車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

絞りの町・有松の町歩き~其の二 in 愛知県名古屋市緑区

2016年08月05日 15時00分00秒 | 日本の伝統・芸能・技の美

ご亭主殿が熱心に読んでいる駒札の建物は「竹田庄九郎邸」

有松まちづくりの会HPには「竹田家は、有松絞の開祖竹田庄九郎の後裔で300年以上の伝統を持ち、有松における代表的家系の一つです。主屋は、木造切妻造二階建、桟瓦葺、平入りですが、明治から大正にかけて屋根を上げ、しっかりした2階形式にし、表側に下屋(庇)を付設し土庇にしたり、出格子窓を造り~後略」と記載。

ひさしに乗せられているのは明治期のガス燈。当時の商家の繁栄ぶりを細かく今に残すとして、名古屋市有形文化財に指定されています。

再び足を止めて見入っているのは、名古屋市指定文化財「岡家住宅」。

現地案内には「江戸時代末期の建築で、当時は丸屋丈助の店として、小田切春江の錦絵にも描かれています。敷地は奥行が深く、主屋は木造切妻造二階建、桟瓦葺、土庇付の建物で、二階窓は優美な縦格子、塗篭漆喰塗になっています。」

私はと言えば、ついつい足元に目がいってしまう・・これはもうマンホーラの宿命のようなもの(笑) まぁ、有松町と言っても昭和39年(1964)に名古屋市緑区に編入されてるからね・・運が良かったら有松町時代の鉄蓋が無いかと期待したんだけどね(^^;)。で、唯一発見したのがこのCCBの角蓋。

意図的だとしたら凄いし、偶然の産物ならなおさら凄い!見事な絞り柄です!

有松宿の昔を偲ばせる町並みは本当に見ごたえがあり、いつもの如く時間を忘れ、ついでに足の痛さも忘れさせます(^^;) 多分、後が大変だろうなぁ・・と、少しむくみ始めた足元に目をやれば、今度は有松絞りをモチーフにした観光ルートの案内プレート。

そのまま下を向いて歩いていたら、由緒ありそうな建物の絵と「しぼり問屋」の文字が書かれた東海道観光プレート発見。

そうして目を上げた先に、有松東海道に面して建つ「しぼり問屋:中濵家住宅」。それにしてもなんて見事なむくり屋根。

主屋の西隣に妻を見せて建つ2階建、桟瓦葺の土蔵。外壁は黒漆喰塗で、腰は洗出し目地切仕上げ。主屋とともに、有松の大規模な絞り問屋に見られる典型的な屋敷構えとなっており、主屋共々、国登録有形文化財の指定です。

中濵家正面の右側に江戸後期の歌人で国学者、神職でもある『加茂季鷹(かも の すえたか)』の歌碑を発見。

【 上代より 千世の契りや有松の  千入八千入 九九利染めけり 】

下ばかり見ていたら危ないよと注意されて目線を戻せば、とある建物の角に江戸時代末期の狂歌師『梅屋鶴寿』の狂歌碑を発見。歌そのものはごく普通なので、これは単に『梅屋鶴寿』の歌碑と言ったほうが妥当かな。

【  あり松の 柳しぼりの見世にこそ  しはしと人の 立ちとまりけれ  】

「東海道五十三次二代目の松」の碑・・肝心の松と来たら、幹と松葉が少々しか写っていない(笑)

町歩きで見かけた「中町山車蔵:唐子車」と「西町山車庫:神宮皇后車」

山車が奉納されるのは、有松地区の氏神「有松天満社」の秋季大祭。ああ、行く手に天満社の参道が見えてきました。

訪問日:2011年9月23日



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絞りの町・有松の町歩き~其の一 in 愛知県名古屋市緑区

2016年08月05日 14時00分00秒 | 日本の伝統・芸能・技の美

江戸時代より「有松絞り」で繁栄した有松宿。町並みには今も商家が軒を連ね、絞りの街として賑わっていた往時を忍ばせます。

『安藤広重』による東海道五十三次「鳴海の宿」。旅の土産物として「有松絞り」を求める人、またその様子を眺めながら行き過ぎる旅人たちの様子が生き生きと描かれています。

有松絞りで全国に知られる有松の町は、慶長13年(1806)に尾張藩の奨励により誕生。もともとこの一帯は辺鄙な場所で、尾張藩は治安維持の為に、有松への入植者を公募。その入植者の中に、名古屋城の築城にも関わった有松絞りの創始者『竹田庄九郎』がいました。

彼は、名古屋城の築城の為に九州から参加した人々の藍染絞りの着物に感動し、木綿で豆絞りの手拭を作り始めます。それが有松絞りの誕生の由来と伝えられるもので、『竹田庄九郎の碑』の手前にその仔細が記されています。

町歩きのスタートは、有松絞りの歴史や資料等が展示されている「有松・鳴海絞会館」。館内に一歩足を踏み入れると、「鹿の子絞り」や「唐松縫い絞り」のお洋服?をたすき掛けに羽織った、有松絞りまつりのマスコットキャラクター『しぼりーちゃん』がお出迎えしてくれます。

さて、それでは『しぼりーちゃん』に見送られて有松の街歩きに繰り出す事に。まずは絞り会館正面で一際目立つ白漆喰塗籠造の「服部家住宅倉」。

「服部幸平家は、服部孫兵衛家(井桁屋)の分家にあたり、住宅も服部孫兵衛家の東隣を占める。 倉は、服部孫兵衛家の屋敷の一部を構成していたものであるが、分家に際し、元の位置のまま、服部幸平家に譲られたものである。白漆喰の塗籠造、腰を海鼠壁とする外観は、東海道沿いの景観要素として貴重である」として、県文化財に指定されています。

服部家住宅倉の向かって左は「服部豊家住宅」。「寛政2年(1790)向かいにある大井桁屋から分家し、創業した絞問屋で、屋号を井桁屋といいます。屋敷地は、有松東海道に面し広い間口を有し、中央部に2階建の主屋を配し、井戸屋形、土蔵、門など併せて11棟が県指定文化財となっています。」現地案内より

黒漆喰の塗籠造り、屋根両妻に上げられた左右の卯建。これだけの卯建は美濃市で見た時以来かも。

多分・・井桁屋さんのウインドウに飾られていたと思う「桶染め絞り」に用いられた「桶」。

向かって右隣の土蔵は「県指定文化財:服部良也家:土蔵」。「服部家(井桁屋)から明治時代に東隣に分家した家柄。西側に建つ土蔵は、分家に際して服部家(井桁屋)から服部家(井桁一)に譲られたもので、二階建、切妻造、桟瓦葺で、建造は江戸末期と見られています。」

東海道沿いに面して軒を並べる、井桁屋、服部良也家母屋。

もう少し先に進んで見上げる高さの建物は、「有松山車会館」。有松には「布袋車」「唐子車」「神功皇后車」の3輌の山車があり、そのうち1台が定期的にこちらで展示されています。

そのおとなりは「橋爪合資会社」。有松商工会のHPによれば、大正10年(1921)創業の老舗で、時代に合った絞り製品の企画・製造・販売をしているそうです。

私たちが歩いているこの道は「東海道」。ほら、足元に「弥次さん喜多さん」のイラストタイル。東海道を歩いているんだなって思うだけで気持ちが昂るような気になるから人の心理って不思議(笑)

ああ、また卯建が素敵な建物が見えて来ました。名古屋市指定文化財の「小塚家」。主屋の外観は白漆喰の塗籠造、卯建、連子格子、海鼠壁、虫籠窓等々見応え一杯。

ご亭主殿は道々の屋根の上で睨みをきかせる「鍾馗様」を二体も見つけて、こちらもまたご機嫌(*^^*)

あっ!ねぇねぇ、屋根の上じゃないけど私も鍾馗様を見つけた(^▽^)/。でもなんで屋根から降ろされちゃったんだろう?

一足ごとに出会う家々の佇まい。何気なく入り込んだ路地の先に現れる由緒有り気な家屋。そのまま待っていると、粋な豆絞りの若い衆がひょいと顔を出して笑いかけてきそうな気さえします。

観光ルートに従って・・有松の街歩き~Ⅱ~に続きます(^▽^)/

訪問日:2011年9月23日

 

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桶狭間古戦場公園 in 愛知県名古屋市緑区

2016年08月05日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

有松の町歩きの後に立ち寄ったのは、名古屋市緑区桶狭間北3丁目にある「桶狭間古戦場公園」。

あれ、そういえば確か豊明市には「桶狭間古戦場伝説地」がある事で知られており、ご当地マンホールのデザインにもなっています。どちらにもその事を示す根拠となるものが有り、どちらの言い分にも頷けるものが有るのですが、その議論は本格的な歴史愛好家にお任せしましょう(〃∇〃)

永禄3年5月19日(1560年6月12日)、尾張国知多郡桶狭間において織田信長軍と今川義元軍が激突。2万5千人の大軍を率い尾張に侵攻した今川義元に対し、僅か4千人の兵を率いた織田信長が本陣を奇襲。今川義元は討ち取られ、合戦は織田軍の勝利に終わりました。

有松にあるこの地は、桶狭間の戦いで『今川義元』が討ち取られた最後の場所とも言われています。むろんこれにも豊明の桶狭間古戦場説があり、未だに解けない謎として残されています。

それはさておき、桶狭間古戦場公園の入口に立つのは槍の『織田信長』と、弓の『今川義元』

十七歳で家督を継ぎ、8年の歳月をかけて尾張統一を果たした『織田信長』この時二十七歳。迎えるのは「海道一の弓取り」の異名を持つ『今川義元』四十一歳。

桶狭間の戦い解説ジオラマ板

誰が手向けたものか「今川義元公」と刻まれた墓前には静かに香がくゆり、水が供えられています。もう一基には「駿公墓碣」の文字。いずれかが勝ち、いずれかが負けて滅びるのが戦国の世の習い。しかし、いずれの軍に属そうとも死者に対する悼みを大切にするこの国の民の心根が私には美しいものと思えます。

1本の枯れた「ねずの木」。傍らの説明には「ここにある枯れたねずの木は、今川義元が水を飲むために馬をつないだと言い伝えられ、ねず塚として残されてきたこと。またこの木に触れると熱病になると言い伝えられている。」

左の碑に刻まれた文字は不明。右は東海道と鎌倉街道追分の碑。

緑が一杯の桶狭間古戦場公園。ただしここへは徒歩で来ることをお勧めします。車で来てしまった私たち・・付近に駐車場も見当たらず、ご亭主殿は公園横に停車。折角の景色でしたが私一人での駈足散策となりました。

訪問日:2011年9月23日

 

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有松天満社 in 愛知県名古屋市緑区

2016年08月05日 11時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

名古屋市緑区有松に鎮座される「有松天満社」。御祭神は『菅原道真公』

「寛政初期に祗園寺の四世文章卍瑞により現在地に遷座され、文政七年に現在の八つ棟造りの社殿が建立されたと云われてる。天満社の山頂には、奉還に先立ち数千人より捧げられた詩歌文章が埋納されたことから「文章嶺(ふみのみね)」と称されている。」名古屋市公式観光サイトより

境内二の鳥居

二の鳥居左右より神域を守護されるのは、岡崎現代型狛犬さん一対。基本的にこのタイプの狛犬さんは紹介しないのですが・・・まぁ、折角なので

神池に架かる神橋

下界の明るさを遮るように大きく枝を広げる御神木の楠

長く急な石段参道。その左右には沢山の石灯籠や有松絞りの幟旗が奉納されています。

参道途中、山肌に抉られたような一画があり、注連縄が張られています。どういった場所なのか気になりましたが、特に説明はありません。

参道の先、御神門前左右より神域を守護されるのは岡崎型狛犬さん一対。吽形さんは仔狛の背中に手を、阿形さんは毬の上に手を重ねています。

お日様の日差しを一杯に浴びた拝殿。

拝殿近くより神域を守護されるのは、小さいながらも凛々しいお顔立ちの常滑焼狛犬さん一対。場所的に左右向かい合う形の画像は無理でした。

拝殿屋根には御神紋の「梅鉢紋」

留め蓋瓦には高く足を上げて飛び跳ねる飾り瓦の獅子一対。並べ方の所為ですが、楽しくてたまらないと言いたげに顔を見合わせて笑っておいでです。

一歩下がって拝殿前左右より神域を守護されるのは、昭和6年奉納の岡崎型狛犬さん一対。吽形さんの右足に仔狛が縋りついているのが可愛らしい。

拝殿の奥に八つ棟造りの御本殿と「鷽(うそ)」の像

天神様と言えばお牛様。道真公が丑の年(845)・丑の日・牛の刻に誕生された事に因むとも、また大宰府で生涯を閉じられた道真公の亡骸を牛車に乗せて運ぶ途中、牛が伏して動かくなくなりその地に埋葬された事から、牛は天神様のお使いであるとして天神社に祀られることになりました。

本殿近くにある「鷽」の像。公式HPには「鷽は道真公の愛鳥だったと伝えられている。ある時、道真公が大切な神事を行っていた際、無数の蜂が襲来。そこへ鷽が飛来して蜂をすべて食べ尽くしてくれた伝説から、鷽は「災いや悪事を嘘(鷽)に変えてくれる」と言われるようになった。これに因み、天満社では「ついてしまった嘘や災いを、真や幸運に変える縁起物」として祀り伝えている。」

参拝日:2011年9月23日

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 愛知県

2016年08月05日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛知県

愛知県(あいちけん)は日本列島の中央部に位置し、長野県・岐阜県・静岡県・三重県と境を接します。人口は東京都、神奈川県、大阪府に次いで4番目に多く、県庁所在地である名古屋市は中部地方・東海地方(東海3県)最大の人口を擁し、同地方における中心都市となっています。同市を中心とした中京圏(名古屋都市圏)は首都圏(東京都市圏)・近畿圏(大阪都市圏)とともに三大都市圏の一角を占めています。トヨタに代表される工業都市を中心に中京工業地帯を構成する工業県でもあり、年間製造品出荷額は48兆円に達し、44年連続全国1位の地位を保っています。県名は旧愛知郡に由来。自治体は38市7郡14町2村があり、「町」は「ちょう」、「村」は「むら」。「県の木:ハナノキ」「県の花:カキツバタ」「県の鳥:コノハズク」「県の魚:車エビ」を制定。

「県の木:はなの木」路上タイル。

キャッチフレーズは「逢い、知る、愛知」

明治4年(1871)、廃藩置県にともない、額田県、名古屋県を設置。

明治5年(1872)、名古屋県が改称、愛知県となる。同年11月の第2次府県統合により額田県を編入、ほぼ現在の県域が確定。

マンホールには「県の花:カキツバタ」を中心に、「県の鳥:コノハズク」がデザインされています。

昭和25年(1950)8月15日制定の県章は「「あいち」の文字を図案化し、太平洋に面した県の海外発展性を印象づけ、希望に満ちた旭日波頭(きょくじつはとう)を表しています。」公式HPより

空気弁

制水弁

愛知県工(愛知県工業用水):制水弁

中央に県章のCCB大型マンホール

愛知県警察マスコット『コノハけいぶ』。県の鳥「コノハズク」をモデルに、幅広く県民の皆様に親しまれるよう、「警部」の階級を用いて「コノハけいぶ」と名付けられました。一緒にいるのは愛知県交通安全キャラクター『シーベルちゃん』。交通安全街頭啓発活動などにも登場し、県民の皆様に交通安全を呼びかけています。

愛知安全なまちづくりシンボルマーク『アンキーくん』。安全で安心して暮らせるまちづくりのため、「お互いに心にカギを忘れないようにね」。

県営名古屋空港マスコットキャラクター『なごぴょん』。県営名古屋空港の開港 5 周年を機に誕生しました。

撮影日:2011年4月24日&2015年12月15日&

&2017年3月29日&2018年3月21日

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2018年12月14日、第9弾として全国60自治体で60種類(累計407自治体478種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「愛知県」のマンホールカードは、「メタウォーター下水道科学館あいち(愛知県下水道科学館)」でいただけます。

2018年に設置開始されたマンホールには「コノハズク」と「カキツバタ」がデザインされています。

「愛知県の鳥コノハズクと愛知県の花カキツバタに水の循環をイメージし、きれいな水のおかげで、動植物が住みやすい環境になりますようにと願いを込めてデザインされ、愛知県流域下水道のマンホールとして2018年に設置されました。 コノハズクは、声のブッポウソウの別名を持つフクロウ科の渡り鳥です。 カキツバタは、在原業平が知立市八橋でカキツバタの5字を詠み込んで「唐衣着つつなれにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思う」(伊勢物語)とうたったと伝えられています。 幸運を呼ぶ鳥と言われているコノハズクと幸運が来ると言う花言葉を持つカキツバタで縁起が良いデザインです。」

訪問日:2018年12月19日

 

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七所社(しちしょしゃ) in 愛知県名古屋市

2016年08月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

名古屋市中村区岩塚町に鎮座される「七所社(しちしょしゃ)」御祭神は『日本武尊(やまとたけるのみこと)、須佐之男尊(すさのおのみこと)、宇賀御魂尊(うがのみたまのみこと)、天穂日尊(あめのほひのみこと)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、宮簀媛命(みやずひめのみこと)、乎止与命(おとよのみこと)』。旧暦1月17日に行なわれる尾張三大奇祭の1つ「きねこさ祭り(名古屋市無形民俗文化財)」で知られます。

由緒「 尾張地名考に「岩塚村に延喜式の愛智郡御田神社、本国帳の従三位御田天神と あるは七社明神を言うなり」とあり、神社に祀られている神鏡に元慶八年(884) の銘があるところからこのころの創建と考えられる。尾張志に「熱田七社神を祀る故に社号を七社と言う」とある。天慶三年(940)平将門降伏祈願のために、熱田の宮の神々を勧請したと伝えられ、応永32年(1425) に足利尊氏の一族である岩塚城主吉田守重が社殿を修造した記録が残る。」

鳥居の先に、石造り連子窓型蕃塀

参道正面に「祭文殿」

祭文殿の後方、本殿向かって右手の玉垣の内に、日本武尊が腰をかけたと伝わる腰掛岩。案内に「景行天皇四十年~凱旋の時に大河の渡船を待つま、しばらくお腰を掛け給うた石なり」

「日本武尊腰掛岩」「二宮金次郎像」(^^;)

腰かけ岩の後方に岩塚という地名の由来となった古塚。案内に「境内に縦横26尺の塚あり。 そこに縦4尺ばかりの岩立てり。不生石と称し故に村名を岩塚という」

また祭文殿と本殿の間に保存された「ナギの神木」は、「齢千年近く太さ三抱余りもあり、内側が朽ちて空洞となって中から竹が生えていたが、近年枯れてしまって今は幹を残すのみである。戦国時代木下藤吉郎は、このナギの木の中から生えていた竹をいただいて刀の目釘に使って武運に恵まれたと伝えられる。また大正琴の創始者森田伍郎氏もこの竹をいただいて琴を造って大成功をおさめた。」公式HPより

「ナギの神木」を見守るように社殿を守護される狛犬さん二対。何があったのか、手前の一対の上には石灯籠が・・・亀の上とか、笠の上に狛犬と言うのは見かけますが、狛犬の上に石灯籠と言うのは初見かも・・

境内向かって右手奥に鎮座される「式内社:御田(みた)神社」。御祭神は『豊宇気大神』

由緒の中に「岩塚村に延喜式の愛智郡御田神社とある」と記載され、こちらが元宮的な位置づけなのか、その辺りの仔細は不明。

御田神社拝殿内に鎮まられる御本殿

「御田神社」の社殿前左右より神域を守護されるのは、名古屋市内ではあまりお目にかかりませんが、出雲丹後系の狛犬さん一対。久々にお会いすると新鮮です(笑)

境内末社「白山社、熊野社、石神社、若宮社、天神社、神明社」。かっては村内に別に社地を有し鎮座されていましたが、享保十九年(1734)に当社境内に遷座されました。祭文殿向かって左の末社:三社。

祭文殿向かって右の末社三社

末社前より三社の神域を守護されるのは、関西ではすっかりお馴染みの浪花タイプの狛犬さん一対。親しみを込めて「髭オヤジ」などとも呼ばれています(笑)

境内社

境内入り口近くに鎮座される境内社「上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)」。他の同名神社では、御祭神は『乎止與命(おとよのみこと)』となっていますが、こちらではどうなんでしょう?

手水舎右手で参拝者を出迎えてくれる撫で牛さん。いつもは全体像ですが、天神社もお近くに無い事なので、癒し系のお顔をアップで(^^♪

撫で牛さんの視線の先、境内三つの岩塚の上に鎮座される境内末社「厳島神社(弁天様)」。御祭神は『市杵嶋姫命』。

神楽殿後方に、熱田神楽の正統を継承してきた「神楽師の碑」。厳島神社向かって右手に「七所社縁起碑」

戦慄記念碑

訪問日:2017年8月8日

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御神名一口メモ

『乎止与命(おとよのみこと)』、尾張の開拓神であった天火明命の子孫で古墳時代の豪族・尾張国造の一人。

 

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