2丁目エリアの最初は、明治18年(1885)に日下部村に建築された擬洋風庁舎建築「東山梨郡役所」。建物は地元の職人の手になるもので、木造桟瓦葺の外形に伝統技法を駆使して様々な洋風の意匠を施しています。ベランダの柱は凸面のひだをとった胡麻殻じゃくりの丸柱として、洋風の束ね柱を模し、壁面の出隅には黒漆喰を用いて隅石積の形を塗り出しています。
当時の山梨県令であった『藤村紫朗』は、地元に多くの洋風建築を建てさせたといいます。この役所もその一つで、山梨県には県令の藤村紫朗の意向で、当時としてはハイカラな、いわゆる擬洋風建築がたくさん造られました。山梨県の宝「藤村式洋風建築」。実際に山梨まで行って見てきましたが、素晴らしい建築物でした。
長野県大桑村須原の中山道沿いに建てられた「清水医院」。江戸風情を残す宿場町で異彩を放った西洋医院の建設年は明らかになっていませんが、移築解体時には紙張り天井の下張りから明治36年(1903)11月1日付けの新聞が発見されたため、それ以降の年と考えられています。
千早赤阪府に明治30年(1897)頃に建てられた「千早赤阪小学校講堂」。1階を雨天体操場、2階を講堂として使用していた校舎で、当初は大阪市北区大工町の堀川尋常小学校にあったものを、同校の校舎が新築されるに際し、昭和4年(1929)に南河内郡の赤阪尋常小学校に移築しました。外周にはアーチが連続する幅一間(約1.8m)の廊下をめぐらしていて、明治時代の洋風校舎としての趣を持っています。
石川県金沢市仙石町に明治23年(1890)に建築された「第四高等学校物理化学教室」。棟札によると工事監督は山口半六、設計監理は久留正道。いずれも文部省技師として、多くの学校建築に携わった人物です。
「木造桟瓦葺きの平家建てで、階段教室のある中央部のみ軒高約7mの切妻屋根として、ひと回り大きく造られています。外壁は南京下見(なんきんしたみ)と呼ばれる洋風の張り方。縦長の窓は上げ下げ窓で、上部の欄間(らんま)は回転窓です。」公式HPより
会津若松市大町に明治40年(1907)に建てられた「旧安田銀行若松支店」。黒漆喰塗りの土蔵造りで、寄棟屋根に赤味がかった塩焼き瓦が葺かれています。
「室内は吹き抜けになっており、営業室の上にはギャラリーがあります。伝統的な土蔵造りの意匠をベースにしつつ、玄関ポーチや石積みの腰壁、営業室のカウンター、ギャラリーを支える円柱などには、洋風意匠が巧みに取り入れられています。」公式HPより
札幌市大通に明治31年(1898)に建築された「札幌電話交換局」。明治23年(1890)に東京-横浜間で始まった電話交換業務が北海道で行われるようになったのは、同33年(1900)のこと。これにあわせて、高価な交換機を火災から守るために地元産のを石材を用いて建てられました。
「札幌軟石」を用いて作られた、花の文様の胴蛇腹。
京都市中京区御幸通二条に明治3年(1870)に再建された再建された「中井酒造」。木造2階建ての桟瓦葺き。京都独特の低い軒にゆるい勾配のむくり屋根をもち、漆喰塗りの壁には虫籠(むしこ)窓が開けられています。
二丁目のラストは、京都市下京区七条通りの西本願寺前に明治45年(1912)に建てられた「京都七条巡査派出所」。「敷地は西本願寺から無償で提供され、建築費は町内の寄附でまかなわれたといいます。建物は、木造の平屋建て。腰壁の上を赤レンガのタイル張りとし、モルタル洗い出しの白色の帯と、窓欄間(らんま)の額縁がアクセントになっています。屋根は下部を折ってなだらかな勾配とし、軽快な持ち送りで軒を受けています。隅切りを設けた玄関には、蒲鉾(かまぼこ)形の庇も。内部には詰所と宿直室の2室があります。」公式HPより
気が付けばあれほど賑やかだった園内には殆どすれ違う人の姿も無く、漂う空気までもが一日の終わりをささやき始めています。見残した場所、見ただけで終わった場所・・数え上げればきりのない「あれもこれも」を胸にしまい込んで、二度目の明治村に別れを告げます。
ラストは一丁目エリアにあった「第八高等学校正門」。高等学校令により名古屋に開校され、明治42年(1909)に建築。赤煉瓦と白御影石を積み、扉、柵に鉄材を軽やかに使ったデザインとなっています。
ゲートの横に設けられた記念撮影用のステージ。後ろの柵には「あなたを明治村は心から歓迎します」「博物館明治村」の金文字プレート。
訪問日:2011年6月4日