのに、まだまだ回り切れない明治村一丁目。次は三重県名張市蔵持に明治21年(1888)に建てられた「三重県尋常師範学校・蔵持小学校」。この建物は当初、小学校教師の養成を目的とする三重県尋常師範学校の本館として津市に立てられ、その後、昭和3年(1928)に名張市に移築されて「蔵持小学校」として使われていました。

木造2階建て・桟瓦葺き、外壁は玄関部が漆喰塗りで教室部分は下見板張りになっています。設計は後に紹介する三重県庁舎と同じ『清水義八』。左右対称形のE字型の校舎の一部、特色ある中央玄関部と右翼の2教室のみが移築されています。

四本の円柱を立てた玄関のアーケード、柔らかな草花をモチーフにしたアーチ・・この玄関を潜る人たちの晴れがましさが伝わってくるようで思わず顔がほころんでしまう私。

右翼部分の通路

「明治天皇・昭憲皇太后御料車」が展示される「鉄道局新橋工場」ですが・・何故か建物の画像がありません(^^;)。

開村40周年を迎えた2005年、博物館明治村「鉄道局新橋工場内」に創建された「明治神社」。社殿は、明治神宮の本殿を10分の1に縮尺したものです。

宮城の守護と儀仗に当たる近衛局(明治22年に近衛師団と改称)の本部として明治21年(1888)に建築された「近衛局本部付属舎」。明治44年(1911)に師団本部が移転したため、皇宮警察本部がここに移り、坂下護衛所として使用されました。建物の基壇は石造で木造平家建ての瓦葺き、内と外の壁は白漆喰で塗られています。

ボンネットバスが「近衛局本部付属舎」の前を通り過ぎていきます。左手にポツンと見える小さな建物は・・・

東京都港区にあった「赤坂離宮正門哨舎」。明治41年(1908)に竣工した赤坂離宮(現迎賓館)の正門に、警護のために設けられた4基の哨舎(しょうしゃ)の一つ。哨舎は木造銅板葺き、八角形の平面で、洋風の正門にあわせて白壁に丸屋根、頂上に飾りをのせた洒落たデザインになっています。

神戸市元町に明治20年(1887~)頃に建築された「牛鍋 大井牛肉店」。こちらは今も現役で文明開化の象徴「牛鍋」を頂く事が出来ます。まぁ、肉と名の付く食材は全く受け付けない私には一生縁のない場所です(笑)

一階の入口と二階のベランダをアクセントとして、間口の狭い壁面に変化をもたせるとともに、西洋古典様式の柱と半円アーチの窓を配することで、全体を広く大きくみせています。

明治12年(1879)に建設された、現存する最古の県庁舎「三重県庁舎」。三重県令:岩村定高の発案による洋風県庁舎で、明治13年には明治天皇も行幸され、昭和39年(1964)まで使用されていました。

「明治政府が急速に地方行政の整備を進めると県令はこのような洋風庁舎を新築することが多くなりました。三重県庁舎は、間口が54mに及ぶ大きな建物で、玄関を軸に左右対称となっており、正面側に2層のベランダがめぐらされています。 中央に玄関と車寄を置き、前面にベランダをつけて左右対称とする構成は、明治9年(1876)に建てられた内務省庁舎にならったもので、明治初期の木造官庁舎の典型といえます。設計者は当時、県の土木掛にいた大工の『清水義八』。」公式HPより

明治期を代表するような美しい庁舎建築は、「坂の上の雲」など、数多くの映画やドラマのロケ地として使われました。時間が無くて殆ど走り見状態でしたが、十数年前の思い出が鮮やかに蘇る思いで深く懐かしい場所です。

残すのは明治村二丁目のエリアのみとなりましたが・・はてさてどこまで見て回れるのか・・と言うかすでに傾き始めた日差しの中でデジカメが役に立つのかどうか・・かなり怪しい時間になりました(^^;)

訪問日:2011年6月4日

 

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博物館明治村1丁目~Ⅷ~ in 愛知県犬山市

2016年08月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

順路の都合で一丁目エリアの最初は、明治の文豪である森鷗外と夏目漱石が、奇しくも相次いで借家した東京都千駄木町にあった和風住宅。「森鴎外・夏目漱石住宅」

明治20年(1887)頃、医学士中島襄吉の新居として建てられたものの、空家のままだったこの家は、明治23年(1890)に『森鴎外』が借家し1年余りを過ごしました。鷗外は、ここに移り住む同年の1月、処女作小説【舞姫】を発表。この家では【文づかひ】等の小説を執筆し、文壇に入っていきました。

明治36年(1903)から同39年までは『夏目漱石』が住み、漱石はここで【吾輩は猫である】【坊ちゃん】【草枕】を発表。文壇にその名を高めました。文中に描写された家の様子は、よくこの家の姿を写しています。

明治の偉人『西郷從道』と言って知らない人も、『西郷隆盛』の弟と言えばわかるでしょうか。明治13年(1880)に東京都目黒区上目黒に接客用に設けられた洋館「西郷從道邸」。従道は陸海軍の大臣を歴任していたため、在日外交官の来客も多く、明治22年(1889)には明治天皇の行幸も仰ぎました。

元老、海軍大臣、内務大臣、貴族院議員を歴任し、元帥海軍大将となった弟:從道。薩長同盟の成立や、江戸無血開城等々、明治維新の立役者でありながら、西南戦争の指導者となり城山で自刃した兄:隆盛。何が兄弟の運命を分けたのか・・・言葉にし難い何かが胸を揺さぶります。

東京目白の学習院敷地内に明治42年(1909)に建てられた「学習院長官舎」

学習院は江戸末期に京都で始まり、皇室や華族の子弟を教育する学校として明治10年(1877)に創立。明治17年(1884)、宮内省所管の官立学校として発足しました。設計者は、文部省技師『久留正道』。木造2階建ての和館と洋館が接続した形。洋館部分は、執務室・応接室・大広間からなり、公的なスペースとして使われていたようです。

当時の学習院院長は、第10代にあたる『乃木希典』。希典は日露戦争の終結後、明治39年(1906)に軍事参議官という閑職に補せられ、翌40年(1907)1月から学習院長を兼任することとなりました。

洋館の脇に取り付けられた玄関ポーチの屋根はトタン板葺きで、棟包みの前端には御紋章があしらわれています。また褄飾りの中央には学習院の校章である桜の絵柄が入れられています。

日本聖公会京都五条教会堂として明治40年(1907)に建設された「聖ヨハネ教会堂」。

中世ヨーロッパのロマネスク様式をベースに、細部にゴシックのデザインをまじえた外観が特徴。正面の左右には高い尖塔が建てられ、奥に十字形の大屋根がかかる会堂が配されています。

「十字形平面になっている2階の会堂内部は、小屋裏をあらわし、柱などの骨組みが細く見えることで、広さを感じさせます。京都の気候にあわせて使用した天井の竹のすだれが陽光を反射し、より開放的な印象に。」公式HPより

「トレーサリーのステンドグラス」は、昭和9年(1934)の室戸台風の来襲で破損しましたが、1998~1999の保存修理の際に復原されました。

明治村の中で最も南に位置する一丁目エリア。文明開化を感じる明治時代の建築物、まだ続きます。 

訪問日:2011年6月4日

 

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博物館明治村3丁目~Ⅶ~ in 愛知県犬山市

2016年08月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

東京都港区品川沖の第ニ台場の西端に建てられていた現存最古の洋式燈台「品川燈台」。観音崎(神奈川県)、野島崎(千葉県)につぎ明治3年(1870)に点灯された燈台で、石油による光で100燭光(光の強さの単位)、光源の高さは地上から19尺(約5.8m)海面上52尺(約16m)、光の届く距離は約18kmと記録されています。

「初期の洋式燈台は外国の技術援助によって造られ、品川燈台はフランス人技師ヴェルニーによって設計され、レンズや金属部をフランスから輸入しました。観音崎、野島崎燈台が関東大震災により倒壊したため、この燈台は現存するわが国最古の洋式燈台です。」公式HPより

海辺の漁村で育った私には「灯台の灯り」は格別な愛着を感じさせられる存在です。むろん、小さな漁村にこんなに立派な灯台はありませんが、それでも暗闇に海上を照らす光は何十年を経ても懐かしく温かい存在なのです。

三重県鳥羽沖の菅島に、燈台の灯りを管理する係員の住居として明治6年(1873)に建てられた「菅島燈台附属官舎」「官舎はお雇い外国人のイギリス人技術者R.H.ブラントンの指導により建設されたもので、イギリス積みのレンガ造ですが、正面にベランダを造る形は、東南アジアの植民地建築の様式。レンガ造の壁に木造の洋小屋を載せて桟瓦を葺いており、出入口は両開きのガラス扉に鎧戸を付け、窓は上げ下げ窓でやはり鎧戸を備えています。」公式HPより

青銅製で石造台座付きの日時計も、菅島燈台附属官舎本体の建造物と一体で重要文化財の付属物として指定されていますが、それは一丁目の三重県庁舎2階の展示場でないと見る事が出来ません。で、こちらは多分レプリカ(笑)

館内は常設展示場として利用されており、展示室に足を一歩踏み入れると突然!燈台レンズが点灯し、暗闇を一転光の世界に変えてゆきます。この回転レンズは、伊勢湾に浮かぶ「神島」の燈台で実際に使用されていたものです。

また菅島燈台附属官舎の前庭には、明治38年(1905)に中国大連口・南三山灯台に置かれていた「霧砲」が展示されています。濃霧で灯台の光が届きにくい時火薬を爆発させ、音によって船舶に陸地がある事を知らせたものです。

京都の医家で漢学者でもあった『福井恒斎』が、明治10年(1877)頃自宅の庭に建てたと伝えらる「茶室:亦楽庵(えきらくあん)」「利休以後、茶室は様々な形が創出されましたが、その多くはより小さな空間へと向かい、閉じられた形が継承されてきました。しかし、この「亦楽庵」では開け放つ試みがなされており、利休四畳半(本勝手)の茶室の一方に引き違い障子戸を建て、瓦を敷いた土間を介して庭との結び付きを求めています。」公式HPより

明治の元老『西園寺公望(1849-1940)』が余生を過ごす為に静岡市の清水港近く、興津の海岸に大正9年(1920)に建てた総数寄屋造りの別邸「坐漁荘」

室内に設置されている調度品は「坐漁荘」で実際に使われていたもので、フランスへ留学経験があった公望は、洋式の家具を愛用していたと言います。

ゆったりと肘掛椅子に寛ぎながら眺める美しく手入れされた庭・・・何とも贅沢な時間を過ごしていたんだなと改めて思わされます。

庭園は住友家御用達の庭師によるもので、これは公望の実弟が第15代住友家当主『春翠』であった縁からです。

これは建物内各所に設置されていた呼び出しボタン。ボタンを押すと、女中部屋の表示盤に部屋番号が表示され、女中や書生を呼び出せる仕組みです。これだけ広いと確かにこういう設備は必要でしょうね(^^;)

各国公使・各大臣を歴任し、伊藤博文のあとを受けて政友会を率い、内閣総理大臣を歴任。平民主義の政治姿勢を貫いたことから、“わが国の元勲”とも呼ばれた『西園寺公望』でしたが、引退後も公望の元には事あるごとに政治家の来訪があり、決して”ゆっくり”とは言えない晩年であったようです。

東京都墨田区向島5丁目、引越しを好む文豪『幸田露伴』が明治30年から約10年間、借家住まいをしていた「蝸牛庵(かぎゅうあん / カタツムリの家)」

明治を代表する作家『幸田露伴(1867-1947)』はたびたび引越しをする人で、新たな借家に移るたびに、住まいを替えるヤドカリをもじって「蝸牛庵」と呼んだといいます。向島の周辺でも3度引越しをしましたが、その中で明治初年(1868)頃に建てられたこの家は彼が最も長く住んだ家だそうです。

看板だけですが、”蝸牛庵”脇にある「入鹿村古墳」

三丁目エリアはこれで終わり、明日からは順路の都合で、一丁目エリアの紹介です。

訪問日:2011年6月4日

 

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博物館明治村3丁目~Ⅵ~ in 愛知県犬山市

2016年08月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

入鹿池を望む絶景とともに楽しむ名建築、3丁目エリアのスタートは東京都西巣鴨にあった壮麗なバロック様式校舎の本館の正面に設けられた「宗教大学車寄」。明治41年(1908)に新築された私立宗教大学(現 大正大学)の車寄部分を移築したものです。

明治村三丁目のお目当ては「異人館」。で、「異人館」と言うと真っ先に神戸異人館が浮かんでくるのは関西人特有なのかなといったら、「あなた特有ですよ」と御亭主殿に笑われました。何しろ初めてのデートが神戸異人館だったせいで、異人館=神戸という図式がいつの間にか脳内にインプットされていたようです(笑)

このベランダの独特のお洒落感とか・・ああ、あれから一体どれだけの歳月が流れていったんだろう(笑)

「神戸市生田区山本通に明治20年(1887)頃に建てられた「異人館:神戸山手西洋人住居」。創建当初は外国人の住居でしたが、明治29年(1896)から日本人『増田周助』氏の所有となり、その後再び外国人の手に渡り、フランス人貿易商『フェルナン・ブルム』が住みました。」

「主屋には二面にベランダが廻り、鎧戸付きの出入口や掃き出し窓が開きます。付属屋の室内は日本間で、窓の一部が和風になっていますが、全体は洋風にまとめられ、別館1階は使用人の住居にあてられました。主屋と付属屋を組み合わせた構成は、神戸西洋館の典型とされます。」公式HPより

兵庫県西宮市甲東園に明治44年(1911)建てられた「芝川又右衛門邸」。設計者は当時の京都工等工芸学校の図案科で主任を務め、のちに京都帝国大学建築学科の創設者となった『武田五一氏』

「建物は木造2階建てのスペイン瓦葺き。1階は開放的なベランダに、外へ張り出したボウウィンドウを設けるなど洋風の造りになっています。それとは対照的に2階は和風としつつも、 1、2階に一体感をもたせてまとめています。武田五一の設計による、和洋意匠を折衷した住宅の好例といえるでしょう。」公式HPより

「平成7年(1995)の阪神淡路大震災で被災し解体を余儀なくされ、同年に明治村に寄贈されました。2005年に博物館明治村の開村40周年記念として復原事業を起こし2007年に竣工。およそ100年前に設計されたものとは思えないモダンさに驚かされます。」公式HPより

異人館と聞いてもう一か所、懐かしく思い出すのが長崎居留地。次は「長崎居留地二十五番館」「長崎に3ヶ所あった居留地-東山手、南山手、大浦-のうち南山手二十五番地にあった建物です。明治22年(1889)に建てられた本館は三方にベランダをめぐらし、各室に暖炉を設けるなど、典型的な居留地住宅です。本館の外部に開く窓はすべて上げ下げ窓で、鎧戸が付きます。」公式HPより

「本館完成から20年後の明治42年(1909)、本館とは別の棟梁によって右奥に別館が増築。和室も取り込んではいますが、外観は本館に合わせて下見板張りの洋風に仕上げられています。」公式HPより

ちなみにお手洗いですが・・・ここまで美しい焼き物が使われていると・・・本来の用途に使うのが躊躇われてしまいます(^^;)

ドイツ・バロック風の瀟洒な建物は、東京都港区白金に大正4年(1915)に建てられた「北里研究所本館・医学館」

「北里研究所はドイツでロベルト・コッホに師事し、細菌学を研究した『北里柴三郎博士』が伝染病の研究所として創立したものです。建物は、ドイツ・バロック風を基調とし、腰折れ屋根やドーマー窓が特徴。細部には幾何学をモティーフとした意匠も見られ、新しい時代のデザインの影響も見え隠れします。顕微鏡による観察を良好な条件で行えるよう、光の変化が少ない北に面して部屋が設けられていました。」公式HPより

中央正面の段型切妻の意匠が特徴のドイツ・バロック風の建築。木造2階建て、腰折れ屋根の天然スレート葺きで、中央寄棟に小塔をのせています。

「東京大学で医学を修めた北里柴三郎は、ドイツに留学し、コッホのもとで細菌学を研究しました。柴三郎はそこで破傷風菌の培養、また破傷風の血清療法を発見し、学界に認められます。日本へ帰国した翌年、明治25年(1892)には福沢諭吉の後援を得て、日本初の伝染病研究所を設立。大正3年(1914)に同研究所が東京大学に移管されると官職を離れ、独自でこの「北里研究所」を創立しました。」公式HPより

訪問日:2011年6月4日

 

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博物館明治村4丁目~Ⅴ~ in 愛知県犬山市

2016年08月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

明治29年(1896)に尾西鉄道が開業するにあたり、アメリカのブルックス社から購入した「尾西鉄道蒸気機関車1号」

「「2B1」と呼ばれる前輪2軸、動輪2軸、従輪1軸のタンク式。大正14年(1925)に尾西鉄道と名古屋鉄道が合併した際に名古屋鉄道の所有になり、その後は新潟県の信越線二本木駅に隣接する日本曹達株式会社内の工場専用機として使用され、入替作業に従事しました。」公式HPより

明治10年(1877)、東京都蒲田から神奈川県川崎間の六郷川に、日本最初の鉄道複線用鉄橋として架けられた「六郷川鉄橋」。今は歩道橋となった鉄橋の間から見えるのは、広大な入鹿池のさざなみだけです。

展示機関車のすぐ近くに建つ「ハワイ移民集会所」。明治22年(1889)頃、キリスト教組合派の牧師であった『岡部次郎』により、ハワイ島ヒロ市ケヤベ街のワイルック川のほとりに建てられた教会です。正面入口の上にペディメントを飾り、妻壁の中央に三角形の屋根換気口を開けています。

アメリカ・ワシントン州シアトル市に1907に建てられた「シアトル日系福音教会(旧シアトル住宅)」。当初はアメリカ人の住まいでしたが、昭和5~14年代(1930~)に日系移民の所有となりました。アメリカに渡り語り尽くせない苦難の年月を経て手に入れた夢の一軒家・・しかし第二次世界大戦が起こり、彼らは家を追われ日本人強制収容に閉じ込められる事になります。

「歩兵第六聯隊兵舎」は、名古屋に置かれていた東京鎮台第三分営が、明治6年(1873)に名古屋鎮台に昇格した時に新しく編成された部隊です。名古屋城大手門の右手にある二之丸跡に兵営が設置され、営庭を取り囲むように兵舎が配置されていました。

「明治村へ移築されたのは第十中隊で、兵舎は約7割程度に切り縮められました。外観は漆喰壁に上げ下げ窓が並び、素朴な印象を与えます。しかし、構造はとても頑丈で、外側の柱はすべて土台から軒まで達する太い通し柱とし、壁の下地になる木摺(きずり)を斜めに打っています。」公式HPより

内務班の部屋には、現在も木製のベッドた机が展示され、当時の様子が再現されています。

ズラリと立てかけられた銃を前に思わず足が止まり、今この時の平和が幾多の日本人の命の上にある事に深く感謝し、黙とうを捧げてきました。

明治11年(1878)、名古屋城内に置かれた陸軍鎮台の附属病院「名古屋衛戍(えいじゅ)病院」。「衛戍」とは陸軍の駐屯のことを言います。正面玄関部分は、桟瓦葺きで緩い勾配のむくり破風、柱は胴部に膨らみをもたせた円柱が使われています。

建物は木造平屋建て、周囲に吹き放ちのベランダをめぐらせています。明治村には、管理棟の半分と病棟1棟、それらをつなぐ渡り廊下が移築されています。

建物に収蔵されている医療用X線装置「ダイアナ号」。洋風の名前ですが、実は大正7年(1918)に開発された高性能の国産機。我が国での医療用X線装置の本格的な普及に大きな影響を与え、海外にも輸出されました。どうせなら「アマテラス」とか「カグヤ」とか命名したら良かったのに(-"-)

明治23年(1890)、皇室から下賜された渋谷の御料地と建設資金10万円をもとに。宮内省技師『片山東熊』の設計によって建設された「日本赤十字社中央病院病棟」。分棟式の木造病棟9つのうちの1棟が明治村に移築されています。

「病院はドイツのハイデルベルク大学病院を模したレンガ造2階建ての本館が正面に構え、その背後に木造病棟が並び、それらが廊下で環状に結ばれていました。ハーフティンバーとドイツ下見板張りの外壁や、繊細な軒飾りや小壁の透かしが、建物の印象を柔らかいものにしています。」公式HPより

明治十年の西南戦争の折、敵味方の区別なく傷病兵の救護に当たった「博愛社」。日本政府がジュネーブ条約に加盟した時、「博愛社」は「日本赤十字社」と名を改めました。

病室内は清潔で、ふと振り向けばそこに静かに横たわる人の姿が見えるようで・・母の話でしか知らない「愛染かつら」の白衣の天使が、今にもドアをノックしそうです。

「桐や竹、鳳凰を浮き彫りにした彫刻の額は、病院の正面を彩っていた彫刻で、本館の破風に掲げられたものでした。意匠は、日本赤十字病院の立ち上げに一役買った、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)のかんざしの意匠をもとにしたといわれています。」公式HPより

食事休憩も無しで見学してきた4丁目、明日からは異人館を中心とした3丁目の紹介です((^^;)

訪問日:2011年6月4日

 

 

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博物館明治村4丁目~Ⅳ~ in 愛知県犬山市

2016年08月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

4丁目は趣がぐっと変わって、文京区本郷にあった理髪店「本郷喜之床」。 明治末年(1910)頃の建築で、明治後期から大正初期にかけての商家の形式をうかがい知れる建物です。

この建物の二階二間を明治42年(1909)から間借りして家族と生活していたのが、歌人『石川啄木』。処女歌集「一握の砂」はここで暮らしている時に出版されました。結核に冒され27歳という短い生涯を閉じた啄木ですが、その作品は今も不朽の名作として残されています。

一階部分には、新潟にあった「入村理髪店」から贈られた当時の鏡や椅子等が置かれ、ハイカラなバーバー(床屋)の雰囲気を伝えています。

大阪府池田市西本町猪名川の川岸にあった芝居小屋「呉服座」。もとは池田市本町にあった明治7年創業の戎座を、明治25年(1892)に西本町へ移築し、このときに名称も「呉服座」と改められました。

ちなみにその呉服座があった池田市の地名は、今も「呉服通り」と呼ばれています。

明治42年(1909)、近代郵便制度の事業拡大にあわせ、 伊勢神宮外宮前に建てられた現存する最大の木造郵便局舎「宇治山田郵便局舎」

「木造平屋建ての銅板葺きで、中央の頂きには円錐ドーム形の屋根、両翼には寄棟の屋根を伏せています。正面の左右には、小さなドームをのせた角塔が。外部の装飾は北欧で見られるハーフティンバー様式で、漆喰塗りと下見板張りの壁が使い分けられています。」公式HPより

「公衆溜」と呼ばれた円形ホール。天井の高窓から差し込む光がとても幻想的で、郵便局と聞いてもピンとこない程ですが・・・

展示された歴代のポストとか見ると「そうなんだ~、郵便局なんだよね」と妙に納得できます(笑)

こちらでは現在も郵便業務が行われているとこ事だったので、大切な人たちに記念の絵ハガキを投函してきました。

マンホール好きとしては「明治時代の水道菅」は、一応チェック(笑)

明治5年(1872)建築の「鉄道寮新橋工場(機械館)」「日本で初めて鉄道が走った新橋-横浜間の起点、新橋ステンショ(停車場)に機関車修復所として建てられました。「日本の鉄道はあらゆる技術をイギリスから導入して開発され、機関車や線路はすべてイギリス製。この建物も柱、外壁、サッシ等、すべてイギリスから輸入し、イギリス人技術者の指導の下に建てられたものです。」公式HPより

機会油の匂いのする工場内部には、日本の近代化の過程で使われた多数の貴重な機械類が展示され、「機械館」として活用されています。

明治政府が殖産興業を推し進めるため設置した政府直轄工場で、明治12年(1879)に製作された「菊花御紋章付平削盤」「側面に取り付けられた銘鈑から、工部省直轄工場である赤羽工作分局製作されたことが明らかです。岩手県の船舶修理工場向けに出荷され、のちに岩手県盛岡工業高校に引き継がれ、実習用として大切に保管されてきました。」公式HPより

綿紡績の最終工程に使用されていた「リング精紡機(明治26年)」。「前紡工程の練紡機(粗紡機)より供給された粗糸を引き伸ばして所要の太さにしたのち、撚りをかけて糸とし、その糸を自動的に巻き取る機械です。」公式HPより

日本の近代化の一端を担った「工部省品川硝子製造所」。「建物はガラス工場施設の一部で、当時は大きな窯場や倉庫が隣接していました。明治政府は、明治9年(1876)に民営のガラス工場、品川興行社を買い上げて国営工場としました。」公式HPより

機嫌よく建物内に入りかけたところで、時間的に無理が出そうだからと御亭主殿からストップが!確かに・・まだ半分も回っていないんですよね。

第四高等学校武術道場「無声堂」は、金沢の第四高等学校(現 金沢大学)に大正6年(1917)に建てられたもので、柔道、剣道、弓道3つの道場からなる武道場です。

「木造平屋建て、切妻造りの桟瓦葺きの建物。主屋正面の中央に切妻造りの玄関がつきます。主屋内部は剣道場と柔道場の2つに分かれ、両妻の落ち棟に師範台と更衣室、背後に浴室を設けていました。弓道場は主屋と土間を介してつながり、茅葺きの的屋を併設しています。柔道場では床の弾力を増すため床下にスプリングを入れ、また剣道場では音の反響を良くするため床下に共鳴用の溝を掘るなど、道場の床には工夫が加えられています。」公式HPより

日本の黎明期を支えてきた建物のアレコレ、何故か時間の流れが速くなってきたように感じるのは、多分気のせいでは無い筈(-"-) もう少し焦らなければまわり切れないかも・・・。

訪問日:2011年6月4日

 

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博物館明治村5丁目~Ⅲ~ in 愛知県犬山市

2016年08月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

自由に観光ができる事の幸せを噛み締めつつ(笑)、次に訪ねたのは倉津川に明治20年(1887)に架けられた石造アーチ橋「天童眼鏡橋」

「もともとの名は多嘉橋(「高橋」の表記とも)。幅7.7m、長さ13.3mの規模で、地元産の山寺石を積んで造られました。東北地方のアーチ橋は、当時の県令であった三島通庸による土木政策からも大きな影響を受けました。長崎の眼鏡橋が湾曲した床面を持つのに対し、この橋は、ローマの水道橋のような水平な床面になっています。」公式HPより

眼鏡橋から見る風景は、広大な天竜川ではなく明治村に作られた水辺公園。そこに、かって広島湾小那沙美島に明治37年(1904)に建造された「小那沙美島燈台」があります。

「円筒形の燈柱に燈篭と天蓋が据えられた、総高さ6.7mの鋳鉄造り。燈柱は直径50~60cmの円筒4本を積み重ねて建造され、工期短縮の必要と立地条件に適した構造となっています。上部の点検用デッキは6本の持送りで支えられ、燈籠には8面の曲面ガラスを組み込み、円錐形の銅板製天蓋と球形の冠蓋が載ります。」公式HPより

愛知県刈谷市にあった広瀬酒造の酒蔵「菊の世酒蔵」。もともとは明治初年(1868)頃に、現在の愛知県碧南市新川に穀物倉として建てられ、明治28年(1895)に刈谷市に移されました。

「木造2階建ての桟瓦葺きに梁間9間(約16.3m)、桁行き18間(約32.7m)、幅2間(約3.6m)の庇がついた大きな建物になっています。建物は、地上部分の半分と地下を鉄筋コンクリート造とし、明治村の収蔵庫として使用しています。(収蔵庫内部は非公開)」公式HPより

ここは二人にとって非常に思い出深い場所。良い思い出は忘れ難いものですが、悲しい思い出も何故か心に刻み込まれて、唐突に蘇ってくるものです。十数年前、ここで記念写真を撮ろうと、カメラをセルフにして、機嫌よく二人で並んだ瞬間・・・・・折からの突風でカメラが飛ばされ、それっきり壊れてしまったのです。この場所に立った瞬間、あの何ともやるせない涙が蘇ってきました(-"-)

西洋の教会と言うのは往々にして華やかで目を引くものが多く、遠目からでもその存在に目が奪われます。

続いては16世紀に来日したフランシスコ・ザビエルを記念し、京都・河原町三条に建てられたカトリック教会堂。近代古都で布教の拠点となった「聖ザビエル天主堂」

「フランスの篤志家から寄付を募って資金を集め、河原町三条にあった旧大名の蔵屋敷を購入してこの教会堂が建てられたのは明治23年(1890)の事。建設にあたり、図面はフランスから取り寄せたとも。設計は東京で在日宣教師の一人であったパピノ神父が担い、施工は信者であり、大阪で大工の棟梁をしていた『横田彦左衛門』と伝えられています。」公式HPより

正面の薔薇窓や内陣・側廊のステンドグラスは、色ガラスに白ペンキで草花模様を描いているのが特徴。外側に透明ガラスをはめ、二重になっています。ちなみにこの教会では、キリスト教の信者でなくても挙式が可能だそうです(^▽^)/

「室内は身廊(しんろう)と側廊からなる三廊式で、大アーケード、トリフォリウム、クリアストーリーの3層による典型的なゴシック様式。天井は交差リブ・ヴォールト天井で、4本の柱で囲われた1つの区画の天井を、リブで四分割する四分ヴォールトとしています。柱やリブにはケヤキ材が用いられています。」公式HPより

セレモニーにつきものなのは何と言っても記念写真。文明開化を象徴するハイカラなたたずまいの「高田小熊写真館」は、豪雪で知られる新潟県高田町に 明治41年(1908)頃に建てられたものです。

「明治時代の写真館といえば、文明開化の象徴のような存在でした。この建物も例にもれず、ハイカラな雰囲気の建物。施工はおそらく地元の大工によるものですが、洋風2階建てと全体的に簡素な造りながら、つい人目を惹く洒落た魅力があります。建築時、最も力を注いだのはスタジオの明かりでした。当時は強力なライトなどの照明設備がなく、スタジオ内での撮影も自然光が頼りの時代でした。そのためこの建物では、光量の変化が少ない北屋根の全面をガラス窓にする工夫が成され、昭和の時代まで写真館として営業を続けました。」公式HPより

とにかく広大で、とにかく見どころ満載の大明治のパノラマ、明日から四丁目です(*^^*)

訪問日:2011年6月4日

 

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博物館明治村5丁目~Ⅱ~ in 愛知県犬山市

2016年08月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

明治村5丁目、続いては、当時の日本橋区浜町から深川区安宅町間の隅田川に架かっていた「新大橋」の一部で「隅田川新大橋」。明治41年(1908)に起工され、同45年(1912)に開通。「明治村には、京橋浜町側に架かっていた約23mの部分が移築されています。設計監理は、まだ東京市であった頃に市の営繕(えいぜん)を担当していた技術者達によるもので『日下部辨二郎、樺島正義』らの名前が記録されています。鉄材はアメリカからカーネギー社の製品を輸入し、石材は常陸の石を使いました。」公式HPより

「端にある橋門構(きょうもんこう)には、鳥居型の主構の上に、大きな橋銘板を囲む妻飾りが載っています。竣工してからまもなく、橋を渡る市電が開通し、橋の役目はますます高まりました。大正12年(1923)の関東大震災では、他の鉄橋が落ちる中で、この新大橋だけが残り、避難の道として多数の人命を救ったといわれています。」公式HPより

かって東京駅の丸の内側広場の中央にあった「東京駅警備巡査派出所」。東京駅の駅舎の竣工に合わせ、警視庁の設計によって大正3年(1914)に竣工。

「構造は鉄筋コンクリート造で、隅切り八角形の平面、正面の半円のペディメント、欄間付きの上げ下げ窓にある純白の浅い庇、腰壁に帯状にめぐらせた白色化粧レンガなど、東京駅舎との調和がはかられていることが見てとれます。」公式HPより

巡査に捕まった被疑者を裁くのは、宮津市本町にあった「宮津裁判所法廷」。明治19年(1886)に竣工した地方裁判所の刑事法廷棟。裁判所全体は左右対称の厳格な構えのH型で、その右翼部が明治村に移築されました。

「明治初期において、上級審は洋風煉瓦造であることが多いのに対して、宮津裁判所は和洋折衷の木造建築です。瓦葺きの屋根や素地のままの外壁などには、伝統的な和風建築の様式が色濃く遺されたもの。和風の意匠をベースにしつつ、切石の基礎や法廷入口のアーチなど、随所に洋風のデザインが施されています。外観は入母屋造りの桟瓦葺きで、吹き放ちの庇が特徴的。軒下にガラス入りの高窓が開きます。外壁は、隅柱を除いた漆喰塗りで、腰部分は竪羽目の板張り。」公式HPより

裁判席から被告人を見下ろす造りの法廷内は天井を高くし、裁判官・検事・書記の席を設置する非常に高い上段と、被告人と弁護人が置かれる下段に分けられています。

裁判で有罪を申し渡された罪人が収監されるのは、江戸時代から続く監獄の形式に西洋技術をプラスした明治21年(1888)竣工の「前橋監獄雑居房」「前橋監獄は洋式の4方放射式建築で、中央に八角洋風の高塔を据えた建物でした。監房は平屋で、各舎房とも、2棟もしくは3棟が連続していたとされています。そのうちの1棟が、この雑居房です。」公式HPより

同じく罪人を収監するために明治40年(1907)に竣工した「金沢監獄中央看守所・監房」

「金沢監獄は明治5年(1872)制定の「監獄則並図式」に沿って造られた監獄。八角形の看守所を中心に5つの監房棟が放射状に並ぶ洋式の配置でした。そのうち中央看守所と独居房として使用された監房の一部分が移築されました。」公式HPより

「四角形の見張り櫓は、四方にガラスの建具をはめ、屋根は宝形で四辺の軒の中央を折り上げたもの。頂部の棟飾や腰壁のデザインなどに、工夫の跡が見られます。」公式HPより

「中央に置かれている監視室は網走監獄で使用されたものです。監視室からは各監房棟の中廊下が一望に見渡せ、外部については看守所上部の見張り櫓から監獄全域の状況を把握できるため、管理上非常に効果的でした。」公式HPより

広い中廊下の左右には、独居監房の重い扉が整然と並び、明治時代のリアルな囚人の暮らしを体験できます(^^;) 

囚人たちが熱心に筆を運んでいる小さなボックスは在監者(囚人)が家族などへの手紙を書く「書信室」。明治21年に竣工した東京集治監(旧小菅刑務所)内の様子を描いた絵画を基に再現されました。

「私は無実なのよ~~~!、あいつに嵌められたんだ!!出してよ~~~~っ!!」「あ~あ、又お隣の人が暴れてるわ。可哀そうに今夜も食事ぬきね。」・・・・こんな体験、したくないです(-"-)

明治村の撮影スポットとして人気のこの場所は、明治の五大監獄の一つに構えられていた「金沢監獄正門」で、明治40年(1907)の竣工。

「南北250m、東西190mを囲う長く高いレンガ塀の敷地に、唯一の出入口として設けられた正門です。西洋の城郭にも似たデザインで、赤レンガに白花崗岩の帯状装飾を入れたネオ・ルッサンス様式。アーチ型両開き鉄扉を備えた中央出入口と、楯式片開き鉄扉を付けた両脇出入口の三間構成になっています。移築されるにあたり、レンガ造から鉄筋コンクリート造に改められました。閉鎖的で威圧的な印象ながら、その造形の美しさに目を奪われます。」公式HPより

有難いことに、今もって縁のない世界を垣間見た大明治のパノラマ、まだまだ続きます(*^^*)

訪問日:2011年6月4日

 

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